3
翌朝、階下の陶器が割れる音で八重子は目を覚ました。
「ワタレ!」
そんなふうに聞こえた女の叫び声も響く。
八重子はベッドから跳ね起きた。
「ばかやろう!」
そんな怒鳴り声と、平手打ちの音が続く。怒声は明らかに重吉のものだった。
八重子は急いで床に足をついた。その時ひんやりとした感触が、靴を履かねばならないことを八重子に思い出させた。
足を
「これは俺が大切にいていた景徳鎮の二百円もした花瓶だ。どうしてくれるんだ、これを」
その怒鳴り声に続いてまた殴る音が聞こえ、女の悲鳴が重なった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
女は必死に詫びている。八重子は足音を忍ばせて階段を下りてみた。
「出て行け! この下等民族!」
その怒声に続いて、さらに重吉は声を落としていった。
「おまえの代わりは昨日来たし、お前は用済みだ」
階段を下り切った八重子は、声がするのが昨日の応接室のようなのでそっと覗いてみた。
出勤姿の重吉が、青花の花瓶の割れた破片が散らばる床に倒れている女性を足蹴にしている。女性は昨日八重子を港まで迎えに来てくれた中国人の使用人の少女の楊静だ。楊静の顔は苦痛に歪み、もはや声も出ないようだった。
八重子はなすすべもなく立ちすくんでいた。助けに行きたかったが、重吉の剣幕が恐ろしくて足が動かない。声すら出なかった。
「さあ、早く出て行け。今日切りで解雇だ」
重吉はつま先で、楊静の体を転がした。やっとのことで立ち上がった楊静は、速足で玄関の方に向かって走り出した。途中、廊下にいて部屋を覗いていた八重子と肩がぶつかった。
「楊さん」
八重子は楊静をつかまえようとしたが、いつの間にか背後にいた姉の貞子にその腕をつかまれた。貞子は黙って首を横に振った。
重吉が、八重子に気づいた。
「ちょうどいい。君にも早いうちに話しておこう」
重吉は穏やかな口調に戻り、ドアのところに立ちすくんだままの八重子に言った。
「君はまだここに来たばかりだから、よく状況が分かっていないと思うがね。上海でもこの辺りは共同租界という。しかし、実質上は日本租界だ」
「はい」
「ここでは日本人が常にやつら『支那人』どもの上に立たねばならない。この町で暮らす以上、このことはしっかり覚えておいてもらいたい」
八重子はどう答えていいかわからなかった。
「私は出かける。朝食を早く済ませなさい」
「はい」
「あ、そうそう、すまないがこの花瓶、片付けておいてくれ」
そう言って重吉は、貞子からかばんを受け取ると外へ出て行った。
朝食が済むと、八重子は近くを散歩してみたいと貞子に言った。
遠くには行かぬこと、特に家のそばの
また、家の住所と地図を描いた紙を、万が一のためにと渡してくれた。
表へ出るとまだ早朝だというのに焼けつくような日差しが、突然八重子を襲ってきた。それだけでなくすごい湿気で、むっとした蒸し暑さだった。まるで蒸し風呂の中を歩いているようだ。長崎とて海の近くで湿度は高い町だが、ここまでではない。
ちょっと歩いただけで、ハンカチで拭いても拭いても汗がにじみ出てくる。顔から汗が滝のようだ。
とにかくどちらの方角を見ても山がない。山に囲まれた長崎で生まれ育った八重子には、それが不思議だった。
八重子はまず一番近い橋を渡って、虹口クリークの向こうに行ってみた。蘇州川という川は渡ってはいけないといわれたが、虹口クリークを渡ってはいけないとは言われていない。
とにかく蝉の声がすさまじい。それも、蝉時雨などという風流なものではない。日本の蝉と違い、脂っこくてねばりつくような声だ。
虹口クリークの向こうは、さらに人通りが激しく活気づいていた。すぐに三角形の敷地にひしめき合う
ありとあらゆる食材が詰め込まれているという感じで、物売りの声が中国語と日本語の両方で聞こえてきていた。その市場を埋め尽くしている人々も、中国人に混ざって日本人も多くいた。
耳を傾けると、なんと日本人の言葉の多くは長崎弁なのだ。
なんだか町中が巨大な新地にいるような錯覚すら感じる。だが、長崎の新地の市場のような上品な場所ではなかった。
