第8話 挑戦すらしない夢は、いつか呪いに変わる

キーンコーンカーンコーン、キーンコーンカーンコーン。


 授業の始まりの予鈴が鳴って、気付いてしまう。

(結局、凛の夢が何か聞けてねー!)

 まあ、放課後にでも一緒に帰って聞けばいいか?

 なんてこの時は思っていたけれど、残念ながら凜は放課後に部活のミーティングがあるらしく、放課後にこの話をするのを断られてしまった。

 そのまま、何もない夕暮れ時に、一人、千里さんの課題を考えながら帰宅する。


「ただいまー。」

 そう言いながら、見慣れた玄関の扉を開ける。

「おかえり~。」

 玄関を開けた先にはそう呟く母さんが、父さんのワイシャツのアイロン掛けをしていた。


 そんな母さんをみてふと思い立って聞いてみた。

「そういえば、母さんは夢とかあった?」


 母さんは大人だ。俺と同じ道を通ってきたはずだ。同じ悩みだって抱えてきたはずだ。そう思って俺は質問してみたのだ。


「どうしたの~?いきなり。」

 母さんが質問に質問で返してきたので千里さんの課題のことを母さんに話す。


「なるほどね。でも、私の父ちゃん、健太郎から見るとおじいちゃんが厳しくて、母さんは地元の大学以外の選択肢がなかったんだよねぇ。」


昔を思い出すように形のいい口を開く。親の昔話を聞くのは何か見てはいけないものを覗いているような気になる。


「でもね、健太郎、私はそこで健太郎の父親の祐さんに出会えてあんたが生まれて幸せだった。だから、まあ人間万事塞翁が馬。最低でも地元の国公立って私はいつも結構厳しいことを言っているけれど健太郎が全力でやってくれるならそれでいいよ。まあ、全力でやらなかったときはどうなるか覚えておきなさいよ。とは言っておくけど。」


 そう言いながら我が母は顔を赤らめながら拳を握りしめた。

 うちの母親は美人だなと思えるような綺麗な笑顔だった。


・・・


 まあ、息子的には全力でやらなかった時に家からの締め出しをくらったり、お小遣い三ヵ月なしの生活を強いられてきた苦い経験があるので普通に鳥肌たっちゃっていますけどね。


 でも、母さんのおかげでどう考えればいいかは分かった気がする。

 結局はどれだけ悩んでも失敗すれば後悔するし、成功すればよかった、なんて思えるのが人間なのだ。


 だから、今、なりたいものになるために全力を出すことにした。自分に能力が足りないなんて言い訳は後でもできるのだ。確かに、今から頑張っても最終的には夢はかなわないかもしれない。無理かもしれない。


 けれど、今挑戦しなければ挑戦すらしなかったことを一生ひきずってしまう気がする。もしもこれから先、好きではない仕事についてしまったときに「あの時頑張っていればなぁ」なんて言ってしまうかもしれない。それはいくらなんでもかっこわるい。冒険した方がカッコイイだろ?


 だから、俺は、一度は憧れで止まっていた夢に挑戦だけはすることにした。


 俺は医者になりたい。


 あの夏の日の思い出と、天使のような優しい家庭教師を胸に思い浮かべ、俺はこの日決意した。


 そして、その思いのまま机の前で勉強をする。

 まずは数学じゃー。ベクトルかかってこーい。

 アクセラ〇ーター並みの演算能力で計算してやんよ。

 そうやって月が天辺に行くまで勉強した。



 翌日は千里さんがやってくる日だった。

 この日の千里さんは白いワンピースに黒の日傘を持ってやってきていた。白いワンピース姿の千里さんはただの天使だった。そこに、黒色の日傘が大人びた印象をアクセントに加える。


 そのせいで妖艶な堕天使にもみえる。

 こんな堕天使にだったら地獄だろうとついて行っちゃうな。なんて心の中で呟く。


「健太郎君。ちゃんと宿題やってきた?」

 その堕天使が首を傾げて聞いてくる。


「はい。やってきました!向井さん。」

 俺は自信を持ってそう言う。

「そっかぁ。偉い、偉い。でも、向井さんっていうのは禁止だよー。」


 頬を膨らまして唇を突き出すようにそんなことを言う。

 千里さん、美人過ぎてちょっと表情を崩した方が可愛くみえる。可愛さと綺麗の両立ってこういうことを言うのか。

 奇跡というものがこの世にあることを悟った。このマリアージュは奇跡だ。


「はい、すみません。千里さん。」

 千里さんの可愛さに思わずにやけそうな笑みを必死にこらえながらそう言った。やばい、可愛い。千里さん、マジ天使。


「もうしょうがないなぁ。課題をやってきたことに免じて今日は許してしんぜよう。」

 大仰そうに言うさまがやっぱり可愛い。

 そのまま、今日の勉強に移っていくのだった。



”可愛さは勉強を邪魔する。”

