空模様が怪しくなり始めた。

 昼下り、家の前の歩道を掃いていた八重子はふと空を見上げた。雲は低く垂れこめ、空には灰色の模様を描いてゆっくりと移動している。


 「どうしました? 空を見上げて」


 突然の声にふとわれに返ると。いつもの郵便配達の若者が自転車に乗ってすぐそばにいる。


 「あ、いえ、その、雨が降りそうだなって」


 八重子にそう言われて、郵便配達夫もちらりと空を見上げた。


 「あ、本当だ。早く配ってしまわないと」


 八重子はほうきを杖のようにして、体重をかけた。


 「この町は、突然振り出しますね」


 「そうだ、内藤さん。内地からの手紙です」


 郵便配達夫は一通の封書を八重子に渡した。受け取ってみてみると、東京にいる従姉いとこの康子からだった。


 「康子姉ちゃん」


 八重子が手紙をエプロンのポケットに入れると、配達夫は自転車をこぎ始めた。


 「ご苦労様」


 八重子がその後ろ姿に声をかけると自転車の上で配達夫は振り返り、片手を上げてにこにこ笑ってすぐに走り去った。

 さっと路上に木枯らしが吹いた。もう十分に冬だった。八重子はセーターの上に来た綿入れの衿を手で合わせ、箒を壁に立てかけて中に入った。


 「八重子」


 奥から姉の貞子の声が聞こえてきた。


 「雨の降りそうじゃけん、洗濯物ば入れといてくれんね」


 「はーい」


 返事だけは立派にして、八重子はすぐに階段を上がって二階の自室に入った。そしてベッドの淵に座り、康子の手紙の封を切った。


――ハイケイ ヤヱチャンガシャンハイニイツテカラ、モウ五カ月ネ。ゲンキデクラシヨルカシラ。アノキノチイサカヤヱチャンガヒトリデシャンハイニイツタトキイタトキハ、ホンニビツクリシタトデス……


 尋常小学校中退の康子は、漢字はごく簡単なものしか書けず、カタカナしか読み書きできない。手紙のそのあとは日常のことをいろいろ書き並べてあった。


――ウタニキクキリノスマロナド、キツトステキデセウネ。イロイロシャンハイノハナシ、キカセテチヤウダイネ……

 

 手紙はそこで結ばれていた。ふと日本の香りがした。

 それから手紙を机の上に置き、八重子はベランダンへ出て洗濯物を取り込んだ。

 それが終わって廊下に戻り、ベランダの鍵をエプロンのポケットから出して、八重子はドアに施錠した。廊下では幼い弘子が一人で遊んでいる。この子が一人でベランダに出ると危ないので施錠したのだ。

