この日は平日だったが、まことにミュージックホールへと誘われた。行き先は川向うだし夜だから、姉夫婦には本当のことは言えない。教会で知り合った女性の友達の家に招かれたといっておいた。信に言われていたので、この日は少しばかりドレスアップして八重子は出かけた。

 信も今日は蝶ネクタイなどをしている。


 その信のいつものオートバイのサイドカーに乗り、薄暗くなった町をガーデンブリッジを渡った。前に来た昼間よりも橋の向こうの人出が多い気がする。しかも、西洋人よりも中国人がやたらに多い。

 そんな人々をかき分けてオートバイは走り、三角屋根の高層ビルのサッスーンハウスまで来た。オートバイでなら本当に数分の距離だ。


 その頃にはもうすっかり暗くなっていた。オートバイを止めた信について、八重子はサッスーンホテルの角を曲がった、


 「ここが上海全体のいちばん中心の南京路ですよ」


 信のそんな説明よりも、八重子はすでに目の前に繰り広げられている光景にかたずをのんで、思わず立ち止まって目を見開いて見つめていた。


 「え? え? なにこれ?」


 もはやそれくらいしか、八重子は言葉を発することはできなかった。

 それは一面の光の海だった。色とりどりのネオンがずっとまっすぐに続く南京路の向こうの方まで、すべての空間を埋め尽くしていた。


 「日本でも東京や大阪に行けばこんな光景もあるのかもしれませんけど、なにしろ私は長崎から出たこともなかったので」


 「いやあ、洋館や四、五階建てのビルが並んでいる景色なら東京や大阪にはあるかもしれませんけど、これだけのおびただしいネオンがまぶしいところって、あるんでしょうかねえ」


 信でさえ知らないようだ。そして信が歩きだすので、八重子も慌てて追った。

 だが、信が回転ドアを押したのはそのサッスーンハウスだった。入口が南京路に面していたのだ。信はエレベーターのボタンを押した。


 「一階から四階まではいろいろな会社が入っていまして、五階から上がキャセイホテルなんですけど、もうこの建物全体がキャセイホテルといった方が通りがいいですね」


 そう言いながらも、信が押したボタンは八階だった。

 降りると絢爛豪華な洋風の内装だ。ガラス細工の装飾の壁、文様の入っ絨毯が続くホールに八重子は目を奪われた。


 信が案内したのは中国料理のレストランだった。テーブルには白いクロスがかけられ、テーブルの中央には一輪咲きのバラの花が刺さった花瓶が置かれていた。

 客は西洋人が大半で、中国人でも上流階級と思われる人々もいた。

 さすがにここでは虹口の食堂のように日本語で注文というわけにはいかなかった。


 「チンチャンクイユ、マーポートーフ、デェツォエ、ソマ」


 信が中国語で勝手に注文する。言葉が分からない八重子は任せるしかなかった。


 「ウェヨンサムヅ?」


 「プヨンラ」


 「ヨンピーチゥワ?」


 「プヨン」


 ウエイターが行ってしまってから、八重子は少し身を乗り出した。


 「今、何を頼んだのですか?」


 「来たらわかりますよ」


 信はそう言って笑っていた。

 はたしてきたのは魚料理、豆腐とひき肉の炒め物、チャーハンとシュウマイだった。どれも虹口の市場で売っているような庶民的なものではなく、また長崎の新地のレストランのものよりも高級感があった。

 食事の後、窓際まで歩いて行って二人で外を見た。なにしろ東洋一といわれている高層ビルの八階だ。窓の外は眼下にネオンの南京路を見おろし、少し目線をたどれば黄浦江となる。暗い水上のあちこちに停泊する船の明かりが、これもまたネオンのようだ。川の向こうは薄暗いが、手前側は光の洪水で、実に見事な夜景だった。


 「長崎でも稲佐山に登ればきれいな夜景が見られますけれど、ここまできれいではないです」


 八重子はそんなことを言っていた。

 折しも船の汽笛が長く尾を引いて、二つ聞こえてきた。

 

 そのあと、同じ階のバーへと八重子は誘われた。

 狭い入り口を入ると、すぐにグランドピアノが目についた。壁に沿ってステージがあり、ジャズバンドが演奏していた。メンバーは皆アメリカ人のようだ。

 店内は割と混んでいる。それだけに騒がしかった。さほど広くはない店内だが、たばこのにおいが立ち込め、照明は落とされていた。

 信と八重子は、入って突き当りのテーブルを取った。空席はそこだけだった。

 店内にはベースの響き、ドラムの音、サックスの旋律が宙を舞い、人々の歓声や手拍子が充満して独特の雰囲気だった。生まれて初めての体験に、八重子はただ身を固くしていた。