 

 千里さんの横で勉強をしているとそんなことを悟ってしまう。

 隣にいる千里さんの湿った吐息。時々漏れ出る“あっ”という叫び声。

 気が散って千里さんの方を見てしまった時の初夏ならではの薄い服。

 上品にブラジャーの形を形どってしまうワンピース。

 全てが俺の集中力を邪魔した。


 どうすれば集中できる?俺は流行りに乗ってあれで乗り切ってみることにした。


 “全集中の〇吸”


 だが、修行もしていない俺の『全集中の〇吸』では、全くもって役に立たない。千里さんをみてしまう。炭治〇さん、あんたやっぱスゲーよ。それと、千里さんが天使すぎるんよ。


 結局、何をやっても集中はできなかった。でも、どれだけ勉強しても湧き出るパワーもあった。それは間違いなく千里さんがいてくれるからこそ起こるやる気だった。


“可愛いは正義であり、同時に悪である。“


 宇宙の真理にまで、遂にたどり着いた。


 そうか、図書館で勉強しているカップルとかいるけど実はもう互いにドキドキしない倦怠期なのか。

 そうじゃなきゃドキドキしすぎて一緒に勉強なんてできない。確かに、片思いならばいい所を見せようと思ってむしろやる気になるかもしれない。

 しかし、イチャイチャしようとしても相手から許されるカップルだったらどうだろうか?


 めちゃくちゃ可愛い彼女がいたら少し勉強したらイチャイチャしたくなるのが常ではないだろうか?

 美少女が隣にいて触っていい状況だ。触ってイチャイチャしたいだろ?「やめてよー。もー。エッチなんだから~(^^)」とか彼女に言わせたいだろ?


 これからは図書館でカップルが勉強していてもリア充の爆発予告なんてせずに可哀想な目で見て優しくしてあげよう。

“あと、一ヶ月で別れるだろうけど短い時間幸せに”

って思える気がする。


 いや、違うか。危うく騙されるところだった。これは孔明の罠だ。


 むしろイチャイチャを人前で見せつけるために図書館で勉強しているカップルもいる。

 やっぱりリア充爆発しろ。



「もー、健太郎君聞いているの?集中しないとホントに宿題増やしちゃうよ。」

 いつものようにそんなくだらないことを考えていると、年上とは思えない小さな柔らかい手で肩の辺りをつつかれる。


「いや、すみま」

 宿題増やすのを断ろうとした。でも、宿題を二倍にしてもらっても追い付けないような大それた夢を昨日願ってしまったのを思い出す。

 凡人が大それた夢を叶えるためには相応の対価が必要だ。


「やっぱり、二倍ごときじゃなくて三倍にしてください。」

「おお、やる気じゃない。そんなに難しい夢なの?」


 千里さんはちょっぴり意地悪そうにそんなことを聞いてきた。

「はい。」


「凛々しい返事だね。じゃあお姉さんに教えてくれるかな?」


 少しだけ緊張していた。心臓がバクバク言っているのがわかる。口が乾いてくる。如何に自分が無理難題に挑もうとしているのかを俺はよく知っている。今の俺の成績からだと俺よりも上の成績の人たち凡そ十万人以上を抜かさなければならないのだ。受験生五十万人のうちの十万人だ。それに彼らだって今から全力で努力してくるはずだ。それを考えると、かなりの無理難題だ。


 それでも、唾を無理矢理飲み干して俺は自分の身の丈に合わない夢を語る。


「千里さんと同じところを目指したいです。」


 俺はできる限り真剣な口調で夢を語った。夢を語るのは怖い。

 千里さんが俺のことを馬鹿にするような人じゃないのは少し喋っただけでも分かっている。それでも九割方叶わないと思っている願いを口にするのは勇気のいることだった。


 沈黙が場を支配する。


 その間は俺にはかなり居心地の悪いものだった。それでも、後悔はない。口にしなければ進みようがない夢だったし、何よりも俺は千里さんみたいになりたかった。優しくて頼れる素敵な大人になりたかった。あの夏の日みたいに大事な人を救えるようになりたかった。


 無意識のうちに諦めていた医者になるという夢を思い出したのは、確かに、千里さんがきっかけだった。母さんの言葉を聞いて自分の心を見つめ直して、自分の夢を思い出して、千里さんのことを考えてやっぱりこうなってみたいと思ったのだ。我ながら人の意見に左右される奴だと思う。


 もしかしたら、一時の気の迷いが起こした借り物の夢なのかもしれない。それでも、俺自身が確かに持ったことのある自分自身の夢でもあった。


 小学生のうだるように暑い夏の日の思い出を、千里さんのじっと閉じた唇を見つめながらもう一度思い出していた。


 凛を助けようとした夏の川での出来事を一人静かに思い出す。


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