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船が横づけに接岸したのは、先ほどブロードウェイ・マンションと説明された巨大なビルよりも少し手前だった。その名前は、一度で覚えていた。何か上海というよりもアメリカっぽい名前だったからだ。
埠頭は長崎の出島埠頭と同じような感じで、本当にここは川なのだろうかと思う。船の上から下を見るとものすごい人がわんさかと湧いていて、ひしめき合っているという感じだ。
必ずしも船に乗ってきた人を出迎えに来た家族や知人ばかりではないようだ。なぜなら、船の乗客はほとんどが日本人なのに下にいる人たちの大半は中国人で、しかもお世辞にも上流の階級ではないとしか言えないような人々だった。
八重子は弘子を抱いて、下船の順番を待った。
当然、初めて来る外国だ。思えば不思議なものである。長崎を出てからまだ二十六時間しかたっていない。昔の遣唐使など航海は一カ月以上かかったというし、ポルトガル船でやってきた戦国時代のイエズス会の宣教師たちは、マカオから長崎まで二十日をかけている。
あの頃は帆船で風向きが大きく物を言ったにしても、今の蒸気船では一昼夜。文明の発達を感じずにはいられない。
タラップを降りて地面を一歩踏んだ時から、八重子の全身に上海が思い切りぶつかってきた。具体的には、船の上から見ていた人足風の中国人の男たちだった。まだ若い、少年ともいえる男も多い。
最初は一斉に取り囲まれ襲われて、荷物を奪われるのかと思った。
「ヨンツォワ ヨンツォワ」
彼らは口々にこんなことを言っている。
「ヨン ヤンツォワ? トンヤンツゥオ ア!」
もちろん八重子には何を言っているか全くわからない。ただ、彼らは口々にそう言って迫ってくるだけで、襲ってくる様子はなさそうだった。それでも十分、八重子には恐怖だった。
八重子は腕の中の弘子を護った。弘子は八重子の胸に顔をうずめている。
だが、
中には「プヨン プヨン」と言って相手にもせず、軽くあしらってどんどん行ってしまう人たちもいる。また、立ち止まって何やら上海語で彼らと話をしている人たちもいる。どうも何か交渉しているようだ。
そういった人たちは中国人の少年とともにその場を去る。見るとすぐそばにおびただしい数の人力車が並んでいて、そこに連れて行かれている。そして、人力車に乗り込むと、少年はそれを引いて走り出す。
つまりは、八重子やほかの乗客たちを取り囲んでいるのは人力車の車引きだったのだ。皆が何とか自分の車に乗せようと必死だ。だからしつこいのだ。
人力車など、八重子が幼少のころは長崎でもごくたまに見たことがあったようななかったような記憶が定かではないが、今の長崎ではもう全く目にしなくなっていた。それがここ上海ではこの通り、ずらっと並んで客引きしているのである。
八重子は姉の貞子の家の住所は一応持ってきている。だが地理が全く分からないだけにそれが近いのか遠いのかもわからない。ましてや言葉も通じない車夫が引く車に乗るなど、彼女のどこにもそのような勇気はなかった。ただひたすら怖かった。
途方に暮れて、八重子は弘子を抱いたまま港の中をうろうろした。どこかに案内所か交番のようなものがあれば聞いてみようと思っていた。上海でも租界の中ならどこでも日本語が通じると聞いていたような気がする。
そんな感じでもう小一時間ほど歩き回っていたが、大勢の人ごみの中で人にぶつかりながら、そして車引きの客引きにあちこちで囲まれながら歩き回るのは容易ではなかった。
「八重子さん?」
いきなり日本語で名前を呼ばれた。振り返ると中国人の少女が立っていた。
「え?」
「内藤八重子さんですか?」
たどたどしい日本語だ。
「はい」
不審そうに、八重子は返事をした。
「私、あなたお姉さまの使い。迎えに来ました」
「え?」
自分が今日来ることを、なぜ姉は知っていたのだろうかとまずはそれが不思議だった。
「車、あります」
少女は上手に人混みをかき分け歩いていくので、まだ少し不審ではあったが八重子はついていくしかなかった。歩きながら少女は振り返り、八重子を見た。
「私、
しばらく行くと、客待ちの人力車の列とは全く違う場所に、一台の人力車が止まっていた。楊静の顔を見ると、車夫はすぐに立ち上がった。ほかの客引きしている車夫と全然違って少しばかり身なりがいい。車もほんの少しだけ高級そうだ。
八重子と弘子を乗せると、車はすぐに走り出した。といっても、隣を楊静が歩いているから、それに合わせて速く走ったりはしない。
あたりをきょろきょろと物珍しそうに見ているのは、幼い弘子だけではなかった。
港のあたりは中国というよりもまるでヨーロッパのような石造りやレンガの洋館が立ち並んでいた。でも八重子の目にとっては長崎も南山手に行くと割とそうなので気にはならず、むしろ車夫たちの客引きの方に圧倒されて景色を見ている余裕はなかった。