 一曲終わった。拍手の渦があふれた。すぐに次の曲が始まった。まずはサックスのソロ旋律にトランペットの音色が重なり、ドラムに合わせて軽快に曲は進んだ。


 「今大流行おおはやりの”In the Mood”って曲ですよ。アメリカの曲です」


 そういわれても、八重子には何のことだかわからない。


 「Oh, Paul!」


 その時、隣席の金髪の若い男が身をよじって信に話しかけた。


 「Joe! You are also.」


 気楽に信もそう話しかけた。


 「Is the usual hobby.」


 ジョーと呼ばれた男は笑いながら、すぐに元のテーブルに体を戻した。


 「アメリカ人です、気のいいやつですよ」


 「お顔が広いんですね」


 「いやあ、大したことはありませんよ」


 信は笑いながら言った。


 「この秋に日本はドイツやイタリアと同盟を結んでから、かつての同盟国だったアメリカやイギリスの日本に対する風当たりは強い。でもここは別世界です。音楽を楽しむところですから、政治の世界は関係ありません」


 カウンターの方から、頭の薄い中年男が来た。蝶ネクタイにベストの中国人のようだ。


 「マスター、元気かい?」


 信は日本語で話しかけた。


 「はい、おかげさまよ。それより大人ターレン、今日はきれいの人つれてランデブーか」


 信はそれには笑ってごまかし、


 「ワインをグラスで二つ」


 と、注文した。 


 「赤よろしいか、白か?」


 「赤」


 にこにこ笑ってその男はうなずくと、すぐに立ち去った。


 「あ、でも私、未成年……」


 「ここは日本じゃないんですよ。ましてや日本租界でもない。『支那』には未成年者禁酒法はないし、イギリスでは十八歳からお酒は飲めます」


 信はお構いなく笑っている。

 やがて運ばれてきたワインに、八重子も少しだけと口をつけた。

 そのまま、二人はしばらくジャズを楽しんだ。華やかな世界だった。陽気で愉快な世界だった。八重子の緊張も、だんだんと解けていった。

 次の曲で、場内の歓声が急に高まった。チャイナドレスの中国人女性が伴奏に合わせて独唱している。

 曲は八重子も知っている「何日君再来ホーリーチンツァイライ」で、中国語での歌唱だった。日本では渡辺はま子が日本語で歌っているので、それで八重子も知っていたのだ。

 ワインは一杯だけでやめた。それでもだいぶ酔ってきた。信はまるで何も飲んでいないようだったが、オートバイで帰るので一杯だけでやめておくと言った。もっとも、飲酒運転を禁止する法律もここにはないようだ。


 エレベーターの中で、八重子は信に聞いた。


 「あのう、木下さんはいつも工部局で、『支那人』の動向を探るようなお仕事をされているんですか?」


 酔っている時でなければ聞けないようなその問いに、信は笑った。


 「いいえ、そんなスパイみたいなことをしているわけじゃありませんよ。イじゃなくて、『支那人』のを扱っているんです」


 「パス?」


 「上海の『支那人』は租界を歩くときは、常にパスを携帯する義務があるんです。その発行の責任者です」


 「自分の国を歩くのにパスがいるんですか?」


 「上海は、少なくとも租界は『支那』であって『支那』ではないことになっている」


 「そうなんですか。長崎にも新地という『支那人』がたくさん住んでいる町がありますけれど、別に日本人が入ってもパスなんかいりませんけど」


 「それとこれとは質が違いますよ」


 エレベーターが一階に着いた。


 「やはりまだ長崎に帰りたいですか」


 「そうですね。でも、だんだん住み慣れてはきました。この町は長崎の人も多いようですから」


 「そりゃあもう、長崎県上海市ですよ、ここは」


 信はまた笑っていた。


 「なんか、もう少しいたいななんて。だって……あ、いや、なんでもないです」


 八重子は言いかけた言葉を引っ込めて、慌てて話題を変えた。


 「そういえばさっきのアメリカ人、あなたのことをポールって呼んでいませんでした?」


 「ああ、霊名が三木みきパウロなのでそう呼ばせているんです。」


 八重子は初めて信のクリスチャンネームを知った


 「私はマリアです。そういえば三木パウロって、長崎で殉教した二十六聖人の一人ですよね」


 「ああ、そうです。僕の霊名は長崎とゆかりがあるんだ」


 それを聞いて、八重子は照れたような表情を見せていた。

 それから少し外灘バンドの風にあたって酔いを醒まし、信のオートバイのサイドカーで帰途についた。

 ガーデンブリッジのたもとは、来た時よりもさらに多くの中国人であふれていた。


 「あのう」


 サイドカーからオートバイの上の信に八重子は話しかけた。


 「今日はこのあたり、人が多いのですね」


 「今日だけではないです。夜になると多くの『支那人』の苦力クーリーが集まります。仕事がなくあぶれた人が行きつくたまり場にもなっているんですよ。夜の町の女もいます。だから彼らはこのガーデンブリッジのことをため息橋とも呼んでいるんですよ」


 どうも、あのキャセイホテルのバーとは全く違う上海がここにはあるようだ。その二つの別世界がすぐ背中合わせに混在している町、それが上海なのだと八重子は実感した。


 信にはいつもの虹口クリークの橋のところまで送ってもらった。


 「もうすぐ待降節ですね」


 信はそれだけ言うと、住まいのある呉淞路の工部局官舎へと帰っていった。

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