自宅では時折まことが、今の世界情勢のことを八重子に話してくれた。

 今のヨーロッパでの戦争には、まだ日本とアメリカは直接関係していない。ただ、イギリスそしてソ連と戦争をしているドイツと日本は同盟国である。

 日本はヨーロッパには関係していないけれど、重慶の蔣介石の政府と戦っている。重慶の政府も親日的な南京の国民政府も、どちらも自分たちこそ中華民国の正当な政府だと主張してやまないらしい。

 だが今やアメリカはその蔣介石政府に接近しており、アメリカとイギリス、蔣介石の政府、オランダなどが日本を経済的に封じ込めつつあるという。

 もちろん八重子はそのような話を聞いても、詳しいことはよくわからなかった。


 「こんなこと、僕が工部局にいるからこそ分かったことで、もし内地にいたのならばまったく何も知らずに、知らされずに生活していただろうね」


 「なんだかよくわからないけれど、今はマリア様にお守りいただくようお祈りするしかないですね」


 「そうだね」


 信もうなずいた。


 「こんな一触即発の状況でも、かろうじて僕らの生活は平和に過ごしてこられた。何かあったときにお守りくださるのも天主様のお恵みなのだけど、こうして何事もなく過ごさせていただいているというのがいちばんの恵みなのではないかな」


 「そうですね。それに感謝しかないですね」


 「そう、感謝だよ。自分のご利益ばかり願って祈るのでは、外教者の祈りと変わらないからね」


 「そうですね」


 「とりあえず今年一年は無事に終わりそうだ。いよいよ待降節に入ったことだし、今年一年無事過ごさせていただいたことに感謝しつつ来年も平穏で、そしてヨーロッパの戦争も無事に終結するように祈ろう。明日は久しぶりに教会に行けそうだ」


 ここのところ仕事が立て込んで日曜日に教会になかなか行けなかった信だが翌日が日曜日で、待降節第二主日となる。あと二週間と三日で、今年も降誕祭クリスマスを迎える。


 思えば去年の降誕祭は、二人はまだ別々に暮らしていた他人だった。それが今は正式の結婚はまだにせよ、ともに暮らしている。


 「来年の降誕祭には、もう正式に結婚していたいな。神のみ前で認められたい」


 信はそう言ったが、障壁は長崎の八重子の兄の竜之助の説得だった。目くじらを立てて反対しているというふうではないが、どうも正式に許可が下りない。八重子ももう未成年ではないののだが、だがやはり家長の許しがない婚姻は成立しない。八重子の戸籍は、今でも長崎にある。


 だが、すでにともに生活をしているという既成事実はあってこれも家長の戸主権を侵害しているが、それよりも正式な秘蹟としての教会での婚姻の秘蹟を受けていなければ教会では夫婦とは認められない。キリスト信者はこの世の法律と教会の掟と二つがあるのだ。


 「これも祈るしかないな。明日ごミサでよく祈ろう。だから今日はもう寝よう」


 土曜の夜にしては早い就寝だった。だが、実際は就寝するどころか、それから二人はいつもに増して深く愛し合った。

 

 待降節第二主日のミサに先立ち、祭壇の隅に四つあるろうそくのうち二つ目がともされた。これでろうそくのは二つになり、これが四つそろったら降誕祭を迎える。


 その日はミサは洗者ヨハネの宣教とイエズスの洗礼の箇所が福音書朗読では読まれた。要は「悔い改めよ」ということだが、ヨハネはイエズスを迎える準備をしていたのである。

 この待降節の期間はこの時のヨハネのように、主の降誕を受け入れる準備をするため悔い改めるべきだというのが司祭の説教の要旨でもあった。

 その日はミサだけで帰宅し、午後はのんびりと過ごした。


 そして翌月曜日の早朝、上海中に鳴り響く激しい砲撃音で信も八重子も同時に目が覚めた。上海中に鳴り響いているのではないかと思われるほどの爆音で、町中が振動していた。

 飛び起きた信はすぐに窓の外を見た。外はまだ真っ暗な闇の中にあった。時計を見るとまだ四時半過ぎだ。

 断続的に砲撃の音は響く。どうも港の方から聞こえてくる。ただ、楊樹浦のような近くの港ではなく、川向うのバンドのあたりからだ。

 船の警笛の音も聞こえた。

 信はすぐに寝巻の和服からいつもの出勤着に着替えた。


 「今聞いてくるから、君は絶対に外に出ないように」


 そしてそのまま信は、官舎と同じ建物の中にある工部局の事務所へと飛んでいった。

 もちろん、八重子はそのあとも眠れるはずもなく、ただ布団の上に座って震えていた。砲撃音はまだしばらく続いていた。だが、その音がこちらに近づいてくるという感じはなかった。

