上海の三木パウロ~共同租界にて~
John B. Rabitan
上海の三木パウロ~共同租界にて~
第1章 長崎、蝉しぐれ
1
キリシタン大名として有名な島原のドン・プロタジオ有馬晴信がイエズス会に寄進した浦上村は、当然のこと多くの
だが、徳川時代の弾圧で彼らの多くの血が流されたが、明治初期の信徒発見までひそかにその信仰は受け継がれてきた。
そんな歴史を持つこの土地にも昭和15年の今、堂々たる東洋一の天主堂がそびえている。
八重子の隣に座っている
「康子姉ちゃんは久しぶりだけん、懐かしかとじゃろ」
「懐かしか言うてん、東京さん行ってからまだ三年もたっとらんばい」
康子も控えめに笑った。康子がその夫の良太郎とともに東京に出て行ったのは三年前、夫は東京の大きな造船所に勤めているという。久しぶりの里帰りである。
今日はそんな康子を連れてオランダ坂から出島の方へ見物に行き、路面電車で浦上に帰ってきたばかりだ。康子は家に帰る前にちょっと寄り道して、教会に行きたいと言った。日曜日のミサまで待てないというのだ、
天主堂の中はかなり天井裏が高い。奥行きが深くて細長い。
「あれ? 前に来たときもこぎゃん立派な祭壇じゃったろか」
康子がその祭壇を見て、感嘆の声を上げた。
「最近改装したとよ」
祭壇の上は複雑な形をしており、中央の十字架のキリスト像のさらに上にまるで
祭壇の上の十字架のさらに上の壁にはステンドグラスの三つの窓があって、中央が聖母マリア、そして左右がそれぞれ使徒聖ペトロ・聖パウロの極彩色の絵である。
左右に何本も並ぶ太くて丸い白い柱の列に挟まれた床は板張りで、日曜になるとその板の上に信徒がひしめき合い、男女が左右に分かれて座る。木の床の上の正座は今は夏だからかえってひんやりとしていいが、冬はかなり冷たい。
「東京にもこぎゃん大きか教会のあっと?」
祭壇のキリスト像を見ながら、十九歳の八重子は興味津々という感じで康子に聞いた。
「こぎゃん大きかはなかよ。私の行きよる教会も昔はかなり大きかったごたばってん、震災で焼けたらしか。今のはこまかかばってん、ギリシャの神殿ごたなかなかよか」
言いながらも康子は立ち上がった。八重子も同じように立って、祭壇に一礼した。康子は和服だが、八重子は洋装であった。
外に出ると痛いほどの日差しが二人を襲い、けたたましいほどの蝉時雨だった。
天主堂の前は大きな柿の木があり、下の畑までのスロープの両側の石垣とともにかつてここが庄屋の屋敷だった名残だ。
天主堂がある丘の下は一面の畑で、遠くの稲佐山まで開けた景色だった。
丘の下から二人は、もう一度天主堂を見上げた。赤レンガで二つの鐘楼を持つ大天主堂は、金比羅山を背に青い空にそびえていた。
二人は八重子の家に向かって天主堂の正面を回り込み、北の方角つまり天主堂の左側面を背後に見ながら畑の中の道を進んだ。
こっちの方角には集落があって、その手前に常清女学校の校舎が広々とした校庭の向こうに低い赤レンガの塀越しに見えた。二階建てで瓦屋根を持つやはり赤レンガ造りの校舎は、修道院や木造平屋の幼稚園の建物とつながっている。
今は夏休み中だから閑散としているが、それでも校門からは何か用があって登校したのだろう数人の白い丸衿のブラウスの制服を着た女学生が談笑しながら出てきて、八重子たちとすれ違う形になった。
「女学生はほんなこつ羨ましか」
康子がそれを見て、小声でポツンとつぶやいた。八重子はくすっと笑った。
「女学生ばうらやましがるなんて、やはり康子姉ちゃん、もう年やなあ」
「違う。そぎゃんこつやなか」
康子の様子は笑いながらも少し寂しそうだった。
「私、尋常小学校しかでとらんで」
八重子は自分の勘違いがバツが悪かった。
「そぎゃんこつ……」
「八重ちゃんも偉かよ。看護学校ば行きよっとじゃろ。将来は白衣の天使」
八重子ははにかみの笑みでうなずいた。
「学校はどぎゃんね。忙しかとね」
