そのあとで信が八重子を連れて行ったのは、留園という庭園だった。さすがに歩いていくと遠いというので、信は数多く客引きしている人力車の中から一つ選んで八重子とともに乗り込んだ。


 車は南下したあと出くわした小さな水路クリークに沿って西に向かい、橋を渡ってまたしばらく南に行くと、次の水路があった。町の周りを囲むお堀ほどの幅はないが、この町はあちこちに縦横に水路クリークが走っている。時折上に簡単な屋根のついた小さな船が水路を進んでいる。まさしく水の都であった。


 すぐに西に向かって町を囲む環濠を越えた。

 その手前には城壁の上に二層の楼門があって、城壁の上の楼門の下には多数の日本軍の兵士が見えた。銃を持ち、この門を警護しているようだ。


 「この町の橋ってみんな真ん中が高いのね」


 八重子がつぶやくように言った。たしかにまるで日本の神社の太鼓橋のように中央が高くなっている。橋はすべて石の橋で、ちょうど長崎の眼鏡橋のようだ。高くなった下はこれも眼鏡橋のようなアーチ状になっているが、穴は中央に一つあるだけだった。

 橋の上は中央に向かって階段になっていて、真ん中に人力車が通れるようにスロープもある。だがさすがに人を乗せたまま橋の中央まで昇るのは屈強な車夫でも無理なようで、橋の手前で二人はいったん降ろされた。

 からの車を橋の向こうに渡した後、再び車夫に促されて二人は車に乗った。


 「この橋の下を船が通るから、橋は中央でかなり高くなっているんだよ」


 信が説明するが、たしかに水面はそれほど低くないので、普通の高さの橋だとその下を船が通るのは不可能であろう。だから中央がせりあがっているのだという。

 こうしてさらに西に行くこと二十分ほどで、白い壁が見えてきた。

 これが留園という庭園だそうで、一般公開されている。

 園内はさまざまな楼閣や回廊、池があり、それを縫うように遊歩道があって多くの白い石が配置されている。

 およそ日本の庭園とは全く趣を異にするけれど、ろくに日本の庭園も知らない八重子には比較に終始することなく素直にその情趣を堪能できた。


 「本当にここ、『支那』なんですね。上海に来てから一年たちますけれど、なんだか今日、初めて本物の『支那』に来たんだって気がします」


 回廊を歩きながら池を見て、八重子はつぶやくように言った。回廊には透かし彫りの窓があり、景色も実に変化に富んでいる。


 「まるで『支那』の古い絵を見ているみたい」


 喜ぶ八重子を見て、信は満足げに微笑んでいた。

 次がさらに西へ歩いて五分ほどのところにあるお寺で、西園と呼ばれていた。本殿の大雄宝殿はまるで長崎の崇福寺だと、八重子はここでも喜んでいた。


 「ここのお寺が崇福寺に似ているのではなく、崇福寺が『支那』のお寺に似ているのだけどね」


 信は笑いながら言った。違うのは、壁が黄色だということだった。中国の寺はたいてい本堂も塀も壁が黄色だ。そこが日本の寺院との決定的な違いだった。


 「崇福寺、行ったことあるんですか?」


 「日本と上海を往復するときは必ず長崎から船出だから、長崎もだいぶ見て回ったよ」


 「いい町でしょ」


 「ああ、それに特に今はね、僕にとっても特別な町だ。君が生まれて育った町、君のふるさとだからね」


 「いつか信さんのふるさとの高松にも行きたいわ。ご両親にも会ってご挨拶をしたいし」


 信の両親とは、信がまず八重子との結婚を考えていることを両親に手紙に書き、喜んでくれた返事をもらった。そのあと信の手紙に八重子の手紙も同封してもらったが、つまりは書面での挨拶しかしていない。

 八重子も竜之助に手紙を書いた。竜之助の返事は信のことをあれこれ根掘り葉掘り聞くもので、まだ正式な許諾は得ていない。ただ、これまで竜之助と音信不通になっていたのは姉の貞子と重吉のせいだということは告げ、竜之助も重吉にはかなり怒っているようだった。

