第2章 上海セレナーデ

1

 航海は順調だった。甲板に出てどちらを見ても青い海だ。

 船が大きいせいか最初はさほど揺れなかったが、やはり外海に出るに従ってゆっくりとした揺れは感じ始めた。

 八重子が乗った三等船室はただ広いだけの何もない部屋で、畳が敷かれた大広間という感じだ。三等は洋室もあるが、洋室の方が五円高い。つい先日まで学生だった八重子には、少しでも安い方がいいに決まっていた。

 それにしても、最初乗船したときに「東亜海運」と大きく書かれた切符をもとに自分の船室を探し当てた八重子は、その室内をのぞいてあっけにとられた。

 こんなにも人がひしめき合っているとは思わなかった。

 なにしろ空気が悪い。人々がこれだけ密になっているのだから仕方がないかもしれないが、なんとも言えない悪臭が漂っている。冬だったらまだましだったかもしれない。


 とにかく今夜一晩と明日の午後までの辛抱だ。

 だが、いざ出航して窓から風が入るようになると、幾分しのぎやすくなった。

 ここに詰め込まれている人々はすべてといっていいほど日本人だったし、いろいろな地方の方言も飛び交っているが、やはり自分と同じ長崎の言葉がいちばん多かった。

 こんなところに四歳の弘子がじっとしているわけがない。今までの境遇が境遇だけにほかの子供よりはおとなしかったが、外に出て海が見たいと何度も訴えた。

 幸い八重子が子供連れだということで船室内の乗客のうち特に婦人たちは親切にしてくれて、外への出口に近い壁際に八重子の場所を譲ってくれた。誰もが弘子を八重子の娘だと思っているようだ。

 お蔭で容易に甲板に出ることができた。もし船室の中央あたりが自分たちの座る場所になっていたら、すでに横になっている人も多い船室内を人をかき分け、踏まないように足を下ろす場所を選び、その都度謝りながら外に出るのは至難の業だっただろう。

 八重子はとにかく弘子が海に落ちはしないかとハラハラしていたが、ここでも弘子はおとなしく八重子に抱かれたままで、甲板を走り回るというような同じような年齢の子供がしそうなことは全くしなかった。

 何もすることがないので退屈かっと思いきや、こうしたこれまでの日常とはおびただしくかけ離れた時間は、物珍しさも相って、あっという間に太陽は水平線の彼方に沈みかけていた。


 夜になると照明はかなり薄暗かった。

 夕食は竹子が持たせてくれたおにぎりだ。上の方の階にはレストランもあって、フランス料理のフルコースが出るとのことだったが、あくまでそれは特別室や特等室、一等船室の乗客のものである。

 寝る時も三等船室では、男も女も関係なく畳の上にごろ寝だ。八重子は一応横になって目をつぶり、うとうとした時間もあったと思うが、眠ったのか眠っていないのかわからないような感じだった。何しろすぐそばで中年の男性が寝ていたりするし、またいびきもあちこちでうるさい。それでも明け方近くは眠りに陥っていたようで、目が覚めると外は明るかった。

 朝食はやはり竹子が持たせてくれたパンだった。この時節、朝食もおにぎりだと夜のうちに悪くなってしまうのではないかという、竹子の配慮からだった。

 西洋文明の影響が大きい長崎といっても、まだまだパンを常食とする習慣はない。弘子などは生まれて初めてパンを見るようで、最初は恐る恐る口に入れていた。パンは昼食の分も残しておかなければならなかった。


 そうして午前中、畳の上に座って八重子がうとうとしていると、周りが急に騒がしくなり始めた。

 乗船前に聞いていた通り、特高警察の検問が始まるようだ。だがさすがにこのひしめき合っている人全員を調べるわけにもいかないようで、警察官はじろりと乗客全員を見わたし、職業的な勘で引っかかった人だけを選んで取り調べていた。

 彼らが摘発すべきは諜報員や共産主義者などで、子連れの若い女性である八重子が目をつけられるはずもなかった。万が一、渡航目的を調べられたら証拠として姉の貞子からの手紙を見せるつもりだったが、その必要はなさそうだ。

 ただ、八重子の比較的近くに座っていた若い男性が特高警察間に目をつけられたようだ。だが、ワイシャツの胸ポケットから出した何か小さな手帳を見せると、急に警察官の態度は改まって敬礼などしていた。

