人魚姫の涙



じりじりと照りつく暑さと、ミンミンと騒ぎ立てる蝉の声が集中を妨げてくる。自然の力による妨害に日々頭を悩ませているのに、山のように課題は出ているし、二か月半近く休みはあるというのに、期限は早い。毎日毎日課題に追われる生活になるなんて……大学生の夏休みって、もう少し楽出来て、海だ! 花火だ! と夏を楽しめるものだと思っていたが、現実はとても厳しいものなのだと、早々に痛感した。

課題に気を取られ過ぎて、完全に日付感覚が狂っていたのだが、先ほどカレンダーを見て愕然とした。この前確認したときにはまだ一か月以上休みが残っていたのに、今では半月ほどしか残っていなかったのだ。

 大学生活が始まって初めての夏、このまま課題に追われ続けるだけの思い出しかなくていいのだろうか。横に置いていたスマホを手に取り、友達から連絡がないか確認してみたが、誰からも来ていなかった。

 なんていうことだ……私は大学生になってもぼっちのままなのか。いやいや、前期は友達作りに力を入れて、とにかくいろんな子に絡んで絡んで絡みまくって何度か色んな子たちと遊びに行ったりもしたのに、なぜ誰からも連絡が来ない! 

「葵ちゃんからも連絡来てない……それが一番ショックだよ……」

 夏休みもまた沢山遊びましょうね~♡って別れたのに、ほんとに何してんの? なんで誘ってくれないのよ。私のこと気にいってるんじゃないの? 

 モヤモヤする……モヤモヤというか、胸がチクチクする感じ。私のこと、本当は苦手なのかな。一緒にいるのが当たり前になりすぎて、彼の気持ちを考えなさ過ぎていたかもしれない。

 私はいつもそうだ。私がその人のことを気に入っているからといって、その人も私のことを気に入っているかといったらそうではないのだと、中学生の時に痛いほど思い知った。

 それは中学三年生の時のこと。新しいクラスになって、私はある女の子二人と仲良くなった。その子たちのことはA子ちゃん、B子ちゃんと呼ぶことにしよう。彼女たちと私とで三人グループとなって毎日くだらないことを話して笑ったり 、移動教室の際も一緒に移動したりと、常に一緒に行動していた。しかし、一緒にいるようになってから三か月たった頃、彼女たちの様子が変わってきた。私を避けるようになったのだ。追いかけても小走りで、話しかけても目も合わせてくれないようになってしまった。「あ、嫌がられている」となんとなく察し、それから二人とはすぐに離れることにした。

 中学に入学するのと同時に引っ越してきた私は、早くなじめるように人間関係にはかなり気を使っていて、三年にもなればなんとなく、相手の態度やしぐさでどういう立ち回りをすればいいのか分かるようになっていたから、彼女たちのグループから抜けるという選択は間違っていなかったようで、しばらくしたらまた普通に話しかけてくれるようになった。

 今も彼女たちとは、たまに連絡を取ったりするが、彼女たちが私を避けたりしていた時期に関しては、いまだに聞くことはできていない。しかし、確実に言えることは、私のことを彼女達は、あの時からとっくに『友達』とは思っていなくてただの『都合のいい人』としか認識していないということだ。だって、中学の時も今も二人が喧嘩をしたときか、愚痴を聞いてほしいときしか話しかけたり、連絡してこないのだ。一度だって二人から遊びに誘われたことなどないし、気を使って疲れるのでこっちからも連絡しない。そういう『友達』とは違う関係をお互い割り切って付き合っている。

 大人になればなるほど変に気を使ったり、顔色をうかがいながら友達と接しなければならなくなっていく。何ともわずらわしい。果たしてそうやって付き合っている友人は本当に友達といえるのか疑問だが、そうやって上手くわたりあっていかなくてはいけないのが現実だ。

 引っ越す前、いつも一緒に遊んでいた小学校の同級生だった男の子には、変に気を使ったり、顔色を窺って話したりする必要はなかった。毎日のように二人で遊んで、お互いの家を行き来して、家族同然の付き合いをしていたのにどうして私は、彼の名前も顔も思い出せないんだろう。

 ガチャ!

