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電報の返事は電報で来るかと思っていたが、二、三日たっても一向に返事は来なかった。
その間に、良太郎と康子の夫婦は東京に戻っていった。
そんな貞子から竜之助宛に手紙が届いたのは十日もたってからだった。
だが、竜之助はその手紙を、なかなか八重子には見せてくれなかった。
「ねえ、貞子姉ちゃんの手紙にはなんて書いてあったとね」
手紙が届いた日の夕食で、八重子は切り出した。
「なんも今言わんでもよか。飯は黙って食わんね」
「でも、気になる」
あれから弘子は、預けていた先方のところへ竹子が交渉に行って正式に引き取った。最初はいつもの通り不愛想で出てきた例の女も、弘子引き取りの話が出たとたんに相好を崩して急に愛想がよくなったとのことである。
そんなところへ、弘子の母で八重子の姉である貞子からの手紙が上海から届いたのだ。
食事が終わったら早速にでも手紙を見せてくれると八重子は思っていたが、夕の祈りの方が先だった。「天使祝詞」から始まって「主祷文」「使徒信経」「告白の祈り」「終業の祈り」と続いて、最後の「栄唱」まで十分はかかる。この時は竜之助と竹子の夫婦やその子供たちとともに、八重子も弘子とともに家庭祭壇の前に並んで座る。
その夕の祈りが終わると、さっそく八重子は竜之助に詰め寄った。
「貞子姉ちゃんの手紙」
竹子が竜之助に目で合図していた。何かを制しているようだ。
「いや。はっきり言うておいた方がよか」
「何ね?」
八重子はさらに竜之助に迫った。
「まずはあの電報じゃようわからんって」
確かにそうかもしれない。「ヒロコイジ メウク」の九文字だ。だがこれで三円六十銭もした。うどんが七食は食べられる額だ。
「そんで何かと心配じゃけん、弘子ば上海さん寄こしてほしかと」
「え? こぎゃんこまっか子を?」
竜之助はまた黙った。
「言いたかなかとばってん」
そこに竹子が静かに口をはさんだ。
「貞子
「兄ちゃん」
八重子はきりりと言った。
「そん手紙ば見せてくれんね」
「いけん」
「なして?」
「いけん言うたらいけん」
竜之助は何かを隠している。その時、竜之助の浴衣の
「こら、返さんね」
慌てて手紙を奪い返そうとする竜之助に背を向け、八重子はその手紙を読みだした。だがすぐに、手紙は竜之助に奪い返された。だが、八重子は肝心なところはしっかりと読んでいた。
「兄ちゃん。貞子姉ちゃんは私に弘子ば上海に連れてきてほしかと言うとっとやさ」
「ふうけ! わいに行かせられるわけなかとじゃろ」
「なしてね」
「上海かあ、私来るけん」
八重子は微笑んで、つぶやくように言った。
「なんば言いよっと。頭ば冷やしてこんね」
「なして? なしていけんね?」
「考えてもみんね。今や日本と『支那』は戦争ばしよっとよ。上海でも市街戦のあって、よんにゅう邦人が引き上げてきよる。そぎゃんとこにのこのこ来っ人がどこにおっとね」
「ばってん、上海はもうわが軍が占領しとるはずたい」
「八重子、よかか。今、帝国は重慶の国民政府と戦っとう。大陸の情勢は刻一刻と変化しよる。二、三年前までごた気楽に行ける場所じゃなか。そいに上海いうたら、東洋の魔都といわれよっと。そぎゃんとこに娘が一人でのこのこ行って、淫売でもさせられたらどぎゃんすっとね」
「そぎゃんこつなか。姉ちゃんとこ来るとじゃけん。そいにここからは東京よりも上海の方が近かよ。旅券もいらんと」
「船賃はあっとね」
「二十円か三十円ばい。そいくらい貯金のあっと」
「ようそぎゃん金ばあっとな」
「私に手紙ば見せんと、どぎゃんするつもりだったと?」
「おいが上海さん来るつもりじゃった」
「ああた、どうまた」
竹子も呆れていた。
「わいは黙っとり」
言われて竹子は口をつぐんだが、八重子は意気揚々だった。
「私、絶対来るけんね」
「わかった」
厳かに、竜之助は言った。
「え? ほんなこつ?」
八重子の顔にぱっと光がさした。
「ただし条件のあっと。まず、弘子ば置いたらすぐに帰ってくること」
「はい」
「そいから、学校ばやめてから来ること」
「え? なして?」
八重子の顔から光が消えた。
「学校ばやめりって、看護婦になるんやめりいうこつね?」
「ああ、おいは最初から反対しよっとじゃなかね。それをわいは無理やり入りよった」
「だってお隣の永田
「そい永田
「ばってんそいば条件にするなんてこすかよ」
「とにかく学校ばやめん限り、上海にはおいが来る」
どうにも竜之助には、取りつく島もなさそうだった。
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