第3章 予感

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 秋晴れの空の下、八重子はミサが終わってから教会を出ると、姉の家とは反対の方へと歩いていた。どこか目的地があったわけではない。ただ、家に帰る気がしなかったのだ。

 家に帰ればまた家事が待っている。しかも今日は日曜日だから、重吉がいる。余計にこき使われる。そもそも八重子にとって唯一の心の安らぎである日曜日のミサも、重吉は八重子がそこに出かけるのをいい顔はしない。だから、帰りたくないのだ。

 上海に来てからもう三か月、その間に八重子が行ったところといえば教会と姉の家の往復だけだ。


 先週の日曜日はぱっとしない空模様だったが、紀元二千六百年記念式典で虹口中の日本人が沸き上がっていた。

 朝の宮城きゅうじょう遥拝に続き、海軍陸戦隊の兵隊や装甲車が延々と列を作って沿道の人々の大歓声の中で市中大行進を行っていた。八重子も電車通りで貞子とともに弘子を連れてそれを見に行った。幼い弘子の手にも日の丸の旗が握られていた。

 そのあと八重子はミサがあるので教会に行っていたが、午後には新公園の方からお神輿みこしも来て大騒ぎだった。

 夜は花火も上がり、そして翌日もまだ祭礼は続いた。

 またお神輿が昨日とが反対の行程で繰り出し、また夕方からは提灯行列もあった。

 その時以外の平日は、八重子にとってたまに市場に来ることがある以外はまた外出なしの毎日が続いていた。


 今日はその市場を抜け、延々と続く三階建てのビルに挟まれた電車通りを歩いた。三カ月たっても、町にはまだ慣れない。めったに外出しないのだから仕方がないことでもあった。路面電車に乗ってみようかとも思ったが、どうにも勇気がない。それに、どこに連れて行かれるかもわからなかった。

 道の果てにはあの巨大なブロードウェイマンションも姿を見せている。このあたりならどこからでも見えるその姿であったが、近くで見たことはなかった。だから引き寄せられるように八重子はそちらへ足を向けていた。

 近づくにつれ、ブロードウェイマンションの姿はどんどん大きくなり、ほんの五、六分歩いただけでその脇に出た。もう天を突くような巨大な茶褐色の煉瓦の建物としかいいようがなく、見上げれば首が痛くなるほどだ。

 電車通りはそのブロードウェイ・マンションのところで行き止まりで、道は左右に分かれていた。路面電車の線路も右と左に分かれる。


 突き当りは川だ。虹口クリークよりも大きな川で、河口近くの浦上川くらいの幅はありそうだった。その川の向こうの方は、川の手前よりも洋風の建物が多く並んでいる。中国というよりも、ここはヨーロッパかアメリカなのではないかとさえ思う。

 もちろん八重子は、本物のヨーロッパやアメリカの風景は知らない。だが、少なくとも日本とも中国のイメージとも違う風景と、その建物が洋風だということからそう感じたのだ。


 八重子はその道を左に折れて、ブロードウェイマンションの正面に来た。そしてそのブロードウェイマンションが何階建てなのか、窓を数えてみた。だが、上の方へ行くとその窓もよく見えないくらいだ。建物の上部は同じ高さではなく、中央だけが高い。そのいちばん高い部分は二十階以上はありそうだった。八重子の感覚では五階建てで十分高い建物という感じなのに、その四倍はある。

 その左右の脇は少し低い造りになっていて、まさしく頭と両肩という感じに見えた。古武士がでんと胡坐あぐらをかいて座っているようで、高いだけでなく幅も広い建物だ。


 その時である。

 八重子の目がブロードウェイマンションの下の何台もの自動車が止まっているあたりに止まった。

 そこに見覚えのあるようなオートバイがあった。サイドカーがついている。

 以前教会で見た、あのまことが乗っていたオートバイに似ていた。もっとも、同じような型や色のオートバイやサイドカーはいくらでもあるだろうし、それが信のものであるという確率は低い。

 だが、この時の八重子はこのオートバイを見過ごして歩いていくことはできなかった。だからその脇まで行って、ついついたたずんでしまう。

 何かを期待して待っているという意識は、この時の彼女にはなかった。だが、時間がたつのも忘れるほど、八重子の足はそこから動かなかった。

 道に迷ったわけではない。市場のあたりから五分くらいしか歩いていないし歩いてきた電車通りは一本道で、元来た方へ戻ればすぐに市場まで帰れるはずである。実際、市場の隣の高い建物がすぐ近くに見える。

 だが、市場から見ていた時はその九階建てくらいの建物を高いと感じていたが、今このブロードウェ・マンションの麓から見れば、あの建物を高いとは言えなかった。


 先ほど歩いてきた道とはブロードウェイマンションを挟んだ向こうの道が川にぶつかると、そこには橋が架かっているのが見えた。二つの鉄のアーチが連なる印象的な意匠の橋だった。