「ねぇ、緑! 魚(うお)ちゃんが過労で倒れて入院してるの、あんた知ってた!?」

 ノックもなしにドアを勢いよく開けた母が、慌ただしく部屋に駆け込んできた。

「え……何それ知らないんだけど」

「いま魚ちゃんのお母さんとメールしてたら、実はねって教えてくれたの。なに、あんたも知らなかったのね」

 高校一年生の入学式、人見知りでおろおろしていた私に声をかけてくれた子が魚だった。それ以来私たちは親友となり、卒業して私は大学生に、彼女は介護の仕事に就き、その後もちょくちょく連絡を取り合っていた。それなのに、彼女から入院したという話は一度も聞いたことがない。

 最近課題に追われて忙しくて、彼女のことを気にかけることが出来ていなかった。体を壊してしまうほど、彼女は無理をしていたのかもしれない。唯一の親友なのに、忙しさにかまけて何も連絡しなかったなんて、私は友達失格だ。もっと早く連絡をしていれば、気分転換でもしに行こうと誘っていれば、入院しなきゃいけないほど体を壊すことはなかったかもしれない。

「ちょっと行ってくる! ママ、病院の場所教えて!!」

 

 

 ガラガラガラッ……

「魚~~ 体調はどう?」

「緑!? あんた、どうしてここに?」

「私怒ってるんだからね。なんで教えてくれなかったの? 雫が入院してるって、ママから聞くまで全然知らなかったんだけど」

「ご……ごめん。あんたには一番心配かけたくなかったからさ」

 私が病室に突然現れて驚いている魚に、私は少しむくれて見せた。そうすると苦笑いを浮かべて、両手をすり合わせ謝ってくる可愛い親友。

「まぁ、冗談だけどさ。ほら、これ魚の好きなケーキ屋さんのプリン! これ食べて癒されてよ」

「うわマジ!? ありがとう!!」

 早速箱から取り出して食べようとする魚。病院服の袖からちらりと見えた手首にうっすらとみみずばれのような線が何本もできていた。最後に会った「二か月前にはこんなものなかったのに、たった二か月の間でこの子に何があったのだろう。

「あのさ……」

 おいしそうにプリンを頬張る彼女を見ていたら、何があったのか聞いていいのか分からなくなってしまい、言葉に詰まってしまった。黙りこくってしまった私をよそに、雫は五つ持ってきたプリンをこの二、三分の間にペロリとすべて平らげてしまった。

「あー…おいしかったぁ。ありがとね、緑!」

「……」

「……分かってるよ。どうしてあたしが倒れたのか聞きたいんだよね」

「うん……全然ブラックじゃない良い職場だって聞いてたからびっくりだよ」

「そう……今の職場は関係ない」

「じゃあ、どうして?」

 雫は目を逸らして少し黙った後、言いにくそうに口を開いた。

「バイト始めたんだ」

「え? 結構給料良かったよね?」

「うん。本来だったら、普通に暮していくぶんには十分なお金もらってるよ。むしろ少し贅沢しても大丈夫なくらい……でも、あたしにとってはそれだけじゃ足りないの。だから内緒でね、夜スナックでバイトしてるの」

 え……。どういうこと? 

「バイトって、いつ行く暇あるの? 夜勤だってあるし、毎日忙しそうにしてたじゃん」

 魚はいつも忙しそうだった。私と遊べる日もだって月に一度二度あるか無いかで、バイトなんてできる日はないはず……仕事終わってそのまま直行したり、徹夜でもしないと掛け持ちなんてできないだろう。そもそも、なんでばいとなんてしているのだろうか。さっき魚自身も言ったように、ちょっと贅沢できるくらいにお給料はもらっているはず。誰かを養わなければいけないなんてこともないのに……。

