橋を渡ると相変わらず多くの人がうじゃうじゃいたが中国人のほかは日本人の姿はほとんど見えず、代わりに大勢の西洋人が闊歩しているのが見えた。


 「こちらが公園ですよ」


 橋からまっすぐ伸びた電車道は左に黄浦江を見て川沿いに伸びるが、その左手の道と川の間が公園になっていた。橋のたもとのすぐ左が、公園の入り口だ。


 「大きな公園なんですね」


 たしかに、長崎にはこのような巨大な公園はない。


 「パブリック・ガーデンっていうんです」


 「どういう意味ですか?」


 「公共の公園って感じかな? もともとはイギリス人が造った公園です。さっき渡ってきた橋もこの公園に近いからガーデンブリッジっていうんですけど、それもイギリス人が架けた橋です」


 そんなことを話しながら、公園の門を二人は入った。門は頭にターバンを巻いたインド人の兵隊が警備していた。その脇に注意書きを記したような看板があったが、英語と中国語だったので八重子には読めなかった。


 注意書きは何カ条かあるようだったが、一番上の条項は削られて消されていた。だから、余計に気になる。


 「あれは、なんて書いてあるんですか?」


 八重子に言われて、まことは看板の近くに寄った。


 「インド人は入ってはいけない、ただし身なりがきちんと整っているものはその限りではない。それと、馬、自動車、自転車を乗り入れてはいけない。いちばん下が口枷くちかせをつけず、ひもでつないでいない犬は入ってはいけないと。まあ、飼い犬を放し飼いで散歩させるなってことですね」


 「一番上は消えているようですけれど」


 「ああ、あれは、かつては外国人に雇われている以外の『支那人』は立入り禁止と書いてあったんです。もう十年以上前にその禁止はなくなりましたけれどね。だから今は削られているんです」


 しかし今でも見渡してみると、公園の中にいるのは西洋人ばかりだった。


 「なんだかイギリスに来たみたい。本当のイギリスは知りませんけど」


 八重子はくすっと笑った。

 しばらく先ほどの橋をくぐった川沿いに遊歩道が続き、すぐに鋭角に川に突き出た部分からは右に折れて黄浦江沿いの遊歩道となる。川との間は胸くらいまでの高さの石の塀が設けられていた。

 その塀越しに、八重子は先程の橋をもう一度見た。ここからは二つのアーチが並んでいるのがよく見え、その背景のように対岸のブロードウェイ・マンションがそびえている。その右側にも、対岸は黄浦江への河口までいくつもの洋館が並んでいた。


 「あのブロードウェイ・マンションの右の灰色の大きな建物がアスター・ハウスというホテル」


 信は立ち止まって、八重子に案内してくれた。ちょうど船の上で上海到着間際にブロードウェイマンションを説明してくれた時のようだ。


 「その手前の白い壁にオレンジの屋根の洋館がソ連の領事館で、その隣がドイツ領事館、アメリカ領事館、そしてわが日本の領事館ですよ」


 「え? 日本の領事館って教会の向かい側じゃないんですか?」


 信はすこし笑った。


 「あれは領事館の警察部門の建物でしてね、こちらのが本当の領事館です」


 再び歩き出し、もう黄浦江沿いの遊歩道まで来ていた。八重子は塀の上に手をかけた。

 本当に広い、海のような川だ。だから川なのに長崎港のような港がある。先ほど橋の上からも見たが、所狭しと中国風の帆船がひしめき合っていた。


 「あの帆船はジャンクっていうんですよ」


 八重子の視線を追って、先回りして信はまた説明してくれる。

 川の上はそんなジャンクばかりではなく、初めて上海に来た時に船の上から見たように巨大な船がいくつも停泊している。外国船も多く、外国の軍艦も無数に見えるのはあの船の上から見た時と変わっていない。