 その男性の顔を見た時、八重子ははっとした。もちろん、初めて見る顔である。それは間違いない。この人に会ったことはないはずだ。それなのにはっとしたのは事実で、魂の奥底で懐かしさに似た感覚をもって戸惑ったりもした。

 特高警察の尋問が終わって彼らが船室を出ていくと船室内には安堵のため息が漏れ、例の男も何事もないようにまた横になっていたので、やがて八重子も意識することがなくなっていた。


 そんな感じで、午前中の時間は流れていった。八重子は昨晩よく眠れなかったこともあって、また横になってうとうとしていた。弘子も同じようにまだすやすや寝息を立てている。今日の昼過ぎか夕方にはもう上海に着くのだ。それを思うと不思議な気持ちだった。

 昨日の今頃はまだ長崎にいて、天主堂で祈りを捧げていたころだ。

 そうして昼前に起きだして、弘子を起こして昼食のパンを食べた。

 そのあと、いい加減ずっと座っていても暇だし、また弘子が海が見たいというので、弘子を抱いて甲板に出た。甲板から見る海は、視界を遮るものは何もなかった。目の下は濃い深緑の海で、船に沿って白い波が立ち、無数の泡が湧き出ては消えていく。その色の濃さが、計り知れない海の深さを教えていた。

 目を上げると、水平線はいやにはっきりとしている。その広さは、地球が球だということを十分に感じさせてくれた。


 「お子さんですか?」


 不意に声をかけられ、しかもそれが男性の声だったので、八重子は慌てて隣を見た。

 朝方、特高警察に尋問されたが、最後は逆に警察官から敬礼を受けていたあの人だ。なぜかわからないが、八重子の胸はどきっと鳴った。

 男は隣にいる弘子のことを聞いたのだろう。


 「あ、はい。あ、いえ、姉の子なんです」


 八重子はしどろもどろだった。近くで見る男は、愛想のいい笑みを浮かべて立っていた。白いワイシャツが印象的だ。鼻筋の通った上品そうな顔立ちは、エリート的な雰囲気を漂わせていた。


 「海はいいですね」


 八重子の隣に立って手すりに手をのせ、男も海を見ながら言った。


 「あ、はい」


 八重子の顔はこわばったままだ。


 「こうして海を見ているとその雄大さに、人間がいかにちっぽけなものか教えてくれる」


 「人間って、ちっぽけなんですか?」


 「ちっぽけですよ。でも、そんなちっぽけな人間が大自然と一体になったら、心はどんどん大きくなれる」


 やっと八重子は少し笑った。


 「おもしろいことを言う方ですね」


 近くで見ると、まだ若そうだ。二十代後半だろうかと思う。


 「上海へはお仕事ですか?」


 八重子の方から聞いてみた。先ほどのこの男の手帳で特高警察の態度が急変したことも気になるが、まさかそのようなことをいきなり聞くような不躾ぶしつけなことはできない。


 「仕事ですが、むしろ上海に住んでいます。久しぶりの里帰りをした帰りです」


 「上海は長いのですか?」


 「三年になりますかね。あなたはお子さんを連れて。しかもお姉さんの子だとか」


 「姉が上海に住んでいまして、その姉にこの子を送り届けに行くんです」


 「そうですか。ではすぐに内地に帰るのですね」


 「はい、そのつもりです」


 男はまた水平線の彼方を見た。


 「それがいい。上海は遊びに行くのならいいところですけれど、住むところではない」


 意外なことを言う男だった。


 「それにしてはこの船、結構たくさんの乗客がいるんですね」


 男は八重子を見た。


 「みなさんね、ほとんどが上海で暮らしている人たちですよ。二年前の上海事変の時に一度引き揚げて、そろそろ落ち着いたころだろうと上海に戻る人々ですね」


 「そんなにたくさん」


 「はい。上海の邦人は今二万人ほどですかね」


 そう言ってから八重子は海に目を戻した、すぐに異変に気が付いた。


 「あら?」


 八重子の目は、船が進んでいく方角の水平線を見ていた。黄褐色の平らな島影が、行く手の水平線にうっすらと横たわっている。島はいくつもあるようだ。


 「ほう、もうすぐですよ」


 男もそちらの方を見て言った。


 「あれが上海の陸地ですか?」


 「いや、あれは陸じゃないです」


 男は笑っていた。


 「もうすぐなんだかわかりますよ」


 その言葉通り、船はその黄褐色のものに近づいて行った。

 八重子が島影かと思ったものも、実は海だった。つまり、海の色が違う部分がある。そういった黄色い海水の塊がどんどん後ろに流れていき、やがて行く手に青い海と黄色い海の境目が見えてきた。青い海はそこで終わりで、その向こうは果てしなく黄土色の海だ。その境目がどんどん近くなってくる。