「夜勤の日はさすがに入れないけど、それ以外だったら仕事終わりにそのまま出勤してる……」

「そんなことしてるから体壊すんだよ! 一体どうして? 十分お給料もらってるのに一体何がダメなの? 何のために今以上稼ごうとしてるの?」

「正弘が……病院立ててくれたら結婚してやるって……!」

「!」

 正弘……魚が高校生の時から付き合ってる恋人だ。実家が病院を経営していてお金持ちのお坊ちゃま。確か彼も医者をめざして、今年医療大学に入学したはずだ。

彼も同じ高校だったから、私は、二人がどれだけ仲が良くて信頼しあっているのは知っている。付き合ってもう三年近いし、いずれは結婚するだろうなとは思っていたが、「病院を建てたら結婚してやる」だぁ? 何を馬鹿なこと言っているんだ。まだ卒業もしていないくせして偉そうに。そもそも実家の病院継げ場良い話ではないのだろうか。

「どうして魚が病院を建てる必要があるの? 医者になりたいのは正弘君なんだから自分でどうにかすればいいじゃない。そもそも、彼は実家が病院を経営してるんだし、継げばいい話でしょ?」

「彼は次男だから、実家はお兄さんが継いでしまうの。だから彼は新しい病院を建てるしかないのよ。でも、彼はまだ学生で、大学も忙しいし、アルバイトもできないからお金が貯めれないんですって。だから先に社会人になったあたしが貯めてあげてるの」

「そんなのおかしいよ! 大学を卒業したってすぐに自分の病院を経営することなんてできないだろうし、医学生だってバイトくらいしてる人沢山いるって。まだ一年生なんだよ? 魚が体壊してまで彼のためにお金を貯めるなんてこといくら何でもおかしすぎるよ。本当に彼は魚のこと大切にしてるわけ?」

「大切に思ってるから結婚を考えてくれてるんでしょ?」

「じゃあ、毎日お見舞い来てくれるの?」

「それは……」

「じゃあ、彼は今まで何回来てくれたの?」

「一回も……来てない……でも、彼は忙しいから来れないだけなんだって!」

 シーツをぎゅうッと握りしめ、泣きそうな顔で魚は言った。

 分かっているんでしょう? 魚だって。彼は、あなたのことをもう愛してない。ただの金づるくらいにしか思ってないよ。だって、「結婚してやる」なんてそんな言い方、本当に愛している人にできると思う? 

 どうして? 前だったら「あんた、アタシになんて口きくわけ? 調子乗んな!」って怒ってたのに。

 ちょっとギャルっぽくて、口が悪くて、でも裏表のないさっぱりとした性格の優しい子。私が魚に抱いているイメージはそんな感じだ。さっぱりとした性格で、姉御肌だったから、ちょっとナルシスト気質の正弘君を尻に引いて、うまく付き合っている仲良しカップルだと思ってた。大好きな彼にもおかしいと思ったことはズバズバハッキリ言う、それが魚だったじゃん。

「もう別れなよ。正弘君と一緒にいても、幸せになれないって魚も本当は分かってるんでしょ?」

「もう帰って!!!」

 バンッと思いっきり枕を投げつけれた。ガードした手にあたって、とさっと枕が床に落ちる。雫の腕も枕と同じように力なくシーツの上にだらりと投げ出されていた。

透明な雫が彼女の血色のない頬を伝っているのを見て、私は病室を静かに後にした。何か、自分のでも分からない感情が、胸からおなかにかけてスーッと下がっていくのを感じる。