「うん、夏休みが終わったら病院実習が始まっとよ」
「きつかとやろ」
「ばってん、自分で選んだ道やけん」
そのまま集落の家と家の間の細い道を五分ほど歩くと、道は緩い登り坂になった。その短い坂の上の右側が八重子の家だ。今は兄の家族と同居している。
その一つ手前の隣家の庭にいた中年女性が、八重子を見て手を振った。
「あれ、八重ちゃん。今帰りね」
「はい。今日も
「そちらはお友達?」
隣家の夫人が康子を見る。
「
「こんにちは」
康子も明るく挨拶をした。その耳元で、八重子は説明した。
「お隣の永田先生の奥さんの
「そぎゃん偉かなんて」
永田の妻の
「そいばってん助教授たい。なんか勲章ももらいなったと。あの縁さんも純心の
純心とは八重子の家の北へ歩いて十分ほどの、浦上川の向こうにある女学校で、常清と同じカトリックの女学校である。
その時、隣の八重子の家の縁側の方から声がした。
「八重子か。そぎゃんとこで立ち話しとらんで、早く帰ってこんね」
兄の
「はーい」
八重子は縁に一礼し、康子を促して隣の自分の家に向かった。
八重子の家は四つ辻の角で、門はなく玄関は道に直接面していた。その右にごく狭い庭があって、庭越しに縁側が見える。縁側では八重子の十一歳年上の兄の竜之助が、康子の夫の良太郎と将棋を指していた。
二人とも浴衣姿だった。竜之助は両親亡き後、この家の家長である。妻と三人の子供、そして妹の八重子という家族構成だった。里帰りしている良太郎と康子夫妻も、この家に逗留していた。二階建てで部屋数ばかりたくさんあって、もう一組の夫婦が泊まるのに何ら不自由はなかった。
竜之助はもう三十になるというのに面立ちに幾分青年の名残が感じられるのは、丸眼鏡のせいだろう。かなりの細身だ。
良太郎はずっと若いが細身であることは変わりがない。ただ、かなり武骨そうな感じがする。
八重子たちが玄関への二、三段の階段を上るのをちらりと良太郎は見て、すぐに将棋盤に目を落とした。すぐにそれまで背を向けていた竜之助も振り返った。
「あがる前にはよ裏さん行って足ば洗ってこんね」
「好かん。
八重子はぶつぶつ文句を言いながら、康子とともに家の裏庭の井戸端に行くと、兄嫁の竹子が西瓜を洗っていた。ようやく日本全国に西瓜は広まりつつあったが、長崎ではかなり古くから西瓜は普通に食べられていた。
二人が来るのを見て、竹子は相好を崩した。
「あらあ、康子ちゃん。久しぶりの長崎はどぎゃんね」
「はい。楽しかったとです。でも、
竹子は笑った。
「はよ、あんたらの子供の顔が見たかよ」
「そんな……」
康子が照れて笑っている脇で、八重子が声を上げた。
「子供っていえば」
「何ね?」
康子が八重子を見た。
「お貞姉ちゃんとこの弘子ちゃん、どぎゃんしよっとじゃろ」
「あれ? お貞姉ちゃんは上海さん行っとっとばい? 赤ちゃんの生まれたって聞いたばってん」
「もう数えで四つになっとっと」
「私の東京さん行ってすぐだったけんね。上海さん連れて行っとらんとね」
「うん、姉ちゃんの昔の友達に預けとる。なんか弘子が生まれてすぐに上海ですごか戦争のあって、そん時に一度引き上げてきたばってん、上海に戻るときにこまかか子ば連れて行くんも心配じゃけん言いよって、うっちょって行ったとよ。ばってんうちじゃ子供の多かけん、そいで姉ちゃんの友達のうちにおっと。今、どぎゃんしよっとじゃろ。ふとかなとっとじゃろな」
「遠かね?」
「山里小学校の近く」
「じゃあ、見に来んね」
康子に言われて、八重子もうなずいた。
「うん、来る」
二人はそのまままた玄関の方へ出た。
「おい。今帰ってきたばっかりで、また出かけっとね」
背後を竜之助の声が追ってきたが、八重子は振り向きもせず言った。
「すぐ帰ってきますけん」
そう言い残して、八重子は康子とともに再び外に出た。
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