まことの言葉通り、一週間後の日曜日に八重子が教会に行くと男性会衆の中に信の姿を見つけることができた。

 だが八重子は祭壇に向かって右半分の女性会衆の席に座らねばならないので、すぐに話しかけることはできなかった。

 間もなく司祭の入場となった。この、ミサの間だけでも上海にいることを忘れる八重子であったが、この日ばかりは信が気になって仕方なかった。

 そして聖体拝領も終わり、ミサの最後の閉祭の歌とともに司祭が退場すると、人々はひざまずいて祈ったり、ざわめきだして御聖堂おみどうからの退出を始めたりしていた。


 御聖堂の出口脇の壁にある小鉢の聖水で十字を切った八重子は、ベールを取って表へ出て思わず目を細めた。

 すでに風は肌寒く感じるほど冷たい。庭はプラタナスの落ち葉で黄色い絨毯が敷かれていた。そんな庭で八重子は足を止めて振り返った。

 ここの御聖堂は浦上の天主堂のような鐘楼はなく、正面ファサードの中央が高いバロック建築で、ステンドグラスの窓の上の三角屋根の破風にはイエズス会の紋章が刻まれている。どちらかというと浦上天主堂よりも大浦天主堂に似ているが頂上の鐘塔はなく、そこには十字架がそびえていた。


 八重子は御聖堂の入り口からどんどん出てくる信徒たちの中を、目で必死に信を探した。

 やがて、信徒に混ざって信が出てきた。彼もきょろきょろとしている。八重子を探しているのだろう。八重子はそんな信の近くへ歩み寄った。信はにっこりと笑った。


 「おはようございます」


 八重子のベージュのブレザーコートの方に、落ち葉がひらりと舞った。それを払いながら、信は言った。


 「よろしかったら今日は、一緒に食事をしませんか」


 「ええ、よろこんで」


 八重子は微笑みを返した。


 信のサイドカーに乗り、風を全身に受けて八重子は虹口の風景を楽しんだ。オートバイとサイドカーとの間は大きな声でないと聞こえないので、走行中はほとんど会話はできない。

 一度三角市場のところまで出ると電車通りを曲がらずそのまま直進し、すぐにまた次の電車通りに出た。信のオートバイはそこを右折した。

 同じように路面電車の線路が道の中央にあるとはいえ、こちらの道は最初の電車通りよりも少し狭い。それでも、八重子の目は辺りの風景に奪われた。

 なにしろ道いっぱいに広がる人の群れに電車も車も警笛を鳴らし続けて、その人の群れをかき分けてゆっくり進むしかない。信のオートバイもそうであった。だから八重子は、周りの風景をゆっくり観察する余裕があったのである。


 観察した景色は、もう本当に日本そのものだった。

 看板が日本語であるというだけでなく、町全体の雰囲気がほとんど日本だったのである。

 やがて信はすぐに小さな洋食の食堂のような店の前でオートバイを停め、八重子の乗るサイドカーに向かって言った。


 「このあたりでいいですか」


 そう言われても八重子は初めて来る場所であったし、信に任せるしかなかった。

 信はオートバイを停めて食堂に入った。


 「いっらしゃいませ」


 飛んできた声は日本語だった。中国人の日本語ではない。紛れもなく日本人だ。


 「空いているお席にどうぞ」


 何しろ八重子は上海に来てから初めて外食する。ところがその店が、日本人の経営する普通の日本の国内にあるのと同じ食堂だった。

 洋食屋だけあって店内はしゃれた造りだった。一つのテーブルを選び、信はオムレツを、八重子はビーフシチューを注文した。


 「最初の電車通りより、こちらの方が狭いけれどにぎやかなんですね」


 料理が来るまでの間に、八重子の方から話を始めた。


 「最初の電車通りって、あの市場のところのですか?」


 「ええ」


 「そうですね。あそこは呉淞ウーソン路っていうんですけれど、そこと今いるここが北四川きたしせん路で、たしかにこちらの北四川路の方が狭いけどにぎやかだ。でも、この二つの通りがいわばこの虹口の中心街でしょうね」


 「それでお店がいっぱいなんですね。しかも全部日本語」


 「虹口の中心でもあると同時にこのあたりが日本人街で、その中心でもあるんですよ。あくまでここは共同租界なんですけれど、ほとんど日本租界というような感じになってます」


 「それで日本人が多いのですね」


 「呉淞路と北四川路の周辺の住民は大部分が日本人です」


 「日本人が多いだけでなくて、なんだか日本の町そのものって感じで」


 「それはですね」


 信は少し含み笑いをした。


 「三年前の事変でこのあたりでも市街戦が行われて、だいぶ焼けましてね。さらには前からあった『支那人』の建てた建物とか、日本が来る前にこのあたりの租界を管理していたアメリカが建てた建物とかはほとんど空襲で焼けたんです。そのあとに日本人たちが新しく日本の様式で家を建てたので日本みたいな雰囲気なんですよ」


