第4章 静夜の思い

 信徒が多い長崎の浦上では、クリスマスの夜は皆天主堂に集まってミサを捧げ、一度家に帰って皆それぞれの家庭で飲み食いして騒いだものだった。そのあとにまた夜半のミサにあずかるのだ。 

 だが、にぎやかなのは信徒の家だけで、未信者にとっては静かな夜だった。

 翌日の二十五日は皆またこぞって日中のミサに与る。

 めぐりあわせでクリスマスが日曜日に重ならない限りはクリスマスイブは平日だが、クリスマス当日は祭日で仕事も学校も休みなので多くの人が教会に集まった。

 昭和になって以来、十二月二十五日は大正天皇祭で休日となった。いわゆる先帝祭で大正天皇の御命日だからだ。だから羽目を外して大騒ぎすることもできず、信徒もみな教会で厳かにミサに参列していた。


 上海はなおさら静かなクリスマスだった。

 信徒は教会に集まるが一般の日本人居留民にとっては平日で、むしろ新公園で行われる先帝祭の式典の方が重要だった。


 「来年の御降誕は川向うに行きましょう」


 クリスマスのミサの後で、まことはそんなふうに八重子に言っていた。


 「川向うはにぎやかですよ」


 たしかに蘇州川の向こうはもう日本ではないのだから、西洋人たちがイルミネーションをつけ、ツリーを飾り、一晩中大騒ぎなのだそうだ。それが年が明けてからもクリスマスは続くのだという。


 そんなクリスマスもあっという間に過ぎた。

 上海での正月は、静かな正月だった。さらに八重子の家では弘子の喪中でもあるので、ほとんど正月らしい行事はなしになった。


 だが中国の本当の意味での正月は、この年では一月の下旬に訪れる。

 風が強く、どんよりと曇った日だったが、虹口でもところどころにある中国人居住区で爆竹の音が鳴り響いた。この年の旧正月は月曜日であったが信は休みがちょうどとれたということで、前日の教会でのミサの後で八重子と約束した。


 昼下がり、北四川路は平日の顔だがそこから路地を奥に入ると、中国人の住民によって鳴らされる爆竹の音が絶えず響いていた。


 「なんか長崎に帰ったみたい。こんな寒い冬なのに、まるで真夏の精霊流しごたる」


 信は笑った。


 「いいものですね。無意識に出るお国訛り」


 「あ、やだ」


 八重子は慌てて口を押えた。


 「女の人の九州弁って、色っぽいんですよ」


 「もう、好かん」


 八重子は照れたように笑って、目を伏せた。ところどころで中国人同士が出会って、手を前で組んで「クンシー、クンシー」というように言って挨拶をしている。


 「精霊流しって、やはり爆竹を鳴らすんですか?」


 路地の方から聞こえ続ける爆竹の音に、信は八重子に聞いた。


 「こんなものじゃないですよ。もう耳が痛くなるくらいの爆音がずっと響くんですから」


 「一度見てみたいなあ」


 「初めていくときは、耳栓がいりますよ」


 「そんなですか」


 八重子はくすっと笑った。そして言った。


 「でも、本当は精霊流しって、悲しいお祭りなんです」


 「え、なぜ?」


 「実はその一年間に家族で亡くなった人がいる家が船の形を作った精霊船に亡くなった人の魂を乗せて海に流すお祭りで、港までその船が人々の間を練り歩くんです。今は本当に海には流さないんですけど、でもね、そんな悲しみを感じさせないくらいお祭りはものすごく華やかで、みんな大騒ぎして、爆竹もすごくて、そんでチャンコンチャンコンってずっと鐘が鳴らされて、船を担ぐ人はどーいどーいってずっと掛け声をかけ続けて」


 「なんだか本当に楽しそうですね。あ、当事者にとっては楽しくないのか」


 「でもやっぱり楽しかったです。小さいころからよく見に行きました。本当は仏教のお盆の行事だから信者の家は関係ないのだけど、でも楽しいし」


 また、すぐ近くで爆竹の音が響いた。


 「チャンコンチャンコンって鐘の音と掛け声を合わせて、“チャンコンチャンコンどーいどい、チャンコンチャンコンどーいどい”って、まだ子供だった頃に兄は精霊流しから帰る途中ずっとそればかり言ってて、そのうちチャンコンチャンコンがちゃんぽん玉になって、“ちゃんぽん玉どーいどい”ってなったりして」


