第9話 目指すべき場所は日常とも繋がっている

 千里は悩んでいた。


 健太郎の今の成績から医学部を目指すのがどれほど大変かを知っていたし、夢が破れたときのやるせなさのようなものも友人をみてよく知っていた。だから、諦めるように嗜むべきかとも思った。


 数学ができないからと医学部を諦めた友人の諦観した表情を未だに千里は鮮明に覚えている。あんな表情をこの子にさせてしまうかもしれないことに抵抗があったのだ。

 それでも、年下の教え子の目は真剣だった。傷つくことを恐れながらもなお進もうとする眼だった。


 正直な話、千里は自分の大学の勉強だけで精一杯だった。なので、家庭教師をする気はなかった。 

 それでも、母が『ママ友経由の頼みだからとりあえず一度行ってみて欲しい』と言うから、母の顔をたてて仕方なく健太郎の家に来ただけだったのだ。


 だから、最初の日に何か理由をつけて断るつもりでいた。

 けれど、その考えは健太郎を教えてみて変わった。

 少しだけ挙動不審だけれど実直な可愛らしい年下の教え子を見て断りたくないと思ってしまった。

 千里は“医者“になりたかった。そして、医者だって言ってしまえば人助けの一つに過ぎない。


 もちろん、医学部の中には単に親が医者だから医者を目指しているだけの人もいる。

 中には金を儲けるためだけに医者を目指すという人も、千里の同級生には多くいた。


 それでも、千里の根底にあるのはおじいちゃんとの思い出であり、おじいちゃんの担当医と同じ“人を助ける医者”だった。


 今、この子の表情は真剣そのものだった。

 それは受験の時の周りの表情だったし。何よりも受験の時に鏡台の前で何百回とみた自分の表情とそっくりだった。来たる試験に怯えつつも必死に上を目指す瞳だった。諦めきれない夢を目にするものの瞳だった。

 だから、千里は悩んだ末に健太郎の覚悟を試すその言葉を口にした。



「そんなに甘いものじゃないよ。医学部は。今の君の成績じゃあはっきり言って万に一つの可能性もないって言う人もいると思う。」

 

 千里さんは今までで一番厳しい口調と厳しい表情でその言葉を発してきた。それでも、俺は千里さんが俺のことを色々考えた末に言葉を発してくれたのを、長い沈黙で感じ取っていた。


それに、自分の夢を安直に真似しようとする俺は千里さんには如何にも適当に大それた夢を語っているガキに見えたと思う。だから、医者になるという夢が自分の夢であることを示すために自分の口からもう一度声に出す。


「それでも、俺は目指したいです。」


 少しだけ自分でも声が震えているのが分かった。自分でもこの夢が難しいのは分かっていたし、千里さんが「そんな無理を言うなら家庭教師を降りる」とか言ってしまったらどうしようかとか嫌な考えがよぎった。


 けれども心配する必要はなかった。

 直ぐに天使の福音が聞こえた。


「そっか、じゃあ一緒に頑張ろうね。」


 やっぱり、千里さんは天使だった。

 さっきの厳しい表情とは打って変わって、聖母のように包み込むような微笑みを携える千里さんがいた。


「はい。ありがとうございます。お願いします。」

「目標は夏の模試で合格可能性五〇%以上のC判定以上。厳しさマシマシで行くから、健太郎君頑張ってついてきてね。」


「はい。」

 可愛い年上の微笑みに俺はそう応えた。


「あ、一応言っとくけど途中でやめるのはなしだよ。」


 千里さんの声が突然低くなる。

 千里さんの天使の微笑みが母さんの笑みとダブったような気がする。う、うそだよね。特に後半の感情の入っていない低い声が母さんそっくりだった気がする。

 気のせいだと思おうとする。

 それでも身体は正直だ。鳥肌がいつの間にか、たってしまっていることに気がついてしまった。


 そして、千里さんとの特訓が始まった。


「つ、つかれた~。」

 千里さんとの一二〇分耐久レースが終わった。わりと千里さんはSだった。一切休憩はなかった。


「うん。そろそろご飯の時間だし、今日はここまでだね。」

 『よく頑張ったね。』と机の上で項垂れてしまっている俺の頭をポンポンと撫でてくれる。飴と鞭の使い方が上手い。

 それに疲れた身体に柔らかい小さな手が気持ちいい。


 これぞ、ゴッドハンドってやつなのか。

 天使の愛撫は俺に癒しと回復を与えてくれた。千里さんは魔法まで使えるらしい。

 そう思っていると何やら千里さんの方からゴソゴソと音がする。


“まさか千里さん。疲れた時は甘いものとか言ってクッキーとか焼いてきたんじゃ。料理スキルまであるんじゃ?”


 期待に胸が膨らむ。ワクワク


「じゃあ、今日中にこれだけの宿題。で、明日はこれだけやるんだよ。」


ドスッ


ドスッ


 そう言って渡されていく宿題は今やった分量の数倍あった。広辞〇第7版くらいの厚みがあるんじゃ・・・

 そして、「美少女のクッキーなんて幻想はぶち壊す」と言わんばかりのガッツポーズを千里さんはしている。

 やはり、母さんとだぶつく。

 結局、千里さんは堕天使だった。


「はい。」

 とはいえ、千里さんの笑顔と愛撫で多少なりとも回復した俺は可愛い年上の堕天使を信じて地獄の先までついていくのだった。



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