ヨーロッパの戦局も収束どころかますます激化の一途をたどっているようだった。日本の同盟国のドイツは、イギリスばかりではなく今ではソ連に対しても戦端を開いていた。

 新聞やラジオでそういった情報は入るが、上海におけるまことと八重子の生活は平穏だった。


 教会にはここが共同租界になる前は元アメリカ租界だったこともあってアメリカ人も多く、またポルトガル人の姿もたくさん見受けられた。

 そんな教会の庭をプラタナスが埋める季節が再び巡ってきた。一度舞い落ちた枯葉を再び舞い上がらせて、木枯らしが吹く。

 ミサが終わって、信徒がその枯葉を踏んでぞろぞろと御聖堂から出て、庭を歩いていた。淡い陽ざしが注ぎ、空は何となく白っぽい。

 先に御聖堂から出た信は黒いマントを羽織り、女性会衆席から出てくる八重子を待っていた。やがて和服姿の八重子がそれと落ち合って二人で歩くと、信のマントの黒が一層引き立った。


 門を出て、停めてあった信のサイドカーのフロートに、八重子が先に乗り込んだ。


 「なんだか曇ってますね」


 八重子が空を見上げた。


 「うん。ちょっと風も強いね」


 信はにっこり笑うと、八重子をサイドカーに乗せてオートバイを発進させた。

 工部局官舎までいくらも距離はない。オートバイなら一分もかからない。官舎の裏口に着くと、二人してそれぞれオートバイやサイドカーから降りた。


 「じゃあ私、市場で買い物していくから」


 「あ、ちょっと待って」


 信が呉淞路の向こう側を指さした。


 「日本人クラブで何かやってるぞ」


 「本当だ。あ、そうそう、そういえば今日、何かバザールかなんとかセールとかやるって聞いてたわ」


 「じゃあ、二人していこうか」


 「ええ」


 オートバイは置いたまま信はマントを翻して、歩き始めた。すぐに八重子も追った。

 日本人クラブは呉淞路を徒歩で横断して文路の方へ行くと、すぐ左側にある。四階建ての堂々とした石造りの洋館で、かなり大きい。三角市場からだとちょうど対角になる。ここは五叉路なのだ。


 セールは「友愛セール」と銘打たれ、看板では横書きの「友愛セール」という文字の上に「YOU I  SALE」と書かれている。「友愛」と「You I」の音をかけたようだ。

 かなりの人でごった返していたが、当然のことながらみんな日本人だ。売っているものはいかにもバザールという感じの小物ばかりで、たいして興味をそそるものはなかった。

 ほかにはプロテスタントの教会の日本人牧師による説教会も、他の階では開かれているようだった。


 「出ましょうか」


 八重子が信を促して外に出た。雲が晴れて日差しは先程よりも明るくなっていた。


 「せっかくだからちょっと散歩して、それから映画でも見ないかい?」


 「賛成! 市場は明日でいいわ」


 市場は午前中しか開いていないので、映画を見ていたらもう閉まってしまう。

 その映画だが、八重子は長崎では映画などとは程遠い生活をしていたし、上海に来てからも『支那の夜』を見たきりだった。


 「何の映画?」


 「おととしのアメリカの映画なんだけど今すごく人気で、アメリカでは去年に半年もずっと上映され続けていたそうだよ」


 「半年も?」


 映画の上映期間は、封切りから四、五日というのが普通だ。


 「ここでももう三か月くらいやっているようだから、行ってみよう」


 「じゃ、その前に北四川路で食事ね」


 二人は歩いて北四川路まで出て、電車通りを北に向かって二、三分ほど歩いた。すぐに海寧ハイニン路との交差点で、その右向こうの角の東和ホテルの隣が前に『支那の夜』を見た第二歌舞伎座になる。日本人クラブからここまで歩いても七分くらいだ。