 「揚子江が運んできた土砂のため、海がこんな色なんですよ」


 男が説明口調で話してくれた。


 「海の色が変わったら、もうすぐ上海に着くっていうことです」


 たしかに、上海着の予定時刻の午後三時ももうすぐだ。

 その「上海に着く」っていう言葉を聞いて、今まで何か一つ実感にわかなかった上海という町を八重子は急に現実のものとして感じ始めた。

 甲板に急に人が多くなり始めた。まもなく上海に着くということを、誰もが実感したいのだろう。

 やがて、黄土色の海が次第に近づいてきた。青い海と黄色い海の境界線は、見事な一本の線だった。二つの色の海は決して混ざり合うことはない。その上をまさに船が通過するとき、どこからか歓声が上がった。

 それからは辺り一面黄土色の海で、実に奇妙な風景だった。弘子は八重子に抱かれ、黙ってその不思議な光景を見ていた。

 

 それから本物の陸地が見えるまで、それほど時間はかからなかった。平べったい大地が、黄色い海に浮いている。その大地の方ではなく、大地に沿って船は進んでいる。


 「上陸はまだですか?」


 八重子は、隣の男に聞いてみた。


 「もうすぐです。実はもうここ、大陸です。ここはもう海ではなくて川なんですよ」


 「川?」


 「揚子江です。向こうが対岸です」


 男が指さした方を見ても、ただ黄色い水平線があるだけだ。


 「え? たしかに、よく見るうっすらと向こう岸が見えるような」


 「いえいえいえ、あれは川の中の島です。本当の対岸はさらにそのずっと向こうです」


 八重子はもう言葉がなかった。すべての常識がここで覆ろうとしていた。

 船の進行方向左手に陸地があるが、陸地の上には緑が認められた。あくまでそれは平べったく、空と海の間に果てしなく横たわっている。どこを見ても山は見えそうもなかった。

 やがてそんな大地が割けて、もう一本の別の川が注ぎ込んでいるのが見えた。


 「黄浦ワンプー江が揚子江に注ぐ河口です。上陸ももうすぐですよ」


 男は微笑んだ。

 黄浦江の水は元の濃い藍色で、大地の中を蛇行するその川を船はさかのぼっていった。この川はさすがに両岸の景色は見えるが、それでもなかなかの大河である。

 長崎の出島埠頭から外海に出るまでの間航行した長崎湾よりもはるかに幅がある。それでも長崎湾は一応海であるのに、ここは川だ。

 やがて、川の上に巨大な船舶が無数停泊しているのが見えてきた。そして右岸に見たこともないような巨大なビルが立ち並ぶ光景が見えてきた。まだ遠いので小さく見えているだけだが、それでも巨大な建物であることはわかる。


 「あのあたりが上海の中心地ですね」


 男の言う通り、、船はそちらへ向かってまっしぐらに進む。


 「あれがブロードウェイ・マンション」


 男が指さしたところには、箱型の茶色い建物がひときわ高くそびえていた。その向こうにも何十階建てと思われる建物がそびえて並んである、中にはとんがり屋根の建物もある。それらが近づくにつれ、いかに巨大かが分かってきた。なにしろ八重子は、これまで五階建て以上の建物を見たことがないのだ。

 その近くの川沿いが全部港のようで、あちこちに埠頭が見える。接岸しているものばかりでなく、川のあちこちに巨大な船が思い思いに停泊し、錨を下ろしているようだ。

 日本の船も多いが、明らかに外国船と思われる船も多数にある。いくら長崎の港でも、こんなに多くの船が停泊していたりはしない。

 船は客船ばかりでなく貨物船も多いが、軍艦もたくさん見える。しかもそれが外国の軍艦なのだ。長崎に軍艦はあまりいないが、佐世保の港に行けば軍艦をたくさん見ることができる。しかし、外国の軍艦など佐世保には絶対にいるわけがない。

 いろんな国の軍艦が同時に停泊しているこの上海の港というのが、とてつもなく不思議な場所に八重子には思えてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る