弘子が帰天してからというもの、姉の貞子と重吉の家の夕食はほとんど会話もなく、暗い雰囲気だった。

 中国人にとってはこの日は正月だが、日本人にとっては全くの平日である。この日もまたいつもと同じように無言のうちに食事を終えたが、箸を置いた時点で八重子は姉夫婦を見据えた。


 「姉ちゃん、お義兄にいさん、お話があります」


 「なんだね」


 重吉が不機嫌そうにそう尋ねた。

 八重子は息をのんだ。姉夫婦は何とも言えない威圧感で、じっと八重子を見ていた。


 「あのう、実は私、今日、ある方から求婚されまして」


 「え? なんて? 声の小さかけんよう聞こえん」


 貞子は詰め寄るように言った。


 「求婚されたって」


 「「はあぁ?」」


 突拍子もない叫び声をあげたのは、姉夫婦同時だった。


 「きゅ、求婚て……そぎゃんこつ……」


 貞子はそのまま絶句した。重吉がじろりと八重子を見た。


 「まだ君は上海に来てから半年もたっていないじゃないか。いつの間にそんな知り合いができたのかね。相手は誰かね?」


 「教会の人です」


 「そんで」


 貞子が話に割って入った。


 「あんた、毎週日曜日になるといそいそと教会さん来よったとね」


 「そぎゃんわけじゃあなか。教会にはちゃんとお祈りばしに来よったとよ。それにあの人、仕事が忙しかけん毎週は教会には来よらんかったけん」


 「その人は、仕事は何かね?」


 重吉が聞いた。


 「工部局です」


 「何? 工部局?」


 重吉の眉が少し動いた。


 「工部局の警察か?」


 「警察ではないって言ってました」


 重吉は少し考えていた。


 「それにしても、あまりにも突然じゃないか。それで、君はどうするつもりだ?」


 「お受けしてきました」


 「「ええっ?」」


 姉夫婦は、またもやそろって声を上げた。


 「八重子」


 貞子が刺すように言った。


 「なしてうったちにひとことの相談もなかったとね」


 「そうだとも、それでは事後承諾もいいところではないか。第一まだ十九の娘に、男を見る目があるはずがない」


 「私もう、二十歳はたちになりました」


 「たいして変わらん」


 「そうよ。そぎゃんどこの馬の骨ともわからん人と」


 「あの人のこと、そぎゃんふうに言わんでほしか。今度ちゃんと挨拶に来るって」


 「我われに挨拶に来たとて、君の竜之助たつのすけ兄さんはどう言うだろうか。竜之助さんが家長だろ」


 「姉ちゃん」


 八重子は、貞子の方を見た。


 「そのあんちゃんのこつばってん、なして兄ちゃんから手紙が来んとね?」


 一瞬貞子は口ごもった。


 「そりゃ忙しかとじゃろ。出しとらん手紙は届かん」


 「こっちから出した手紙の返事も来よらん」


 貞子が急におじおじし始めた。


 「こん間康子姉さんから手紙ば来よって、そこには竜之助あんちゃんがなんぼ手紙ば出しても、私が返事ばよこさんっち言うてきたと書いてあったと、なんかおかしか」


 貞子が何も答えずにいると、重吉が落ち着いた態度で貞子に言った。


 「もういいだろう。出してあげなさい」


 「でも」


 「かまわん。もう弘子もいなくなったし」


 「え? それ、どういう意味……?」


 八重子が茫然としていると、貞子は席を立って、別の部屋から茶色の紙封筒を何通か持ってきた。それを八重子に恐る恐る渡すので、八重子はそれを手に取ってみた。自分宛だ。裏を返すと竜之助の名前がそこにあった。


 「ひどか……」


 八重子の手は震えていた。


 「どうせ早く帰って来いという手紙に決まっているから隠しておいた。でももういい。わけのわからない人と突然結婚するなんてばかなこと言っていないで、船賃出してあげるから君はその手紙を読んだら早く内地に帰りなさい」


 八重子は涙目で、キリリと顔を上げて姉夫婦をにらんだ。 


 「姉ちゃんも義兄さんも、私を弘子のおりの女中にしか思ってなかった。それで弘子が死んだらもう用済み?」


 「八重子、それは言い過ぎたい」


 「とにかく、工部局はいかん。たとえ警察でないとしても、工部局だけはだめだ」


 心なしか、重吉の声は震えていた。

 八重子はそれには答えず、泣きじゃくりながら封筒を持って、自分の部屋へと階段を駆け上った。


 ベッドに腰掛け、八重子は震える手で竜之助からの手紙を読んだ。

 最初の手紙は八重子の手紙への返事で、去年の夏の終わりごろのものだ。次に、手紙を出したのに返事がないということと、さらに返事をよこせということと、すぐに帰ってくるという約束を破ったことを叱責する手紙、そして今年になってから、とにかく早く帰って来いという手紙の合計四通だった。

 康子からの手紙はたまたま自分が表にいた時に郵便配達夫が来て直接渡してくれたので、それで受け取ることができたのだ。

 八重子は涙ながらに竜之助からの手紙を読んだ。だが、今は帰るわけにはいかなかった。

 今は自分には信がいる。

 かなりの長い時間泣いた後、普通に信との結婚を義兄が許すはずもないと八重子は思った。説得する自信はない。だからといって素直に長崎に帰るわけにもいかない。今の自分には信がいる。


 かなりの長い時間泣きはらした後、何かを決意して八重子は顔を上げた。そして、大きな風呂敷に自分の荷物を積めた。長崎から来た時に持ってきたものだけだからそう多くはない。そのあと彼女は、ひたすら夜が更けるのを待った。

 貞子も重吉も寝静まったころ、八重子は大きな風呂敷を持って外に出た。

 冷たい空気が突然彼女の頬を打った。木枯らしが容赦なく吹き付ける。

 月のない夜なので暗くてよく見えない。だが、虹口クリークの橋を渡ると旅館が立ち並び、その窓の明かりで何とか道は見えた。

 一度だけ身震いをすると、右手で風呂敷を持ち、左手でコートの襟を抑え、八重子は漢壁礼ハンブリー路をひたすら駆けた。

 夜中の上海の町を若い女性が一人で出歩くのがどんなに危険なことか、上海に来て日が浅い八重子にも痛いほどわかっていた。でも歩いても五、六分の距離だ。その距離を一目散に駆けた。今は行かなくてはならない。

 ちょうど道の左側は日本領事館の警察部だ。治安は守られているかもしれないが、見つかったら自分が怪しまれる。だからとにかく駆けた。


 「マリア様!」


 心の中でそう叫びながら、ひたすら駆けた。すぐに三角市場の柱だけの大きな三階建ての建物が見えてきた。中は真っ暗だ。その向こうの呉淞ウーソン路に出ると、淡いオレンジ色の街灯があって、少しは明るかった。

 そこを左に折れ、背の高いビルを見上げた。いくつかの窓には明かりがともっていた。その工部局の宿舎に、信はいる。

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