市場の向こうは大通りだった。道の中央に線路があって、ちょうど路面電車がゆっくりと走ってきた。なにしろ人が多いので、路面電車も速度を出せない。
道の両側は石造りの三階建て以上の建物が並ぶようになり、その看板はほとんどが日本語だった。「大正屋みやげもの店」「日昇堂大薬房」「かなものや」「稲垣呉服店」、道の向かい側は「丸福デパート」「天満屋洋品店」といった感じだ。ここは異国のはずなのに看板は日本語、すれ違う人々も多くは日本人という、実に奇妙な風景だった。
市場の向こうには九階建てくらいと思われるひときわ高いビルがあって、市場を見おろしていた。。
八重子は、そのビルとは反対の方へと電車通りを歩いた。
そのうち、ある中国人の少女に目が止まった。間違いなくあの楊静だ。
「楊さん」
八重子は小走りに駆け寄った。楊静は八重子を見ると、何も言わずに黙って八重子を見据えていた。その眼光の鋭さに八重子は一瞬たじろいだが、すぐに彼女の右手の指から血が出ているのを見つけた。
「あ、血が出よる」
とっさに八重子はその手を取ろうとしたが、楊静は素早くその手を引いた。そして十分に敵意を含んだ目で八重子を見ると、楊静は一目散に人ごみの中へ走って消えていった。
八重子はただ呆気にとられて立ちすくんでいた。
「どうかしましたか?」
通りがかりの中年の紳士が、八重子に声をかけてきた。
「いえ、先ほどの人、今朝までうちの使用人だったんですけれど、けがをしていて。それでクビになっていくところもないはずで」
紳士は少し呆れた顔をした。
「あなた、内地から来たばかりですか?」
「はい、昨日」
「そうですか。ここではあまり『支那人』に声をかけない方がいいですよ。まして親切にしてやったりしたら、やつらつけあがる」
それだけ言って、紳士は行ってしまった。八重子はどうにも腑に落ちないものを感じていた。
八重子はこの町を歩くのが何だか怖くなったので、もう帰ろうと元来た道を戻った。そして虹口クリークを渡る小さな橋の上まで来たとき、右手の黄浦江に注ぐ方の手前の岸に教会があるのが見えた。
今日は日曜日なので教会を探そうと思ったのも、外に出ようと思った理由の一つだった。本当は姉に聞こうと思っていたのだが、あの騒ぎで聞きそびれてしまった。
八重子は橋の上で戻り、虹口クリーク沿いの狄思威路とは対岸になる道を教会の方へ向かった。
そこはどうも裏口のようで、次の橋まで行ってまた先ほどの市場の方へ向かっていくと、右手の路地をを曲がったところに門が見えた。その向こうは高い塀に囲まれた大きな学校のようだ。
門には「天主教上海教区」と書いてあるので、これはプロテスタントなどではなくカトリック教会だ。
八重子は中へ入った。聖堂の入り口も鍵がかかっていなかった。
「ノンズサニン?」
堂の入り口の受付のようなところに座っていた少女が、八重子に言った。もちろん、言葉はわからない。
「あのう、えっと」
などと八重子が口ごもっていると、少女は片言の日本語で言った。
「日本人ですか?」
「はい」
「信者さんですか?」
「はい、そうです。昨日長崎から着いたばかりです」
少女はそれまでのこわばった顔を消して、にっこり笑った。
「どうぞ、お祈りしてください」
勧められるままに聖堂の中に入った。長崎の天主堂よりは小ぶりだけれども、なかなか大きな聖堂だった。
ここは日本の教会のように靴を脱いで上がり、畳や板敷に座って祈るような造りではなく、長椅子がいくつも祭壇の方を向いて置かれ、その椅子に座って祈るようだ。
祭壇の中央は十字架ではなく着衣のキリスト像で、荘厳な造りだった。ステンドグラスが美しい。八重子はまるで長崎に帰ってきたような気がして、思わず涙が出そうになった。
そして一心に祈った。この町を始めて歩いての何か腑に落ちない気持ちを洗い流して、すべてが天主様のみ心の通りになりますようにと、ただそれだけを祈っていた。
帰るときに先ほどの少女に、八重子は聞いてみた。
「今日は日曜日ですけれど、ごミサは?」
「はい。九時半からです」
八重子は少女にっこりと微笑みかけ、少女も笑顔を返してくれた。
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