 そのあたりで適当なレストランに入り、信はハンバーグ、八重子はエビフライを注文した。


 映画館は今度は第二歌舞伎座ではなく、そこから海寧路を東へ二百五十メートルほど行った先の右、乍浦路が右側から海寧路にぶつかるその向こうの角にある別の映画館だった。わずかな階段の上の入り口の上には英文字で「HONGKEW CINEMA」とあり、その上の飾り窓の下には漢字で「虹口大戯院」と書かれてあった。

 入口の左にある看板には映画のタイトルが中国語で「乱世佳人」とあり、その下には英語の原題も書いてあったが日本語はなかった。


 七割方の人の入りで、アメリカ映画とあってアメリカ人と思われる西洋人が多く、日本人の方が少なかった。

 映画が始まる前に女性の声でアナウンスがあった。まずは英語で何か言っていた後、日本語になった。


 「爆弾テロ防止のため、着席後は椅子の下をお調べください。不審なものがありましたら手を触れず、係員までお願いします」


 「いやな世の中だ」


 信はそういながらマントを採ると、たたんで膝の上に置いた。念のため二人とも椅子の下を見たが、何もなかった。

 だが、実際に数カ月前に蘇州川のそばで日本軍の歩哨の兵士が銃撃を受け、蘇州川に落ちて死亡した事件があったばかりだ。銃を乱射したのが誰かわかってはいないが、中国人の抗日組織だということでもうほとんど決まりとなっている。

 テロは朝鮮の独立運動組織も起こし得るが、それなら歩哨の一兵士などは狙わないだろう。実際八重子が上海に来るずっと前、もうかれこれ十年近くたつが、朝鮮独立組織によるテロが天長節式典中の新公園で発生し、その時狙われて爆死したのは日本軍の司令官の大将だったという。


 とりあえず警戒しながらも、映画の上映を待った。

 あらかじめ信は八重子に、座席の下にイヤホンがあることを教えてくれた。


 「このイヤホンから日本語の同時通訳が流れるよ。って、あまり上手じゃないけどね。おととしごろから南京路のグランド・シアターという映画館で始まったんだけど、やっとこっちでも真似事を始めたみたいでね。ま、質は保証しない」


 信は苦笑めいた笑いを見せた。

 その信は、イヤホンは使わないようだった。

 映画が始まった。まず何と言っても八重子が驚いたのは総天然色ということだった。八重子にとっては映画は白黒というのが常識だったのだ。

 そして映像は鮮明できれいであり、セットにしろロケにしろその壮大なスケールと豪華さには度肝を抜かれ、ストーリーなど二の次だった。

 だから、すべてのセリフをたった一人の女性がたどたどしく通訳する通訳イヤホンのことは気にならなかった。

 とにかくその映像の美しさと迫力に圧倒されて、途中休憩はあったにせよ四時間近くの長丁場もあっという間という感じだった。


 「すごかった」


 見終わった後、あまりの衝撃に八重子はほとんどそれしか感想が言えなかった。


 「あの火事のシーン、まるで本当に燃えてるみたいで、しかもあのびっくりするような音はテロが起こったのかと思ったくらいでしたわ」


 そういう八重子の顔は笑ってはいなかった。


 「確かに、こんなすごい映画を作る国なんだよ、アメリカは。あまり敵に回したくはないな」


 最後の方は、信は小声でポロリといった。


 「コーヒーでも飲んで行こうか」


 外へ出てから信は、そんなことを言った。もう夕刻も近い。


 「サンパウロでね」


 「もちろん」


 第二歌舞伎座の角から北四川路を少し北へ行った左側に、コーヒー店サンパウロがある。本当はコーヒー豆を販売する店なのだが、その一角を喫茶店のようにしている。その名が信の霊名である三木パウロに似ているので、八重子はお気に入りだった。

 南米風のしゃれた造りの店で、茶色系統の内装で統一されている。もちろんオーナーは日本人だ。

 通りに面して大きくガラス窓がとられ、北四川路の喧騒や時折音をたてて走る路面電車がよく見えた。

 そんなテーブルで二人はコーヒーを味わったが、どうも信の様子に暗い影があるのを八重子は見た。

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