 弘子は長崎にいたころよりも、ずっと元気になっていた。


 「弘子、何して遊びよっと?」


 八重子は洗濯物を抱えたまま、おどけて聞いた。


 「内緒」


 弘子はそれだけ言うとケラケラ笑った。

 階段を下りると、貞子が松の盆栽を持って歩いてきた。


 「八重子、こん盆栽ばベランダさん出すけん、ベランダの鍵ばくれんね」


 「はい」


 八重子がベランダの鍵を盆栽を持つ貞子の手の中に入れた。


 「雨の降らんうち買い物さん行ってきて」


 貞子はそう言って二階に上がっていった。


 三角市場での買い物が済み、あともう少しで家に着くころに雨が降り始めた。

 虹口クリークの橋を走って渡って家に向かうと、家の前に明らかに病院の車とわかる自動車が停まって、白衣を着た多くの人が出入りしていた。

 八重子は一瞬息をのんだ。そして再び一目散に駆けた。

 玄関に姉がいた。


 「姉ちゃん。どぎゃんしたと?」


 八重子は肩で息をしながら慌てて聞いた。


 「弘子が、弘子がベランダから落ちよって」


 「え?」


 「私が鍵ばかけ忘れたばっかりに」


 貞子は叫ぶように言うと八重子に抱き着き、そのまま泣き崩れた。二人の体を、降り始めた雨が容赦なくたたいた。

 すぐに白衣の男が二人、担架を担いで出てきた。


 「弘子!」


 貞子は叫んで担架の上に横たわっている弘子へすがろうとした。


 「姉ちゃん、いけんわ。今いらったら余計に悪かなるけん」


 八重子は貞子を必死で止めて、白衣の男たちに言った。


 「私が一緒に行きます。元看護学生ですから」


 「あ、そうですか。じゃあ、早く」


 「姉ちゃん。私来るけん、姉ちゃんはうちにおって」


 「私が来る!」


 貞子は泣きじゃくりながら頼み込んだが、白衣の男が優しく手で制して八重子を見た。


 「このかたは、取り乱しているから無理です」


 「姉ちゃん。家でしっかりマリア様にお祈りばしよって。ちゃんとお祈りばしよって」


 八重子はそう言って、一緒に車に乗り込んだ。そうして北四川路の病院に着くまで、八重子は車の中、弘子のそばで「天使祝詞」を唱え続けた。


 「めでたし聖寵満ち充てるマリア 主御身とともにまします……」


 そんな祈りを何回も唱えた。


 しかし祈りもむなしく、病院に着いたころにはすでに弘子は天国へと召されていた。


 しばらく貞子は半狂乱の日々が続いた。

 最初は自分が施錠を忘れたせいだと自分を責め、涙とともに弘子に謝り続けていたが、だんだんと言っていることがおかしくなってきた。


 「あんたが、あんたが買い物なんかに行かなければ」


 買い物に行けと言ったのは貞子である。


 「あんたが私にベランダの鍵ばよこさんかったら、こぎゃんこつにはなっとらんかった」


 挙句の果てにはもう言っていることが支離滅裂だった。そんな貞子の気持ちもわかるので、八重子はあえて何も言い返さなかった。

 教会での葬儀は義兄の重吉と八重子が中心となって執り行われた。

 小さな棺は花で満たされ、ラテン語の聖歌が堂内に響いた。

 八重子とて悲しみをこらえきれなかった。自分が手を引いて上海まで連れてきた子だ。しかし、弘子の存在が八重子を上海まで連れてきたともいえる。

 その八重子はやがて、新公園よりずっと向こうの日本人墓地で眠りについた。

 貞子もようやく落ち着き始めたが、それまでは家事はすべて八重子に回ってきて手も足も出ない忙しさとなった。

 

 あっという間に数週間がたち、クリスマスを迎えた。この年のクリスマスイブは火曜日だった。

 夕陽が路上に淡い光を落とし、冷たい風がさっと吹いて落ち葉を舞い上げた。そんな道を八重子は一人で歩いて教会に向かっていた。

 八重子にとって上海に来て初めてのクリスマスだ。そのクリスマスを迎えることなく弘子が帰天してしまったことは、ますます八重子の胸を締め付けた。

 教会の入り口で、八重子は信に会った。別に待ち合わせをしていたわけではないが、クリスマスなのだから信も教会に来るとは思っていた。

 八重子は半泣きになって、弘子のことを信に告げた。

 信は目を伏せて聞いていた。八重子が話し終えると、信は目を上げた。


 「そんなことがあったのですか」


 そして信は教会の庭で、御聖堂おみどうの方を向いてその地にひざまずいた。


 「弘子ちゃんもきっと今頃は天国で、主とともに御降誕を祝っているでしょう」


 そして十字を切って、弘子のために手を組んで祈ってくれていた。

 日が落ちるのが早くなったこのころなので、すでに夕闇が辺りを包み始めていた。プラタナスの枯葉に、信の体は埋まっていくように八重子には見えた。

 その時、クリスマスのミサを告げる鐘が上海の町に鳴り響いた。ミサに与る信徒たちがどんどんと教会に集まってくる。


 「行きましょう」


 信は立ち上がると八重子とともに、そんな人々の流れに加わって御聖堂の扉の方へ向かった。

 そんな信に八重子はそっと言った。


 「あなたはずっと私のそばにいてください」


 人々の話声やクリスマスの祝福の挨拶が飛び交う中、その声ははっきりとは信の耳に届かなかったようだ。


 「今、何か言いました?」


 「あ、いえ、何でもないです」


 やがて御御堂の中に入ると、二人はそれぞれ男性会衆席、女性会衆席へと別れて行った。

 もう一度鐘が高らかに鳴り、クリスマスの聖歌が流れて司祭の入場を迎え、クリスマスのミサが始まった。

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