第8話 青木藍璃の1話目。
△12/8の更新は7話に少しだけ追記されています。そちらを読んでから進んでくださいませ。
「藍璃と一緒ならどんなところに行ったって怖くないね」
そう言って私の手を握って。
「あは、かわいい」
そう言って私の頭を撫でて。
「大丈夫、どんな奴らに悪く言われても私がそばにいるよ」
そう言って私の身体を抱きしめた。
そんな彼女は、たった一言、「重い」と言って私のもとから去った。
思い出すだけで息ができなくなる。誰もいない、光の届かぬ深海に一人沈んでいく。そんな感覚に陥って右も左もわからなくなってしまう。
さんざん私に好きだ、愛してる、そんなふうに伝えてきたくせに。可愛い、と頭を撫でてきたくせに。私が彼女のことを好きになって、それで彼女もそれに答えてくれて。世界で一番幸せだったのに、彼女はあっさりと私を捨てた。食べ終わった菓子パンの袋を捨てるような軽さで。
彼女のことを思い出すたびに眠れなくなって、怖くて、私はもう人を愛せないんじゃないかと不安になった。泣きじゃくった日々が終われば、涙は枯れてしまって、逆に泣けなくなった。それでも恋人やパートナーが欲しくてたまらなくて、寂しくて。生きていけない気すらした。そんな最中始まった就職活動に更に追い打ちをかけられる日々。外面を必死に保って、パンプスでむける踵の痛みに耐えた。踵よりも心がずっとずっと痛くて。そんな中、とある企業のインターンに行くことになった。大手のスポーツ会社だ。私なんかが受かるわけない。そう思いつつも、会社に向かった。
自分はどうやら思っていたよりポンコツだったらしい。会社の中で気がつけば迷子になっていた。どこが集合場所である会議室か、ちっともわからない。もうすぐで時間になってしまう。あまりにも辺鄙な遠い場所に来てしまったのか、人気も少なく、かと言って誰か通ったとしても聞く勇気もなかった。
その時だった。
「大丈夫?」
優しい声がした。振り返ると女神がいた。いやだって、彼女はちょうど大きい窓に背を向けていて、そこから差し込む太陽の強い光を彼女が背負っていたんだもん。光輪と共に現れた女神様だった。しかし、彼女の表情はキリリとしていて、少し怖かった。怒られるのかもしれないと身体を強張らせた。
「あの、インターンに来たんですけど、場所がわからなくて、」
「そうなのね、今担当の人に聞くからちょっと待って」
そう言うと彼女は少し移動してスマホでどこかに電話をかけ始めた。耳に髪をかける仕草すら、なんだか繊細で思わずずっと見てしまった。
「今聞いたから、案内するわね。……どうしたの? 私の顔になにかついてる?」
「アッ、いえ、なんでもありません」
ずい、と私に顔を近づけて聞いてくるのだから思わず私は数歩後ろに下がってしまった。顔がいい女だ……。だけど迫力があってやっぱりちょっと怖かった。
「インターンは始めて?」
「は、はい」
「ふふ、そんなに緊張しなくてもいいわ、取って食うわけじゃないんだから」
彼女は愉快そうに笑った。そのときに、ふと、笑顔が案外可愛いことに気づいてしまった。でも、慣れない私のおどおどした様子を見て笑っているに違いない。顔がいい女が性格もいいわけないもん。それにもう人には期待しない。そう決めたのだ。
「ごめんね、ちょっとでいいのだけど、インターンの案内メール見せてくれる?」
言われるがまま、送られてきたメールや資料を見せると彼女は、ふむと少し考え込んでいた。ちゃんと資料を読み込んでおかなかった私が悪い。怒られるのかとビクビクしていれば、想像に反して彼女は優しく笑いかけてくれた。
「大丈夫よ」
その笑顔に、僅かに足取りが軽くなったのを私はよく覚えている。
集合場所につくと案の定担当者は、激怒していて。開けるなり飛んできた怒号に私はビクリと身体を震わせた。その私を隠すようにピンとした背筋のまま彼女は前に立った。
「何をそんなに怒っていらっしゃるのですか? 大体そもそも、このメールの文章が勘違いさせるような案内の内容なのが悪いのでしょう?」
「は? 迷っても良いように遅れてきたそいつが悪いだろうが!」
「この子30分前にはついてましたよ。それだけ迷って辿り着かないって相当だと思いません?」
担当者がむぐ、と黙る。彼女はピンとまっすぐ立ったまま静かに彼を言及していった。
「メールの文章の多少の打ち間違いならまだしも、この書き方は誰もが勘違いすると思いませんか。他にも遅れてきている子いるんでしょう?」
「この程度理解できないと社会人としてやっていけるわけ無いだろう!」
「社会人は、文章を深読みする能力を試される国語のテストを受けているわけじゃないんですよ。社会人名乗る前に小学生に作文の書き方でも教わってきたらどうですか」
「貴様!」
顔を真っ赤にして怒る男にも彼女は全く動じない。静かにただ冷たく彼を睨みつけている。彼女のほうが背が低いはずなのに、存在感が尋常じゃなかった。
「上に言いつけてやるからな。可愛げのない女め!」
男がそう言い放って、扉から出ていこうとしたその時、男の顔面に扉がバンッと当たった。
「い"っ」