 黄浦江のはるか向こう対岸は平らで、工場のような背の低い建物がちらほら見えるだけの、基本的には何もない土地のようだった。

 二人の背後はちょっとした木々の植え込みで、その中は花壇あり噴水ありの西洋式庭園だった。信に促されて、そちらへと入った。

 そして噴水がよく見える花壇の中のベンチに座った。


 家族以外の男性とこんなふうにベンチに並んで座るなど日本では考えられないことだが、なぜかここでは自然なことのように感じられた。周りのベンチにも、西洋人の若い男女が並んで座っている。

 もちろん老夫婦のような人もいるし、日曜日だけあって家族連れもかなりいた。当然、全部西洋人だ。


 「あのう、ブロードウェイマンションって、どんな建物なんですか?」


 木立の向こうに頭を見せているブロードウェイマンションを見ながら八重子は聞いた。


 「どんな、とは?」


 「マンションってどういう意味ですか?」


 「ああ」


 信は納得したようにうなずいた。


 「本来は住居っていう意味ですけど、あのブロードウェイマンションはホテルです。ただ、いろいろな会社が入っている階もありますし、いろんな用途に使われています」


 「そうなんですか。あなた、先ほどあそこから出てきたのでは?」


 「そうです。私も仕事で時々立ち入るんです」


 「今日もお仕事?」


 「そうなんですよ」


 信は少し苦笑した。


 「日曜だからってなかなか休めない、だから教会にも全然行かれなくってね」


 「ああ、それで…」


 ミサになっても全然信に会えなかったわけだと八重子はうなずいた。。


 「お仕事とは?」


 信は胸ポケットから手等を出して見せた。「工部局手帳」と書かれてあった。


 「工部局?」


 「租界の市役所みたいなところです」


 「え? じゃあ、偉い人なんですか?」


 「偉くはないですが、楽な仕事ではないですよ。租界に住む『支那人』の中には抗日分子もいますからね。地下組織もあったりします。そういう調査機関もあのブロードウェイマンションには入っていますから、時々顔を出さないといけないんです」


 「そうなんですか」


 「ええ。工部局の本体はこの共同租界でもかつてはイギリス租界だったところにありますけれどね、この近くですよ。そこでは実にいろんな国の人々が働いています」


 「そんなところで木下さんは働いていらっしゃるんですか?」


 「いえ、僕は普段は虹口の工部局警察の建物にいます。もっとも僕は警察部門ではありませんけれど、日本人の工部局の関係者はだいたい虹口の方にいます。ほら、あの、市場の隣の」


 「ああ、あの高い建物」


 八重子にとっては見慣れたビルだった。だがそれが工部局警察の建物だとは初めて知った。


 「抗日分子っていうのを取り締まるのも、お仕事なんですか?」


 「ええ。時には彼らのアジトにも潜入します」


 「なんか、怖い」


 「ええ、怖い町ですよ、上海は。完全に無法地帯ですよ。身売り、殺人は日常茶飯事です。この町は軍隊と民族主義、国家主義、いろんな思想の人たちがいますからね。金儲けをもくろむ犯罪組織も無数にあります。『支那人』と一言で言っても、一枚岩ではないのですよ。抗日分子もいれば知識人もいる。親日派もいる」


 「でも、今は『支那』とは戦争しているのでしょう?」


 「奥地の方へ行けばそうですね。でももう上海は、少なくとも虹口は帝国の軍隊が押さえています。日本が戦っているのは重慶にいる蒋介石の国民政府とで、南京の中華民国政府は親日的です」


 「なんだかお話が難しくてよくわかりません」


 八重子はとりあえず、愛想笑いを返しておいた。


 二人は公園の中をさらに黄浦江沿いに進むと、やがて先ほどの電車通りが黄浦江沿いの道となって公園は終わった。この先の川沿いは港で、ものすごい人々でごった返していた。それを見おろすのが川沿いの道に沿って並ぶ高層建築の列だ。それらが黄浦江沿いの道からは、パノラマのようによく見える。 