無が心を支配してく。無表情、無感情。全ての感情が無で塗りつぶされる感覚。

大切な彼女を怒らせた。

傷つけた。

私はまた間違えてしまった……。

気づけば私は無意識に、葵ちゃんへメールを送っていた。

『助けて欲しい』 

 返事はすぐに来た。

『いつものカフェまで来れる?』

『うん』

『じゃあそこに、一時間後集合で』

 夏休みに入って初めての連絡。せっかく久しぶりに会うのに、こんな思い話をしてもいいのだろうかと、助けを求めた後で後悔したがもう遅い。


 午後四時に待ち合わせ場所に到着した。約束の時間にはまだ二十分ほど早いが、店内に入るとすでにテーブル席についてコーヒーを頼んでいる葵ちゃんの姿が目に入った。

「ごめん! 待った?」

「気にしないで。アタシもついさっき来たところよ。それより、大丈夫?」

 あぁ、葵ちゃんだ……。

「葵ちゃぁぁぁぁぁん!!!」

 久しぶりに聞く彼の声に安心しきって、我慢していた涙が止まらなくなってしまった。 

「あらあらあら……とりあえず座って。一体何があったのよ」

「ぐすっ……魚っていう高校からの親友が過労で倒れたって聞いて、さっきお見舞いに行ってきたの。でも、彼女の就職先は働きやすくていいところだって聞いてたから、おかしいなと思って問いただしたら、仕事と掛け持ちでバイトしてるんだって……」

「どうして? お給料低くて生活できないとか?」

「違う。その子には、高校の時から付き合ってる彼氏がいるんだけど、その彼実家が病院経営してて、お兄さんも彼も今医科大通ってるんだけど、実家はお兄さんが継いじゃうから、自分の病院を建てなきゃいけないらしいのね、それでその病院を魚がお金貯めて建てられたら結婚してやるって、そいつが言ったんだって!」

「それで、魚ちゃんはその言葉を本気にして、自分の体壊してまでお金稼ごうとしてるってわけ?」

 無言で何度もうなずいた。声を出したら嗚咽まで出てしまいそうだ。涙が止まらない。どうしたら魚を助けられるのだろう。どうしたら魚に気づいてもらえるのだろう。

「魚が体を壊してまで病院を建てる必要なんてないはずだよ……このままじゃ本当に魚が壊れてしまう。でも、私間違えちゃって……」

 助けたい一心で、正弘に絶対騙されていると気づいてほしくて、魚を傷つけてしまった。でも、あの時なんて言えばよかったのだろうか。

「もしかして、『別れなよ』とか言った?」

「うん」

 葵ちゃんはため息をついた。

「あのね、人の恋愛に対して好き勝手言えるのは、それは自分たちが当事者じゃないからなの。結局他人事だからよ。でもね、当事者は違う。今まで二人で積み重ねてきた絆や、思い出、そして思い描いていた未来のために使ってきた自分の時間が、別れたらすべてなくなってしまう。少しでも友達の恋人に関して悪い話や態度を聞かされたら、人は簡単に『別れたら?』っていうけど、そんな簡単なものじゃないでしょ? 他人が簡単に口挟めることじゃないのよ」

その通り過ぎて耳が痛い。けれど、葵ちゃんの言う通り「別れたら?」と簡単に言っていいことではなかった。別れたところで私には責任を取ることが出来ない。これは当事者二人の問題だ。

「じゃあ、なんて言えばよかったのかな」

「『私はどんな時でも、ずっと味方だから』って言えばよかったんじゃないかしら。沢山彼女の気持ちを聞いて、彼女を肯定してあげれば」

「葵ちゃん、硝子先生の時みたいに魚を助けてよ」

「アタシには無理よ。こんなゴリゴリのオカマがいきなり病室に入ったら、魚ちゃん失神しちゃうわ」

「葵ちゃんは魔法使いなんでしょ? 私と先生に勇気が出る魔法をかけてくれたじゃん! 魚にも魔法をかけてあげてよ!!」

 どうにもできないと思ったから葵ちゃんを頼ったのに、どうして無理なんて言うの? 葵ちゃんがどうにもできないことを私がどうにかできるわけないよ。

「……みどりちゃん、みどりちゃんがそう思ってくれているのはとっても嬉しいけど、アタシは魔法使いでも何でもないわ。何も特別なことはしてないのよ。ただ話を聞くだけ。アドバイスができる時はするけれど、ただそれだけよ。アタシはただのオカマ。みどりちゃんと……みんなと同じ、普通の人間よ」