「あら、失礼いたしました」
開いた扉から出てきたのは、すらっとした女性だった。ピクリとも口角をあげず、鼻を抑えている男の耳元で、はっきりと、「新社会人のお手本になれない社会人は、この会社にいないはずなのだけど」と言ったのだ。
これ以上ないほどに顔を赤くした男は今度こそ扉を開けて、逃げるように去っていった。
「連絡ありがとう。上に掛け合って、今から私が彼らを見るわ」
「流石紺野さん。ありがとうございます」
ペコリと紺野さんに頭を下げたあと、彼女は振り返ると、私の頭をふわりと撫でた。
「怖かったわよね、ごめんね」
その手があまりにも温かくて、いつぶりかわからない涙が静かに頬を伝った。
「わ、わ、本当に大丈夫?」
心配そうに眉を下げて私の顔を覗き込む彼女。涙で視界が歪む中、その胸には赤星と書いてあるのが見えて、私はその名前を一生忘れないと誓ったのだった。
そんなかっこよくて、憧れの彼女が、今私の膝で寝ています。
その事実に思わず手で顔を覆う。そんな私の様子を、ケラケラ笑いながら浅葱さんが見ていた。
「青木ちゃん、まじで赤星さんにゾッコンだね」
「赤星さんの情報くれるとかあの時言われてなかったら、そもそも浅葱さんと連絡先交換してませんからね、私」
今回の飲み会は、実ははじめから仕組んでいて。浅葱さんが、まず朱澤さんを誘い、朱澤さんに赤星さんを誘ってもらい、私がついでについていく。私は赤星さんと飲みたかったけど、二人きりじゃ行ってくれるか不安だったのだ。そこで、朱澤さんがいれば、ついてきてくれるだろうと判断したのである。
「というか、赤星さんがある程度飲ませると寝ちゃうこと、よく知ってましたね。まさか、送り狼でもしたんですか? ぶっ殺しますよ」
「してないから殺さないでくれ。まぁ、赤星さんが酔いつぶれるくらいお酒を飲むっていうのは、発動条件があってね」
「なんですかそれ。必殺技を発動するコマンドみたいな」
彼が少し自慢げに笑う。普通の女の子なら、彼と二人きりで会話なんて天にも昇る心地だろう。しかし、私の気分を天にも昇る心地にさせているのは彼ではなく、私の隣で私に寄りかかって寝ている赤星さんのなのだが。
「彼女は普段はかなり自分でセーブしているから、そもそもあまり飲まない。だけど、意外と人に進められると断れないんだよ。特に後輩にはね。それと、彼女の気が緩むのは彼がそばにいるときだね」
ちら、と彼が視線をやる隣には酔っ払いながら、うつらうつらとしている朱澤さんがいた。今にも寝てしまいそうだ。彼も会社の中じゃ、人気な方だ。わんこっぽいかわいい顔が庇護欲をそそるらしい。正直気の強そうなイメージの赤星さんと彼はよく釣り合っているように見える。
「彼は幼馴染だから、なんだかんだ言って気が緩むんだろう。彼がいて、可愛い後輩がいる今日は彼女が酔っ払う条件を満たしていたんだ」
「朱澤さんがいないと酔っ払らわないっていうのは悔しいですね」
「そうだね、僕と二人じゃ一杯しか飲まないよ」
ついに朱澤さんがこてん、とバランスを崩し、彼に寄りかかった。浅葱さんはため息をついて、彼を避ける。
「いでっ」
「ほら朱澤起きろ」
彼にしては珍しく乱暴に朱澤さんを起こす。朱澤さんは、何すんだよーとポコポコ彼を叩く。うぅむ、確かにこんな感じの男の人だったら、普通の女の人は可愛くて仕方なくなるだろう。会社の王子様の浅葱ですら、眉を潜め、困った顔をしている。
「王子様も、わんこにペースを乱されるんですね」
私がそう言うと浅葱さんはほんの少しムッとした顔をした。なんだか面白くなってクスクス笑ってしまった。
「はぁ、こんなんじゃ朱澤は赤星を送れないだろうし、君が送ってあげてくれ。住所は教えるから」
「なんで住所知ってるんですか、ぶっ殺案件ですか」
「年賀状を交換してるだけだよ。タクシーは2台呼んどいたから」
「流石手が早いですね」
「言い方」
「ほらだって、私に手を出そうとしてたでしょう」
「まさか、面白い子だね、って呟いただけだよ」
「女に面白いっていう王子様は、恋愛漫画の最初の1ページに何万回も登場してるんですよ」
「ごめんね、俺以外とジャ○プ派なんだ」
テンポのいい会話ができるあたり、確かに彼はモテそうだ。いつの間にか飲み代も支払っていたらしく、こんなの普通の女の子だったら落ちるだろうけど、私は面白い女なので。
「絶対くだらないこと考えてるね」
「まさか。今度、飲み代ちゃんと請求してくださいね」
「気が向いたら。それじゃあ、送り狼にはならないようにね」
一瞬赤星さんを見ると彼はフッ、と表情を柔らかくする。その顔はあまりにも優しい。私達をタクシーに乗せるとドライバーに住所を教えた。私達の乗ったタクシーの扉を彼が閉めようする。私はふと感じた確信を呟いた。
「浅葱さん、本当は私じゃなくて赤星さんが好きなんですね」
彼の目が僅かに見開かれる。そして、クシャリと笑った。
「でも、俺じゃ駄目なんだよ」
バタンとタクシーの扉が閉められた。
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