味噌汁の香りが、朝の台所に漂った。眠い目をこすりながら、八重子がその味噌汁とご飯を二人分よそる。


 「いつも早いな」


 寝巻の浴衣のまま、まことが寝室から出てきた。八重子は微笑みを送った。


 「僕がお茶を入れるよ」


 「あら、いいから信さんは座っていてください。私がしますから」


 台所と居間、寝室、洗面所、それだけが限られたスペースに、要領よく収まっている。


 「今日は朝から機嫌がいいね」


 「そりゃあ、楽しみにしてましたから、今日という日を」


 「久しぶりの蘇州だものな」


 「あら、私は初めてですのよ」


 「そうだったな」


 信は笑った。

 食事をしながら、窓の外に眼下に広がる上海の町を見た。曇った空の下に町はあった。


 「降り出さなければいいけど」


 「昨夜は蒸し暑かったですものね」


 「もう暑さを感じる季節だから早いものだ」


 一カ月ほど前に信が務める工部局の特別警視副総監が重慶側の中国人の抗日分子に狙撃され死亡するという事件が起き、それ以来信も大忙しだったが、ようやく今日になって平日だが休みが取れたので、信は八重子をつれて蘇州に遊覧に行くことになっていた。


 去年、まだ八重子が上海に来たばかりの九月、姉の貞子が弘子とともに八重子を北四川路の第二歌舞伎座に映画を見につれていってくれたことがある。

 あの時は人力車で海寧ハイニン路の方から行ったし、そこが北四川路だという認識はまだなかった。

 内地でも大流行の映画で、ちょうど上海に来る直前に長崎でも話題になっていた。『支那の夜』というタイトルだが、主演が満州映画協会の専属女優だということで満鉄上海事務所勤務の重吉が優待券をくれたのだ。しかしなにしろ大人の映画だけに幼い弘子には訳が分からないようで、弘子は途中から熟睡していた。

 映画は上海が舞台なのだが、主人公の長谷と中国人娘の桂蘭が結婚直後に蘇州の町を散策するシーンがあった。そして意表を突くどんでん返しの感動のラストシーンもまた蘇州だった。

 だからいつしか蘇州に行きたいと、八重子は信と同居するようになってからかねがね言っていたし、それをねだっていた。

 それがやっと今日実現するのである。

 

「もうすぐ夏ってことは、私が上海に来てから一年たつってことですね。『支那の夜』を見てからも一年」


 八重子が『支那の夜』で見たので蘇州に行きたいという話をすると、実は信もその映画を見たとのことだった。


 「君と出会ってからも、もう一年だ」


 身支度を終え、外に出ると信はすぐに呉淞路で走っているからの人力車を停めた。そのまま文路を走り、河南路に突き当たると右に曲がる。そうすればすぐに上海北駅だ。歩いたら二十分以上かかるけれど、車だと十分くらいで着く。

 かなり大きい駅だが、かつての駅舎は今は崩れかけた廃墟のようになっている。


 「昔は四階建ての赤レンガの、堂々としたイギリス風建築だったんだけどね」


 八重子が不審そうな顔をしているので、信がまたいつもの解説を始めた。


 「前の事変の市街戦で破壊されて、まだ再建されていないんだ」


 「こんなになる前の姿、見てみたかったですね」


 八重子は残念そうな声を発していた。

 そんな廃墟を通り抜け、ホームから汽車に乗り込んだ。


 「君と暮らし始めてから半年で、ようやく二人で汽車に乗るね」


 信はそう言ってただ笑っていた。

 汽車の中では向かい合いのボックス席で、二人は窓際に席を取れた。


 「半年前っていえば」


 八重子は少し笑った。


 「あの時のあなたの顔、よく覚えていますわ」


 「あの時?」


 「私が突然夜中に押しかけて来た時」


 「ああ、あの時は本当に驚いた。求婚して一応お受けする返事はもらっていたけれど、まさかその日のうちに来るとは」


 「迷惑でした?」


 「とんでもない。うれしかった」


 甘い笑みを信が見せた時、汽車は汽笛とともに走り出した。

 やがて汽車は郊外に出た。速さはかなり遅く、市街地の路面電車と変わらないくらいだ。

 しばらく行くと一面に広がる畑、それがどこまでも続く。平らではるか彼方の地平線まで広がっている。まさしく大陸という感じだ。この先はどこまで行っても全部中国なのである。