 八重子は自分で言っておいて思い出し笑いのように笑いこけた。


 「ちゃんぽん玉って?」


 「長崎の麺料理のちゃんぽんに入れる麺玉のことなんです」


 それには信も声を上げて笑った。

 いつの間にか陸戦隊本部の脇を抜け、新公園の入り口まで来ていた。

 その入り口近くの池のそばのベンチで、二人は落ち着いた。 

 町の喧騒や爆竹の音などは、ここには入ってきていなかった。


 「この公園ははむしろ、新暦のお正月の方がにぎやかでしたね。日本人がたくさんいましたから。みんな神社に初詣に来てその帰りに遊んでいくんです」


 「そうだったんですか。私はお正月は家にこもってましたから」


 「喪中ですものね」


 「でも、お正月って不思議です」


 八重子は池の水面を見ながら言った。


 「太陽が昇って沈むだけの何も変わるはずもない一日なのに、なんだか空気が違って見えるし」


 「どう違って見えますか」


 「なんだか明るく感じません? 町全体がこう、輝いて見えるとか」


 信は八重子を見てほほ笑んだ。


 「そう感じさせるのは、新しい年への希望ではないかな?」


 「希望……ですか」


 「それに、もすぐ春が来るっていう希望もありますし」


 「春ですね。黄沙の季節」


 「よく知ってますね。上海の春は初めてのはずなのに」


 「だって、長崎でもそうですもの。空が黄色くなって、それはすごいんですから。そんな中で ハタ揚げするんです」


 「旗挙げ? 挙兵ですか?」


 「違いますよ」


 八重子は声を上げて笑った。


 「長崎ではたこ揚げのことをハタ揚げっていうんです」


 それから二人で笑った。信といる時が、一番心が和むのを八重子は感じていた。ただ一つだけ不安がある。もちろんそれは、真意は直接聞けないことだ。それは……


 ――信は自分のことをどう思っているのか……


 たしかにこうして時々誘ってくれる。でもそれは、暇つぶしの遊び相手なのか……それとも……


 「どうしました? 急に黙って」


 「あ。いえ、ごめんなさい」


 またしばらく、八重子は黙った。信の顔が真顔になった。八重子は思い切ったように信を見た。


 「あのう、一つ聞いてもいいですか?」


 「はい」


 「あなたはどうして私をこうして誘ってくれるんですか?」


 「なぜでしょうね」


 はぐらかされた。仕方なく、八重子の方が一人でしゃべった。


 「私が上海に慣れないから慣れさせるため? ひどい姉夫婦にこき使われているから、助けてくれるため?」


 「そんなことではない……と思います」


 「思います?」


 「いや、なんというか」


 信はうつむいてベンチの下の芝生を見ていた。


 「あ、ごめんなさい。別に問い詰めるわけじゃ」


 信はゆっくりと顔を上げた。真顔だがほんの少し柔和な笑みも含んでいた。


 「前に高松にいた時に教会の神父様に、なんで神父になろうと思ったのかって聞いたことがあるんですよ」


 「はい」


 「そうしたら、主のみ言葉が聞こえたような気がした、いや、気がしたというより、感じたとおっしゃってましたね。自分は招かれていると。それを召命というのだそうです」


 八重子は黙って聞いていた。


 「僕の場合は司祭にという召命ではないけれど、やはり感じたのですよ」


 しばらく八重子は信の次の言葉を待ったが、信はまた目を落して何か言いにくそうにしている。


 「何を感じたのですか?」


 八重子の方から聞いた。


 「こんなにぎやかな公園で、こんな明るい時間に、そんな雰囲気じゃないんだけど。でも優柔不断な僕だから」


 信は目を上げた。そして八重子を見た。


 「優柔不断な僕だから、今言わないとと思うんです」


 それでも信は、言葉を選んでいるようだった。


 「僕が招かれていると感じたのは……君です」


 いつもと口調が急に変わったので八重子は内心少し驚いたが、信の言葉の真意はとっさにはわからなかった。


 「ごめんなさい。突然だし、それに出会ってからまだ一年もたっていないし、軽薄かと思われるかもしれないけれど、半端な気持ちではないんだ」


 八重子の胸は急に高鳴り始めた。信が何を言おうとしているのか予想できたつもりだが、それが自分の思い上がりでないことを祈った。


 「この上海で、僕と二人だけの世界を築いてくれませんか」


 信は自分で自分のことを優柔不断といったが、その誠実な性格は八重子はもう十分知っているつもりだった。

 信は黙った。でも、視線は八重子からそらさなかった。八重子の周りの時間の流れが、一瞬止まった。すべての物音が消え、信の表情だけが視界の中にあった。

 八重子はゆっくりとうなずいた。


 「私でよければ、そばにいさせてください」


 言ってしまってから、八重子は急に恥ずかしくなって視線をそらした。

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