 その貞子と重吉は、八重子が出て言ったいきさつから当然のこと目と鼻の先の工部局の宿舎にいることは察していようし、日曜日に教会に来れば八重子をつかまえられることもわかっているであろうのに、一向に訪ねてくることも教会に探しに来ることもなかった。所詮はそういう人たちだったのだ。

 その後竜之助と貞子や重吉の間で何かやり取りがあったかどうかは、八重子は知らない。

 だが今、八重子は住んでいる上海とは環境が違う蘇州の古刹に身を置いて、日常のことは忘れて昔に浸る時間を過ごしていた。


 大雄宝殿では二人は仏像を見ただけで、参拝などはしない。二人ともカトリックの信者だからだ。

 その寺院の西にちょっとした庭園があった。小さな池があり、その池には中之島もある。そしてさらには小さな建物があって、曲がりくねった九曲橋でつながっていた。建物は尖がった屋根を持ち、二階建てとまではいえないものの屋根は二層になっていた。屋根の軒は婉曲して上へと沿っている。


 「あ、この建物」


 八重子は興奮気味に指さした。


 「あの映画に出てた」


 「ああ、そうだね」


 信も目を細めている。


 「湖心亭っていうんだ。上海にも似たような建物と庭園があるんだけど、そこは『支那』人の暮らす城内だから、あまり行くのは勧められないな。それよりこれから、最後にとっておきの場所に連れて行くよ」


 信はしたり顔にうなずいた。


 そこからさらに人力車で、今度は北に向かった。ここはすでに蘇州の城外だが、やはり何本もの縦横の水路クリークがあった。

 北へ向かうことは車で十分くらい、のどかな水田の中の田舎道だった。


 「本当に自然の『支那』ですね。上海は作られすぎてます。日本にいるのと変わらないし」


 車の上で八重子の言葉に、信はただ笑っていた。

 たしかに虹口地区はかつてアメリカ租界だった頃の建物がほとんどで、アメリカ人が建てた街に、事変でそれらが破壊された後に日本人が建てた建物が混ざっている。だからアメリカ風に日本風が混ざった町だ。それは全く中国の町とはいえなかった。

 今、二人は昔ながらの純然とした中国の田舎道を人力車で走っている。八重子にとって初めての経験だった。


 やがて行く先にちょっと小高い丘があって、その緑の上に塔が立っているのも見えた。丘といってもそう高くはなく、塔も北寺塔に比べたらかなり小ぶりだ。

 横たわる水路にちょっと大きめの橋が架かっていたが、ここもまた傾斜のある中央が高い石橋だった。信は人力車夫に、ここまででいいと告げた。

 その橋を見て、また八重子は興奮し始めた。


 「この橋も、あの映画で見たような」


 「そうだろう。これから行くところも記憶にあるはずだよ」


 山門をくぐりしばらく行くと、たしかに見慣れた光景があった。大きな平べったい岩があって、多くの物見客でにぎわっていた。


 「この岩の上で戦国時代の昔に多くの人が処刑されて血が流れたので、今でも雨が降るとその人々の血でこの岩は真っ赤になるんだ」


 「え、やだ。恐い」


 「なに、この岩の成分による化学反応だよ」


 信はまた笑った。

 その岩の向こうの小さな池の向この壁に赤字で大きく「虎丘 剣池」と書かれた文字は、八重子は間違いなく見覚えがあった。もっともその字が赤い色で書かれていたということは、この時初めて知った。

 その文字の左側に人が通る丸い穴があって、道はその向こうに続いていた。

 八重子は歩みを止めて佇んだ。そして信を見た。信は微笑んでうなずいた。

 この壁の上にも道があって、今も人々が歩いている。そして長谷さんと桂蘭さんも、この壁の上の道を歩いていた。

 八重子はうれしくなって、その壁の穴の向こうへと進んだ。そこにはまた岩の壁に囲まれた池があり、池の周りには奇岩が垂直に立っている。道は上り坂になり、丘の上へと進んだ。途中、いくつもの古い中国風の建物があった。