八重子を乗せている車は川沿いの道を進んでいる。川といってもあの港のある大きな黄浦江ではなく、黄浦江に注ぐ今度は本当に細い川だ。大橋よりも上流の浦上川と変わらない。そんな川沿いの道にぎっしりと建物が建っている。皆木造の二階建てだ。やはり日本の家とはどこか違う。しかし、八重子の想像にあった「中国の家」というのともまた違うのだ。
時々ある看板は日本語のものも多かった。
この道も人でごった返していた。物売りなどの中国人の姿も多かったが、日本人の姿が圧倒的に多かった。
「この道は
歩きながら楊静が時折案内してくれた。
港からまだ十分くらいしか歩いていないと思われたが、車は二階建ての家の前で停まった。
「着きました」
見ると。木造だけれど何となくヨーロッパの感じもする一戸建ての家だ。
ドアにかかったベルを鳴らすと、ドアが開いて懐かしい和服姿の姉の顔がそこにあった。
「ああ、八重子。よう来た。はよ上がらんね」
「さっき着きました。兄ちゃんの反対ば押し切って、何とか来たとよ」
「遠くまで難儀だったと」
玄関を入って八重子は靴を脱ごうとしたが、貞子はそれを見て笑った。
「ここは靴んまんまでよかとよ」
八重子には不思議な感覚だった。あの外観は完全に西洋の建築である天主堂でさえ、入り口で靴を脱いで入るのだ。
入ってまっすぐ廊下があり、左右に一つずつドアがある。右側が階段で、しゃれた彫刻の手すりがついていた。階段の上はバルコニーのようになっていて、玄関は二階まで吹き抜けだった。その上にシャンデリアが下がっている。床は赤い文様入りの
貞子は八重子に手を引かれた弘子を見た。
「あれえ、弘子ね。ふとかなったね。これからはお母ちゃんと一緒ばい」
それから八重子に笑顔を向けた。
「ご苦労かけたわ。疲れたろう」
そう言ってとりあえずソファのある応接室のようなところに通された。
「しばらくここで待っとって。すぐ夕食ができるけん」
夕食はダイニングルームのテーブルでだった。貞子の夫、つまり八重子の義兄の重吉も帰宅して洋装から和服に着替えると、四人でテーブルを囲んだ。
重吉は威厳はあるがおよそ不愛想な男だった。鼻髭を蓄えている。重吉は南満州鉄道、いわゆる「満鉄」の上海事務所に勤めているということは前から知っていた。
「竜之助君たちはお達者かね」
彼が八重子に聞いたことは、それだけだった。
「はい。ところで、今日私が来ることは知っておったとですか?」
「兄さんから電報ば来たとよ。今日
代わりに貞子が答えた。兄は自分を見送った後、すぐに電報を打っておいてくれたらしい。
食事の間は船旅のこととか、長崎の様子とか差しさわりのない話をしていた。そして食事の後、まずは弘子を寝かしつけに行った貞子は、戻ってくるとかなり真顔だった。
「八重子。あん電報じゃようわからん。弘子がいじめってどぎゃんこつね」
八重子は弘子を預けた貞子の友人から弘子が食事を与えられないとか、暴力を受けているらしい痕跡があるなどの虐待の様子を話した。
貞子は顔を曇らせて聞いていた。
「あの子にはすまんかった。それにしてもあの人、そぎゃん人だとは思わんかった。女学校時代は一番仲が良かったとよ」
「時がたてば人は変わる。ましてや自分の子ではない子を預かるなんて結構大変なことだ」
重吉がそこで口をはさんだ。そして口調を変えて八重子に言った。
「ところで、いつまで君はここにいるんだ?」
「わかりません。兄は弘子ば置いたらすぐに帰りって言うてたとですばってん」
「そう慌てなくても、ゆっくりしていったらいい。せっかく来たのだから」
「そうたい。ずっといてくれたら助かるけん」
何が助かるのかよくわからなかったが、八重子は一応うなずいた。
八重子には、二階の部屋があてがわれた。
窓を開けると街路樹が並ぶ川沿いの
昇ったばかりの、満月よりも少し欠けた月の光がそれらの上を静かに覆っている。
窓辺に椅子を運んで、八重子はそんな景色を見た。
昼間の喧騒が嘘のように、静かだ。
八重子は窓辺に両肘をついて、身をかがめた。
とうとう上海に来てしまった。あまりにも早く長崎から到着したので昼間はまだ自分がどこにいるかわからなかったが、ようやく実感がわいてきた。
兄は弘子を置いたらすぐに帰って来いと言ったが、重吉もああ言ってくれたことだし、しばらくはここにいようかなと思った。学校もやめたのだから、帰っても何もすることはない。そのうち兄に、どこかへ嫁に行かされるのがおちだ。
兄がどう言おうと、もう上海に来てしまった自分の勝ちだ。
今、月の光の下に、確実に上海の町がある。
――ここでどんな出会いを天主様はご用意してくださっているか……
天主堂の神父様の言葉がよみがえる。この町でいったいこれからどんな出来事を経験し、どんな出来事が自分を待っているのだろうかと思うと、八重子は胸がわくわくする思いだった。
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