「……ごめん」

「謝ることはないわ。ねぇ、魔法使いにはね、誰でもなれるのよ。人の心を変えるのは簡単なことではないけど、でも勇気は誰だって与えることが出来るの」

「どういうこと?」

 葵ちゃんは可愛らしくふふっと微笑んだ。


「みどりちゃんが、魚ちゃんに魔法をかけてあげたら?」


 今日もきっと怒られる。

 学校から帰ってきた後、そう思いながら玄関の戸をくぐるのが日課だった。別に怒られるようなことはしていない。けれど母親は気まぐれだから、昨日たまたま怒られなかったからといって、今日怒られないとは限らない。

 一か月前の期末テストの順位が悪かったことを、掘り返されて一時間くらい問い詰められるかもしれない。百位以内に入れなかった私の順位を見るや否や三日ほど、母は仕事に行く以外寝室から出てきてくれなかった。今も許してはないだろう。また何の前触れもなく、テレビを消して夕飯食べながら説教をされるかもしれない。

 夕飯の時でなかったら一緒にお風呂に入ってる時かもしれない。

 そうやって母親の顔色をうかがいながら生活していく毎日は、小学生の時から高校三年生の時まで続いた。

 小学生の時、私は二度嘘をついて母を怒らせたことがある。一回目は、連休明けまでに体操服に縫い付けなければいけないゼッケンを、休日になって学校に忘れてきたことを思い出し、「先生が今日配るから取りに来てと言われた」と、無理がある嘘をついたことだ。しかし案の定すぐにばれ、ものすごく怒られた。

 二回目は、家庭教師の先生から出される宿題を、「宿題やったの?」と聞かれるたびに「やった!」と嘘をついていたことだ。本当はいつも家庭教師の先生がくる直前にしかやっていなくて、本来なら宿題にされている問題集を十ページずつ進めることが出来るはずなのに、毎回二、三ページしかできていないと家庭教師の先生が母に報告したため発覚し、このことは人生で一番怒られた出来事になった。

 嘘をついた私に母がとった行動は二つとも同じで、私を無視するということだった。一回目の時は半日無視される程度で許してもらえたが、二回目の時は一週間無視された。反省するまで無視ではなく、怒られて、怒られて、怒られまくって、泣いて泣いて謝って、意気消沈した後のことである。

 食事はもちろん作ってもらえたが、朝食時も夕食時も一切しゃべってもらえなかった。父と母が仲良さげに会話した後で、母に私が話しかけてたとしても、それまで父と会話していた時の笑顔は一切消え、無視を決め込まれるというように、母は徹底して私を空気として扱った。

 確かに嘘は悪いことだ。けれど、この時私が学んだことは、母を怒らせると、私はそこに存在しているのか分からなくなるくらいいないモノ扱いされるのだという恐怖だった。

 友達と沢山遊んで、楽しかったなぁと帰ってきても家ではまた母に無視される時間が始まってしまう。

いつまで続くんだろう。

もしかして一生続くのかな。

ママはもう私のことがいらないのかな。消えてしまったほうがいいのかな。

子供ながらにも心が壊れていくような気がした。思えば、この時から母親の顔色をうかがいながら生活するのが当たり前になってしまったような気がする。

 いつも自然に肩に力が入ってしまう。顔色、声色、ちょっとした態度、ちょっとした言葉の鋭さ、いつしか母親でない他人であっても敏感に感じ取って、

顔色を窺うようになってしまった。怒られないように、不快にさせないように、うまく立ち回って、家でも外でも、誰にも怒られずに一日何事もなく平和に終わり切りたい。毎日そう思って暮らしていた。

「今日もきっと怒られる」

「今日もきっと何か失敗する」

「今日もきっと……」とネガティブなことを考えながら玄関の戸をくぐるのが癖になっていた。そうやって色んな最悪のパターンを想像して最初から諦めていれば、本当に怒られたときにあまり絶望しない。別に何か心当たりがあるわけじゃないけれど、母の機嫌が悪いときはほんの些細なことだろうと怒りのスイッチを押してしまうことになる。一つの願掛けのようなものだ。

