一度姉の家に戻った八重子は、出直して一人でミサにあずかった。姉の貞子は夫の重吉の手前、ミサには与れないのだという。重吉はキリスト教をあまり好きではないようだった。

 ミサにはかなりの人が参列していた。西洋人も多いし、中国人もいる。そして日本人もかなりの数だった。

 八重子は向かって右の女性席に白いヴェールをかぶって並んで座った。

 司祭は西洋人のようだ。だが司式司祭がどこの国の人であれミサはすべてラテン語だから、浦上の天主堂でのミサと何ら変わりなかった。ミサの様式は万国共通である。


 ミサも終わり、知っている人もいないので八重子はそのまま帰ろうとした。出口で初めて男性会衆と女性会衆は混ざり合うことになる。入口の小鉢の聖水を手に付けて十字を切り、八重子は御聖堂おみどうの外に出た。

 その時、人ごみの中にある顔を見つけて、八重子は思わず声を上げた。


 「あれ?」


 驚いた顔は相手も同じだった。


 「あなた、先日長崎丸で」


 「あああ。ええ、そうです。びっくりした。信者なんですね」


 「あなたも?」


 「はい」


 「いやあ、船の上では互いに信者だとも知らずに話してたんですね。たしかに長崎は信者さんが多いですけれど」


 「あなたは長崎ではないのですか?」


 「四国の高松です」


 立ち止まって話していると聖堂の中からどんどん出てくる人たちがぶつかるので、二人は歩きながら話し始めた。


 「そうそう、船の上ではいろいろとお世話になりました」


 「いや、そんな。ただちょっと観光案内みたいなことをしただけですよ」


 男は笑っていた。

 だが、八重子の胸はかなり高鳴り、緊張していた。この男とだからではなく、そもそも他人である若い男性と並んで話しながら歩くという出来事が、八重子にとっては生まれて初めての経験だったからだ。


 「あの、よろしかったら送りましょうか?」


 「え?」


 「僕はサイドカー付きのオートバイで来ていますし、カーは誰も乗っていません、乗せる人もいませんし」


 男は少し笑った。つまりそれは彼が独身であり、また恋人もいないことを暗示しているようでもあった。


 「でも、私が住んでいる家はこの先の橋を渡ってすぐのところなんです。歩いて二、三分もかかりませんし」


 「教会に近いなんて最高だ」


 「姉の家なんですけど」


 「ああ、この間連れていた子供さんのお母さんですね。あなたはあのお子さんを置いたらすぐに長崎に帰ると言っていましたが」


 「それが、姉はもうしばらくいろと言いますし、帰ってもすることもありませんし。なんしろ帰りの船賃は姉が出してくれないことには帰れません」


 「そうですか」


 いつしか男のオートバイとサイドカーが停めてあるところまで来た。二人はそこで立ち話の形になった。とにかく暑いので、近くの木陰に入った。木陰でも蒸し暑いのは同じだが、直射日光を浴びないだけましだった。


 「お名前、伺ってもいいですか」


 八重子が聞いた。全く見ず知らずの男というのではなく、同じカトリック信者ということが少し安心感にもなったようだ。


 「申し遅れました。木下まことと申します」


 「私、内藤八重子です」


 「ではまた、教会で。よろしくお願いします。暑い中で立ち話をしていると、あなたの体が心配だ」


 「はい、こちらこそ」


 微笑みながら一礼して、まことはオートバイにまたがり、無人のサイドカーとともに走り去っていった。

 その日はそれだけだった。

 帰ると姉から、弘子の子守と弘子が昼寝してからは洗濯を頼まれた。


 それから始まった日常は、八重子はほとんど外出しなかった。実のところ、そのような暇などなかった。次から次へと姉は家事を言いつけてくる。

 最初は優しくお願するという口調だったが、日数がたつにつれてだんだん命令口調に変わってきた。幼いころからそういうところがあった姉だから最初は八重子も気にしていなかったが、あまりの重労働にだんだんをあげ始めた。

 これまでこんな重労働を全部あの楊静がやっていたのだなと思う。それがなぜか自分に回ってきている。

 家事を言いつけるのは姉だけでなく、義兄も仕事から帰ってくると何かを身の回りの世話を八重子に言いつける。しかもそれもまた命令口調である。

 自分はいったい何をしに上海に来たのだろうと、ふと八重子は虚しくなる。

 ある日の夕食でそろそろ長崎に帰りたい旨を姉に話した。


 「まあ、そぎゃんこつ言わんと、ゆっくりしていったらよか。弘子ば連れてきてくれて、感謝しとるんじゃけん」


 口ではそう言うが、言っていることと自分に対する態度とがまるで違う。それに、信にも言ったことだが、姉が船賃を出してくれないことには、八重子は帰るに帰れない。

 はっきり言って、八重子はすでに女中であるといっても言い過ぎではない状態だった。

 朝から晩までこき使われ、夜になるとくたくたになってベッドに入る。そしてすぐに寝入ってしまう。そんな毎日が続いた。


 唯一気晴らしになったのは、上海に来てから一週間くらいたったころ、重吉は二枚の映画のチケットを八重子にくれた。主演女優が重吉の仕事の関係でかかわりがある人だということで、貞子が連れて行ってくれることになった。弘子もともにである。

 映画館までは歩いて十五分くらいだったが、八重子には何から何まで珍しかった。貞子に連れられてではあるが、初めて教会よりも遠いところに行くのである。

 映画館のある付近はかなりの繁華街で、和服姿や一部洋装の日本人がほとんどだった。映画の観客もほぼすべて日本人だ。

 映画は今年長崎でも話題になっていた『支那の夜』で、主演俳優は八重子もよく知っているあの有名人だった。上海が舞台だけれども日本映画だ。

 相手の女優は中国人のようで『満州』の人だというが、まるで日本人と変わらない日本語のセリフに、映画を見ながら八重子は舌を巻いていた。

 上海が舞台の映画を上海で見るということにおもしろみを感じていたが、途中からいかにも中国というちょっと田舎の町に舞台は移った。


 「あれはね、蘇州っていってここからもそう遠くないわ。大昔のこの地方の都だった町ですって」


 あとで貞子がそんなふうに説明してくれていた。


 だが、外出はそれくらいで、あとは市場との往復以外は一歩も家から出ずに家事に追われる毎日だった。

 ただ、日曜ごとに南尋ナンジン路の教会のミサには欠かさず出向いた。南尋路とは教会の門の前の道で、その道を隔てて日本領事館と郵便局の建物がある。その向こうが例の三角市場だ。

 八重子にとって教会のミサが唯一の心休まる時間でもあるが、教会に向かうとき八重子はいつもかすかな期待を持っていく。だが、いつもそれは破られた。

 あれから一度もまことの姿を教会で見かけることはなかった。信者とはいっても、そう熱心な信者ではなかったのかという気にさえなってきた。

 そうこうしているうちにほとんど異国とはいえない異国での日々は目まぐるしく流れ、やがて季節は秋へと変わっていった。

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