 近いところでは長崎の南山手にもありそうな五、六階建てくらいの石造りの洋館が並んでおり、どうも銀行のようだ。だがちょっと先にはひときわ高いビルがあって、さらにその向こうは同じくらいの高さまで鋭角のピラミッドのような三角の緑の屋根が乗った十階以上のビルもある。


 「あのギリシャ建築のようなのが正金銀行で、隣のでかいのが中国銀行、この辺では唯一『支那』の実業家が建てたビルです。その向こうがキャセイホテルが入っているサッスーンハウスですね。そしてパレスホテルと続きます」


 さらに遠くの方には時計台があるビルや屋上にドームがあるビルなども見える。


 「あちらは港なんですね」


 八重子の目はその遠くのビルの前あたりを見ていた。


 「ええ。我われはバンドと呼んでいます」


 その付近の川の上には特に多くの船が停泊しており、陸の上もものすごい人であふれていた。

 もちろん八重子たちの周りにも人が多く、パブリックガーデンを一歩出るとたくさんの中国人の群衆もいた。彼らは遊覧している上流階級と思われる人々ばかりでなく、明らかに労働をしていると思われるみすぼらしい身なりの人もおびただしく動き回っている。


 「彼らは苦力クーリーといって、その日暮らしの人足ですよ。食べていくだけで精一杯の人たちです」


 「そういえば楊樹浦やんじゅっぽの港に着いた時も、人力車夫たちがものすごい客引きでしたけど、あの人たちもそうなんですか」


 「まあ、そうです。でも車夫はまだ、車を引くという固定の仕事があるだけましだといえるでしょう」


 「そろそろ戻りませんか?」


 不意に八重子は言った。


 「そうですね。お昼も過ぎたし、おなか減ったでしょう」


 「はい、それよりも、私、日本に帰りたくて再三姉にも頼んでいるんですけれど、なかなか返してもらえなくて」


 「日本に帰って何をするのですか?」


 二人は元来た方へガーデンブリッジに向かうパブリックガーデンの脇の道を歩いた。


 「別に何もすることもないのです。日本でも兄夫婦の家に厄介になっていますから。きっとお嫁に行かされるでしょう。学校もやめましたし」


 「それでも帰りたいのですね」


 「はい。私、この町に疲れました。ここへ来る船の上で木下さんがこの町は住みづらいっておっしゃってたでしょう。今、それがなんとなくわかるような」


 「いろいろと環境が変わると、大変ですよね」


 「それだけではなくて、ここは『支那』という国なのに、その『支那人』よりも西洋人や私たち日本人が我が物顔に住んでいる。それってなんか、なんかなあなって感じなんですけど」


 「そうですね。僕なんかその上海を取り仕切る工部局の職員としてこの町でふんぞり返っている」


 「あ、いえ、決して木下さんのことを」


 「わかっています。大丈夫ですよ」


 信は前を見たまま笑った。


 「あなたのおっしゃることは、とてもよくわかりますから」


 やがて、ガーデンブリッジも渡って虹口に戻り、ブロードウェイ・マンションの下のところに停めてあった信のオートバイのところまで来た。


 「今日はサイドカーで送りますよ」


 「ありがとうございます。でも、教会の近くの橋のところまででいいです。家まで行くと今日は義兄あにもおりますし、もし見られたらいろいろ面倒なので」


 「わかりました」


 信はさわやかに微笑んだ。

 サイドカーに八重子は初めて乗った。走り出すとかなりまともに風が全身にあたるのには驚いた。夏ならいいかもしれないが、さすがに最近の気候では寒かった。

 頼んでおいた通り虹口クリークの、姉の家にいちばん近いところの橋で信はオートバイを停めた。八重子もサイドカーから降りた。


 「来週の日曜日は教会に行けると思います」


 最後にそれだけ言って、信は走り去った。

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