 そして朝早く上海を出たが、蘇州に着いたのは昼前。実に二時間半の汽車の旅だった。


 蘇州駅は古めかしい赤レンガの小さな駅舎だった。中央に突き出た入り口はアーチ状になっているが、二階部分は正面の窓のある壁以外はなぜか破壊されたままだった。

 その向こうの駅舎は三角の瓦屋根がついていたが、その瓦もかなり剥がれて落ちていた。

 一歩出るとまた人力車夫の客引きがすごかった。


 「さあ、どこから見ます?」


 八重子がそう言うと、信は地図を開いた。


 「とりあえずここから近い北寺塔から見ようか」 


 駅の正面は川で、その向こうに昔ながらの楼門が見える。


 「この川、どこに橋があるのかしら」


 八重子がつぶやくと、信は少し笑った。


 「これはねえ、川じゃないんだよ。蘇州の昔の市街地を囲むお堀でね、このお堀沿いに昔は高い城壁で囲まれていたんだ。今でも一部、その城壁が残っているところがあるはずだよ」


 そんな話をしながら信に誘導されて、お堀沿いに左の方へと歩くと、石の橋が見えてきた。その橋を渡って旧市街地に入ることになる。


 「これが蘇州! あの映画で見た蘇州!」


 八重子は有頂天になってはしゃいでいた。だが、彼女の目には、あの映画には決して映っていなかったものが嫌でも飛び込んできていた。

 橋を渡って歩くうちに、やたらと日本軍の兵隊が多いことに気づいた。時には軍用トラックが砂ぼこりを上げて二人を追い抜き、荷台にはぎっしりと兵隊が乗っていたりした。

 この蘇州の町に、数多くの兵隊を抱える日本軍が駐屯しているようだ。


 「この町って、昔から兵隊さんが多いんですか?」


 歩きながら八重子は信に聞いてみた。


 「いや、前に来たときはこんなことなかった。なんだか不穏な動きだな。上海のすぐそばにもう、日本の軍隊が充満している」


 前の事変を経験していない八重子はよくわからないので聞き流していたが、信は少し深刻な顔をしていた。

 北寺塔までは地図で見たら近そうだったが、歩いたら結構あった。もう二十分くらいたっている。だが八重子は苦にはならなかった。上海にはない物珍しい景色に見とれているうちに、二十分などあっという間だった。


 寺の入り口の門は地図によれば南側、つまり二人が歩いてきた方角とは反対側だった。


 「高ーい」


 塔の真下で八重子は空にそびえる塔を見上げた。巨大な八角形の塔は下から数えると九層、日本風にいえば九重塔きゅうじゅうのとうだ。


 「ブロードウェイ・マンションとどっちが高い?」


 八重子が上を見たまま聞いた。


 「実はほとんど同じなんだよ」


 「へえ」


 それを聞いて、八重子はなんだか不思議な気持ちになった。


 「これが寒山寺?」


 「え?」


 信の方が怪訝な顔をした。


 「これは寒山寺じゃないよ。報恩寺という寺の北寺塔だよ」


 「だって、あの映画で女主人公の桂蘭さんが『蘇州夜曲』を歌ったとき、“鐘が鳴ります寒山寺”ってところでこの塔が映ったわ」


 信は声を上げて笑っていた。


 「寒山寺はもっと南で、結構遠いね。唐の時代の詩に“姑蘇城外寒山寺”って歌われたくらいだから、あのお堀で囲まれた市街地の外だよ」」


 塔は各層に屋根がついている。濃い灰色の瓦屋根だ。それぞれの階の壁は黄色で柱が赤、基本は石造りだが柱や壁には木材も使われているようだ。

 中はやけに薄暗く、すぐに石の階段が始まる。内装は建築中のビルのように、かなり殺風景だった。

 一層昇るごとに、蘇州の町が低くなった。やがて限りなく平らな地面が、はるか下の方に広がるようになった。遠くは地平線となっている。


 「こっちの方角は低い丘がいくつかあるだろう?」


 「ええ」


 「実はあの丘さえなければこの方角にでーんとどでかい湖が見えるはずなんだよ。あの丘たちのせいで見えないね。なにしろ琵琶湖の二、三倍はある湖だから」


 「すごい……って、私、琵琶湖見たことないからよくわからないけれど」


 「そっか。そうだよね。えっと、大村湾が七つくらい入るかな?」


 そうなるともう、八重子は絶句だった。


 その塔の下のところの古い食堂で、昼食をとった。信は麻婆豆腐が甘すぎると言った。日本にはない料理なので、甘いと辛いのとどっちが本当なのかなど、八重子にはわからなかった。八重子は田うなぎを珍しがって食べていた。

 北寺塔の脇の道は、長谷さんと桂蘭が団扇うちわ売りの小さな子供たちに囲まれた場所だ。だが、団扇売りの子供はいるにはいるが、観光客を取り囲んで売りつけようとはしない。それよりもむしろ、車引きの客引きの方がすさまじい。

 あの映画ではほとんど人のいないような静かな田舎の町を主人公たちは散策していたが、銀幕の外の現実は平日だというのに多くの観光客でごった返し、その多くが日本人であった。

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