 八重子はほとんど無意識のうちに、この場所にいた映画の桂蘭と同じように『蘇州夜曲』を口ずさんでいた。


 頂上にはふもとから見えていた塔があった。ここでは北寺塔と違って中には入れないようだ。ここの塔は完全に石造りで、各層に屋根はない。


 「なんか、斜めですよね?」


 八重子はちょっと首をかしげた。


 「それが、この塔の特徴なのだよ。イタリアにピサの斜塔っていう斜めの塔があるんだけど、それになぞらえてこの塔は東洋の斜塔とか呼ばれているんだよ」


 「へえ」


 しばらくその塔を見てから、最初の黄色い山門のところに戻った。橋を渡ってもそのまま直進せず、水路に沿って信は左手、つまり東の方へ進むので八重子も従った。やがて、水路が別の水路とぶつかったところに小さな橋があった。やはり太鼓橋上になっている。

 その橋越しに、先ほど見た斜めの塔が丘の上にそびえているのが見える。


 「あああああ」


 八重子は絶句だった。


 「ここ、ここ」


 あの映画に出てきた橋であり、そしてあの感動の最後の場面のあの橋だ。あの橋の上で長谷と桂蘭は……。


 「信さん、ここ、来たかったの。ありがとう」


 八重子は涙を流さんばかりだった。

 映画と違うのは周りに結構人がいることで、やはり映画の撮影地を訪ねてきたと思われる日本人が多かった。

 そして、もう一つ大きく映画と異なる点があった。映画はすべて白黒の世界だったが、八重子は今その同じ風景を美しい天然色で見ているのだ。

 八重子は信とともに、その風景に見入っていた。


 そこから駅までは、人力車でも三十分くらいかかった。帰りの汽車の中で、向かい側の席には西洋人の老夫婦が座った。その夫が気さくに信に英語で話しかけてきた。それからずっと二人は話し込んでいたが、時々信が何を話しているのか教えてくれた。


 「この方たちは虹口に住むドイツ人だそうだ。ご夫婦でずっと上海に住んでいらしたそうだけど、今は住みづらいとおっしゃる」


 「どうしてです?」


 「今、ドイツはイギリスと戦争しているからね。そのイギリス人も数多く住んでいる上海で同居するのは大変なようだよ」


 ヨーロッパで大きな戦争が起こっていることは、八重子も知っている。主にドイツとイギリスとの戦争だが、そのドイツと日本は今や同盟関係にある。

 つまりヨーロッパは、大正のころの世界戦争のような感じになってきているのだ。その世界戦争はまだ八重子が生まれる前のことだし、日本は青島チンタオでドイツと戦ったということくらいしか知らない。だから、八重子の親などは世界戦争というよりも青島戦争と呼んでいた。

 今またヨーロッパで戦争が起こっているとはいっても、日本は巻き込まれてはいない。日本は中国との、正確には重慶政府との戦争で手一杯だ。


 そんなことよりも、八重子は目の前の老夫婦が仲睦まじいことに関心を寄せていた。

 上海に着いて、ドイツの老夫婦とは別れた。もう辺りは真っ暗だった。老夫婦は手をつないで夜の上海に消えていった。あの年になってたとえ夫婦であろうとも手をつないで外を歩くなど、日本人なら考えられないことだ。

 官舎に着くまでの人力車の上で、八重子はそっと信にささやいた。


 「素敵なご夫婦でしたね。あんなご老人になってまで仲のいい夫婦で、手までつないで、素敵なおじいさんとおばあさん」


 「そうだね」


 「ねえ、信さん」


 八重子はそっとささやいた。


 「あなたもあんな素敵なおじいさんになってね」


 「何を言うかい。まだ早いよ」


 信は笑っていた。だが、八重子の目は笑ってはいても少し真剣だった。幸いなことに暗い道を走っているので、お互いの顔はよく見えない。


 「きっとなると思うわ、あんな素敵なおじいさんに。で、約束、それまでずっと私をあなたのそばにいさせてね。そしてお互い老人になっても、あのご夫婦のように仲良くね」


 「もちろんさ」


 その声は微笑を含んでいた。

 上海の町は夜でもあちこちにネオンがともっている。そんな上海の町に、八重子は蘇州での一時の夢から目覚めて、現実に引き戻されたような気がした。

 遠くにブロードウェイ・マンションの明かりが見える。ここからだと側面を見ることになる。いつもはどっしりと胡坐あぐらをかいて鎮座しているように見えるブロードウェイ・マンションも、見る角度が違うとすごく細く見えることもあるのだなと八重子は実感した。

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