 やがて外はゆっくりと白み始めた。信が戻ってきたのは、もうだいぶ明るくなってからだった。その時にはもう、砲撃音はやんでいた。


 「大変なことになった」


 戻ってきた信は、玄関のドアを入ったところで茫然と立っていた。八重子は慌てて駆け寄った。


 「どうしたのですか? なにがあったの?」


 「先ほどの砲撃は、わが帝国海軍の軍艦がアメリカとイギリスの軍艦を砲撃していた音だそうだ」


 「なして? なして日本がイギリスやアメリカのふねば砲撃すっと?」


 「詳しいことはまだわからない。とにかく確認してくる」


 残された八重子は、とにかくラジオをつけてみた。鳴りだすまでかかる時間がじれったかったが、それでも雑音が聞こえるだけで何の声もなかった。まだ朝が早くてラジオ放送は始まっていないようだ。

 だいぶたってから放送時間になったようで、固定してある大東放送の日本語放送が聞こえ始めた。だが、ラジオは日常の番組を流すだけで、必要な情報は何ら伝えられなかった。

 だが、もうすっかり外も明るくなった六時半ごろ、急にそれまでの放送が打ち切られた。

 しばらく沈黙の後、アナウンサーのトーンが変わった。


 「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」


 同じことをもう一度繰り返した後、


 「今朝、大本営陸海軍部からこのように発表されました」


 で、臨時ニュースは締めくくられた。


 「なお今後重要な放送があるかも知れませんから聴衆者の皆様にはどうかラジオのスイッチをお切りにならないようお願いします」


 おそらく日本の放送協会の原稿をそのまま読んでいるのだろう。六時といえば三十分前だ。それは日本時間であろうが、少なくとも共同租界のうちこの虹口地区は日本との時差はない。

 そのあと、すぐに信が帰ってきた。


 「ラジオは聞いたかい?」


 「ええ。今」


 「これは大変だ。今、この下の呉淞路は大騒ぎになっている。たぶん。呉淞路だけではなく、上海中が大騒ぎだろう」


 「今朝の砲声は?」


 「まだ詳しいことはわからない。わかったら知らせに来るから、とにかく官舎の外に出ないようにね」


 それだけ言うとまた、信は仕事場に戻っていった。

 入れ替わるように、官舎の中の婦人会の成員数人がやってきた。


 「木下さん。皆さん集まってます。その方が情報も早く入るでしょうから」


 それももっともなので、婦人会の集会室に行っている旨の置き書きをして八重子は出かけた。官舎の外ではないので、信の言いつけに背いたことにはならない。

 官舎中の和服姿の夫人が集まって皆でラジオに耳を傾けていたが、やはり日本国内の放送のような最新の詳しい情報についての臨時ニュースは望めるべくもなかった。


 「皆さん、呉淞路の方が騒がしいですわ」


 一人の婦人がドアの外から言うので、皆は一斉に外が見える窓へと殺到した。

 路上では多くの装甲車や軍用トラックがまるで行進のように列をなしてゆっくりとブロードウェイ・マンションの方へ進み、どのトラックもその荷台には兵士が詰まっていた。

 そればかりではなく多くの歩兵が列をなして、ゆっくりと走る軍用トラックとともに、大きな海軍旗を先頭に同じ方向へと向かっていた。海軍陸戦隊の兵士たちだろう。

 その沿道には多くの日本人居留民たちが出て、万歳を叫びながらその兵士たちを見送っている。兵士たちの列は途切れることなく、あとからあとから北の方からやってきた。

 沸き上がる歓声と万歳の声はいつまでも続き、上海の空に響いていた。


 「皇軍兵士たちがついに川向うに行くんよ」


 一人の婦人が興奮気味に叫んだ。


 「ついに米英に虐げられて家畜同然の待遇を受けていた、善隣の『支那』の人たちを解放しに行くんだわ」


 「そう、今までひどかったですものね。あのパプリック・ガーデンの入り口には<犬と『支那人』入るべからず>って看板があるんでしょ。『支那人』を犬扱いよねえ」


 それは事実に反することを、八重子は知っている。いつの間にかそんなありもしない看板が存在するという虚偽の情報が浸透している。だが八重子はその場の雰囲気に合わせて、何も言わずにいた。


 「私たち居留民の保護が目的の兵隊さんたちが、『支那人』までをも保護して米英や重慶の政府の圧政から解放するなんて素敵なことじゃない? 皇軍兵士、万歳!」


 八重子の周りの婦人たちも口々にそう言って両手を上げ、万歳の叫び声を繰り返した。


 「「「大日本帝国、万歳!!!」」」


 何が万歳なのか八重子にはよくわからなかったが、周りがそうしている以上自分だけ突っ立ているわけにもいかず、一緒に両手を上げて万歳を叫んでいた。

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