 「あれ? 内藤さん……ですよね?」


 その橋をじっと見ていた八重子の背後で、そんな声がして驚いて振り向いた。

 そこには、あのまことの姿があった。ブロードウェイ・マンションから出てきたという感じだった。


 「なんでこんなところにいるのですか?」


 驚いたような様子で、信は八重子に聞いてきた。驚いているのは八重子も同じだった。


 「ちょっと散歩に」


 夏の日に教会で出会って以来の信は、あの時と同じような笑顔を見せた。


 「そうですか。僕は仕事でここに来ていたのですけれど、今ちょっと時間が空きま

したから、せっかくなので公園でも散歩しませんか」


 八重子の顔が輝いた。


 「私、まだ上海に来てから一度も公園に行ったことがないので、ぜひ」


 「では、歩いてすぐなのでこのまま行きましょう」


 やはりこのオートバイは信のだった。それをそのまま置いて信は歩きだした。八重子は、その少し後を歩いた。


 「そんな後ろではなくて、一緒に歩きましょう」


 「でも……」


 「ここは日本ではないのですよ。並んで歩いても、誰も何も言いません」


 確かに日本では他人の男性と並んで歩いたりして誰かに見られたら、なにかとうるさく言われる。

 しかしここでは、日本人は多いとはいっても知り合いはいないはずだ。ぞれに少なくはない人通りのそのすべてが日本人というわけではない。

 歩きながら、また八重子の胸は高鳴り始めた。


 信は先程八重子が見ていたトラスのアーチが二つある橋の方へと向かっていった。この橋を渡れば、当然のことながら川向うだ。


 「あのう、橋を渡るのですか?」


 「ええ。公園は橋を渡ったすぐのところです」


 急にもじもじし始めた八重子を見て、信はいぶかしげな顔をした。


 「どうかしましたか?」


 「姉が、川向うには行ってはいけないって」


 「ああ、なるほど」


 信は笑顔を取り戻した。


 「確かに虹口ホンキューに住む日本人にとっては、川向うへ行くというのはかなり抵抗があるみたいですね。でも、それは、もうそこが本当の意味での『外国』だからでしょう。虹口では日本と同じ生活ができますけれど、川向うは違いますからね。行けばあなたもわかります。でも決して怖いところではない。むしろ虹口よりも平和ですよ」


 信は笑ったが、その言葉の意味を八重子は今一つ理解していなかった。


 「それよりも、フランス租界よりもさらに南の城内、そこが昔からの本当の意味での上海ですけれど、そこは確かに危ない。行かない方がいい」


 信が少しだけ真顔になったところで、橋のたもとに着いた。

 橋の上にも路面電車の線路があって、今しがた橋の向こうからちょうど電車がこちらへ向かって渡ろうとしていた。

 橋の上は平らではなくかなり傾斜があり、橋の中央で傾斜は上りから下りに変わる。その真ん中で、電車は停まっていた。

 橋のアーチの外側が歩道になっているが、八重子が見たのはちょうど電車が停まっているあたりに人が一人立ってはいれるくらいの小さな木製の小屋があり、その前に日本の軍人が軍服で銃剣を持って立っていたことだ。

 しかもその軍人は電車が停まるとそちらの方へ駆けていき、銃剣を構えて車内をつぶさに点検している。乗っている中国人は皆立ってその軍人にお辞儀をしていた。

 やがて軍人の合図で、ようやく電車は動き出した。軍人は走って元の小屋へと戻ってきた。


 車道と反対側の歩道にも同じような小屋があって、軍人が立っている。ものすごい威圧感だ。折しも向こう側の歩道で橋を渡ろうとしていた中国人が、軍人の前で帽子を取ってかなり深く頭を下げているのが見えた。すると、何か気に障ったのだろうか軍人はその中国人の男を大きな声で威嚇し、銃剣の柄で小突いたりしていた。

 そして八重子と信も、こちら側の軍人のそばを通り過ぎることになった。八重子は極度に緊張した。


 「あのう、私たちもお辞儀しなければならないんですか」


 信の耳元に少しだけ顔を近づけ、八重子は小声で聞いた。信は笑った。


 「日本人はいいんですよ」


 日本人か中国人かは、顔は同じでも服装ですぐにわかる。たしかに八重子たちが軍人の隣を通り抜けても、軍人は微動だにせずに直立不動で立ったままだった。それでも八重子の胸ははち切れんばかりに鼓動し、全身が固くなってなかなか前に進めなかった。あの軍人が手に持つ銃剣で一突きされたら、間違いなく死ぬのである。


 なんとか軍人の脇を通ると、なんともう一人軍人がいた。しかも今度は日本兵ではなく、軍服も違う西洋人の軍人だ。


 「こちらはイギリスの兵隊さんです」


 イギリス兵は日本兵のように直立不動で微動だにせず立っているという感じではなく、ただ何となく突っ立ているという感じだった。

 橋の下の川は、橋のくぐったすぐのところであの港のある黄浦江ワンプーこうに注ぐ。ちょうどその合流点の河口に架けられた橋だ。

 長崎の浦上川は直接海に注ぐが、この川は大きな黄浦江という別の川に注ぎ、黄浦江はさらに巨大な揚子江(長江)に注ぐ。橋の上から見る黄浦江には無数の中国風の帆船が水上を滑り、橋の下の川にも小舟がたくさん浮かんでいた。

 ようやく緊張の橋も向こう側にたどり着いた。

 たしかにそこは『外国』だった。建物もみな洋館で、それがずっと並んで続いているのが見えた。

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