家を出ると、天主堂から登ってきた坂道とは直角の、つまり先ほどの道から右に折れた。ほんの一、二分歩くと、すぐに山里尋常小学校だ。

 八重子の姉の貞子の昔の友人の家というのは、その小学校の校門の近くである。前に貞子が上海に行く前に生まれたばかりの弘子を預ける時、八重子も一緒に行ったので家は覚えている。

 だが、あれ以来多忙を口実に八重子はほとんどこの家には来ていなかった。


 「ごめんください」


 八重子が中に向かって、一声かけた。返事はなかった。


 「ごめんください」


 もう一度声をかけて、やっと三十代に近いと思われる小太りの女が出てきた。


 「だいね」


 その女は不機嫌そうな顔で二人を見ても、表情も変えなかった。


 「あんたらね」


 「あのう、弘子は?」


 「裏さんおっと」


 女はそれだけ言うと、すぐに裏に引っ込んだ。まだ四歳の子供から完全に目を離して、勝手に遊ばせているようだ。


 「あれ、だいね」


 康子は八重子の背中越しに小声で尋ねた。


 「あの人が貞子姉ちゃんの女学校時代のお友達たい。さっき言った」


 「なんでよりによってあぎゃん人に預けたとね」


 「ほかにおらんかったんじゃね」


 そう言ってから八重子は仕方なく、家の脇から裏に回った。

 庭は広くなく、すぐに隣家との境の垣根があって、どの家でもそうであるように井戸がある。その井戸端に、幼女が一人、背をもたれてかがみこんでいた。

 八重子はそれを見て、一瞬顔がこわばった。


 「弘子…」


 八重子が声をかけて、はじめて弘子は半泣きの様子で顔を上げた。そのまま黙って、八重子を見つめていた。


 「弘子。どぎゃんしたと?」


 弘子は小首をかしげる。


 「私よ。お母さんの妹。あなたの叔母さん」


 「叔母しゃん?」


 やっと弘子は力なくそれだけ言った。あとはまた無言だ。八重子がその体を抱き上げると、弘子は急に泣きながら顔を八重子にうずめた。


 「どぎゃんした?」


 弘子はただ、泣くばかりだ。八重子は背後の康子に目配せした。


 「こぎゃん痩しぇて」


 先ほどの女が縁側から庭をのぞいたが、すぐにまた中に入っていった。


 「弘子、ちょっと連れて行きますたい」


 八重子は中へ声をかけたが、すぐに返事はなかった。


 「好きにせんね」


 ぶっきらぼうな答えが返ってくるまで、少し間があった。

 八重子はそのまま泣きじゃくる弘子を抱いて、康子とともに帰途についた。


 自宅の庭の見える部屋で、八重子は弘子とともに座った。兄の竜之助と兄嫁の竹子、そして良太郎と康子の夫婦も一緒だ。

 縁側のすぐ下まで植木が並べられ、軒下には風鈴が涼しげな音をたてていた。風通しのいい部屋だ。

 ふすまもすべて開け放っているので、奥の台所や洗面所までよく見える。

 部屋の隅には仏壇の代わりに十字架のかかった家庭祭壇があり、聖母マリアの像も置かれている。


 「泣てばかりじゃわからんじゃなかね」


 竜之助が厳かに弘子に向かって口を開いた。


 「あんちゃん、相手は子供じゃけん、もっと優しく言わんね」


 そういってから八重子は身を乗り出し、自分の目をこすっていた弘子の手を取った。


 「なんでん話してみんしゃい」


 泣きながら、弘子はこくりとうなずいた。


 「今日もご飯、食べさせてくれんかった」


 「今日も?」


 八重子に聞かれて、弘子はまたうなずく。


 「ひろちゃんばいじめたって、ぶたれた」


 「洋ちゃんって?」


 康子が口をはさんだ。


 「あん家の子たい」


 「私、なんもしとらん。ほんなこつなんもしとらん。悪かとは洋ちゃんばい」


 弘子は、再び泣き始めた。


 「ご飯食べさせてくれんって、いつからね?」


 「昨日の夜からずっと。それに、ちゃんと掃除ばしとらんって」


 「掃除? 弘子が掃除ばしよっと?」


 「うん、毎日させられよる」


 八重子は兄と顔を見合わせた。


 「ご飯ば食べさせてもらえんて、一度や二度ではなかばい。そぎゃん痩せがっつさなって」


 竜之助がそういうので、八重子はふと気になって弘子を抱き寄せた。そして弘子の服の衿をちょっとつまんで、その中の体を見てみた。そこにあったのは本当にあばら骨も見えるくらいのやせ細った体だった。


 「ん?」


 しかし、八重子が気になったのは体中至る所にある打身の傷だった。ほとんどあざとなって、それが無数にある。


 「こんは……」


 それは明らかに日常的虐待を受けている証拠だと、看護学生の八重子にはすぐにわかった。


 「なんぼなんでん……」


 八重子は絶句した。重い雰囲気が部屋に流れ、泣きじゃくる弘子のほかは誰も声を発しなかった。


 蝉時雨が部屋の中まで注ぎ込んで、かえって静けさを強調した。


 「竹子。わいは弘子の様子ば見に来よらんかったとね」


 「時々来よったとばってん、弘子がこぎゃんなっとっととは気づかんかったばい」


 すると突然、八重子は顔を上げた。


 「兄ちゃん、うちで引きとりゅうで」


 皆の視線がさっと八重子に集まった。竜之助はしばらく黙って八重子を見ていたが、やがて厳かに口を開いた。


 「いけん。うちはこれだけ子供のいよるけん、もうこれ以上の余裕はなか。そぎゃんこつはわいも知っとっとじゃろ」


 「ばってんこれじゃあまりにもつれなか」


 「勝手に子供ばうっちょいて上海さん行ってしもうた貞子姉ちゃんの子たい。悪かとは貞子姉ちゃんばい」


 「なら私が育てる。じゃったら問題はなかとじゃろ」


 「なんば言うとっとね。まだ結婚もしとらん小娘になんができっと」


 「ばってんそぎゃんでんせんと」


 「まあまあ、落ち着いて考えたらどぎゃんね」


 竹子がそこへ口を挟む。


 「しばらくならうちで預かってもかまわんさ。まずは上海の貞子義姉ねえさんに手紙ば書いてみたら」


 「手紙じゃひまんいる。電報打とうで」


 八重子が言うと、竜之助はまた顔をしかめた。


 「東京さん電報打つんと訳がちごうと。なんぼかかるんね」


 良太郎が顔を上げた。


 「一語二十銭ですたい」


 「二十銭ならお米一升の半分じゃなかね」


 良太郎は少し笑って、眼鏡を直した。


 「一語ですたい。一語だけでは電報は送れんとです」


 自分の勘違いにバツの悪そうな顔をした八重子だったが、とにかくいくらかかってもすぐに電報を打ちたいと主張した。

 そしてまだ腕の中にいる弘子に語りかけた。


 「今から弘子のお母さんに電報ば打つけんね」


 八重子はそれだけ言うと、弘子を抱いたまま立ち上がった。

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