 そういえば、日本建築の建物も八重子はこの店に入る前に何軒か見た。

 そこへ、注文していた料理が来た。


 時間をかけて食事をし、デザートのコーヒーを楽しんだ。オムライスもビーフシチューも五十銭だから、内地とあまり変わらなかった。お金は上海独自の日本円があるそうで信がそれで払ったが、日本から持ってきたお金もそのまま通用するという。


 食堂を出たのは昼下がりだった。


 「この北四川路をずっと行ったところに大きな公園があるんです。行ってみますか? あの川向うのパブリックガーデンとは、全然雰囲気が違いますから」


 八重子もそろそろ度胸がついてきていて、ぜひ行ってみたいと言った。

 すぐに八重子をサイドカーに乗せて、信のオートバイはゆっくりと北四川路を進んだ。まだ東西南北の感覚がつかめていない八重子だったが、信によると北に向かっているのだという。

 道はやがて大きな建物で行き止まりとなり、左に曲がった。すぐにまた右へと折れる。その角にある高い建物は、看護学生として病院の中の学校に通っていたこれまでの八重子の勘ですぐに病院だと分かった。道の左側には威圧感のあるビルが続く。高さは四階建てでそう高くはないが、とにかく道の左側をどこまでも続く巨大なビルだ。


 「わが帝国海軍の陸戦隊本部ですよ」


 ゆっくり走っているので、オートバイの上の信の声も何とか聞こえる。


 「右が興亜院。で、もう少し行くと右側に神社がありますよ」


 「神社?」


 八重子は中国独特の道教の廟か何かを信はそう表現しているのだと思っていた。

 果たしてすぐに道の右側に石の大きな鳥居が見えて、左右の柱にはそれぞれ桐の紋と「上海神社」と書かれた日本式の提灯が下がっていた。その向こうはこんもりとした森になっっていて、左右に灯篭の並ぶ参道の向こうにもうひとつ木の鳥居があり、鳥居越しに社殿が見えた。


 「ええ?」


 それは道教の廟などではなく、正真正銘日本の神社の社殿だった。木々の向こうにちらりと千木ちぎ鰹木かつおぎの乗った屋根が見えた。

 外国でも教会があるのは当たり前だし、寺もアジアならあってもおかしくはない。しかし日本以外の場所に神社があるということに、八重子は頭がこんがらがりそうになった。それもかなり広い境内の神社だ。

 その神社の前を過ぎると、やがて道は緑豊かな広々とした公園にぶつかった。オートバイがその道を左に曲がると、すぐに公園の入り口だった。信はその近くにオートバイを止めた。

 二人で路上に降りて公園の入り口から入ると、そこは本当に広々とした空間で、パブリック公園の何倍もの広さがありそうだった。

 まずは池があり、その向こうもただ芝生が木立に囲まれて広がり、その中に遊歩道がある。パブリック公園と大きく違うのは、歩いている人が圧倒的に日本人であり、また中国人も自由に入れるようだった。


 「だいぶ違うでしょ」


 信がにこやかに八重子を見て、そして公園に目を移していった。


 「はい。広いですね」


 「ここも元々はイギリス人が造った公園なんですけれど、今はほとんど日本の管轄下にあるので、自然と川向うとは感じが違ってきているのですよ。名前は虹口ホンキュー公園ですけれど、最近は新公園ということの方が多いですね。決して新しくはないんですけれどね」


 そう言って信は少し笑った。

 この広い公園で、人々は思い思いにくつろぎ、日曜の午後のひと時を過ごしている。


 「長崎って山に囲まれて、畑が広がってて、そんな中で私は育ったから、上海に来てから大きな町での生活が息苦しかったんです。でもここは緑がいっぱいですね」


 「心が癒されたのならよかったです。でもここも、自然というよりやはり人工の公園ですよ」


 「それはたしかに」


 そのようなことを話しながら二人は公園の奥まで遊歩道を歩き、適当なベンチに座った。

 ベンチでは、信の故郷の四国の高松の話などを聞いた。


 「木下家は高松藩の士族なんですけれどね、父が言うには太閤秀吉公は元の名を木下藤吉郎といったから、我が家は豊太閤の末裔だとか言っていたんです。僕はそんな馬鹿な話はあるかいと取り合いませんでしたけど」


 信はひとしきり笑った。


 「豊太閤に子孫がいるなんて話はあり得ないでしょう?」


 同意を求められても八重子はそのあたりの知識は薄かったので、困ったような顔をして愛想笑いだけを返した。


 「どうして上海へ?」


 「仕事で配属されたというところですね。この町に来た人は、皆背中にそれなりの事情のある過去を背負しょい込んでいる人も多いですけれどね。そんな人たちの吹き溜まりですよ、この町は」


 そんな信の言葉が、やけに八重子の耳に残った。

 気が付けば二人はもう、かれこれ三時間もこの公園で過ごしていた。

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