 例えば夕飯の準備を手伝っていた時、次の工程が分からなくて「次に何すればいい?」と聞いただけで、

「なんでこんなことも分からないの! 頭は飾りか? 考えなさいよ!」

と怒られる。

 母の分のバスタオルを忘れてきてしまっただけで、

「凍え死にそうなんだけど! ママが死んでもいいと思ってるんでしょ!」

と怒られる。

 母が私に笑いかけてくれるのは、夢の中だけだった。

 家では気が休まらなかった。母親の顔色をうかがうのに必死になって、母親が喜びそうな話題しか話せなくなる。でも、学校に行ったところでそれは変わらない。自分を押し殺して、嫌われないように立ち回って、笑顔を張り付けて一日を乗り切る。それでも、母に怒鳴られたり、抑圧される家にいるよりかはましだった。

 けれど、高校生になって転機が訪れた。こんな私が心を許すことが出来る人が二人もできたのだ。

親友の緑と恋人の正弘だ。

 緑とは私が入学式で声をかけたのがきっかけで仲良くなり、同じアニメや漫画が趣味でよく話したり、よく遊んだりするようになっていつしか気心知れた間柄になっていた。

 正弘は、三年間一度も同じクラスになったことはなかったが、一年生の時の球技大会で一目惚れしてくれたらしく、その年の冬休み前に告白してくれ、「こんな私でもいいなら」とお付き合いが始まって、それからもう三年近く交際は続いている。

 しかし、これだけ心から信頼している二人にも、私と母との関係を打ち明けることはできなかった。

 影がある人というのは他人からあまりいいイメージを持たれない。母のことを二人に打ち明けたら、二人はどういう風に私を見るのだろう。関わりたくないと思われるのが一番嫌だった。でも、いずれは話さなければいけない時がくる。少なくとも、正弘には打ち明けなければ。結婚する前に、母について言っておかないと。

 ……けれど、彼は大学に進学してから様子がおかしくなりだした。デートの約束もよくすっぽかすようになったし、お金も要求してくるようになった。それこそ、「俺の病院を建ててくれたら結婚してやる」なんて言い方、前の彼なら絶対しなかった。まぁ、それでも彼のことを嫌いになれないし、こんな私と結婚してくれるんだったらいくらだってお金は渡すけど……。

 でも、大学で何があったんだろ。たまに友達や先輩のことを話してくれるけど、聞いててあまりいい印象を受けるような人たちではなかった。彼の友達はなんだかとてもやんちゃな人たちらしく、私は彼らの話を聞いて、とても医科大生とは思えないと感じてしまった。医科大生はとてもまじめな人たちばかりだという偏見があったせいかもしれないが。

「ちょっとやんちゃすぎるのでは?」と彼に言ったことはあるが、

「大学生なんてそんなものだよ。根はいい奴らだと思うし、卒業したらみんな丸くなるって。それまでのちょっとした火遊びってやつだよ」

 と笑って、ちゃんと取り合ってくれなかった。

 あぁ、人の気持ちが変わる匂いがする。母からは毎日そういう匂いがしていた。愛が感じられない匂い。正弘からも同じ匂いがするようになった。彼が離れて行ってしまう。一度もお見舞いに来てくれていないし、彼の気持ちが薄れて言っているのはなんとなく私もわかってた。だから緑にそれを突き付けられたとき、認めたくなくて緑にひどいことをしてしまった。

 分かってる。彼とは離れなければいけない。でも彼と一緒にいた時間は長いし、彼に渡したお金も多すぎる。結婚すると思っていたから、彼の口座に病院を建てるためのお金として今までの給料のほとんどを振り込んできた。なのに、今更それがすべて無駄になるなんて辛すぎる。決して「別れよう」「はいそうですか」で済まされる額ではない。でも、このままでいいわけでもない。

 離れていく。私の大切な人たちが。

私がちゃんと考えなかったから。

私が頭を使わなかったから。



「よぉ、元気か?」

「ん……正弘!? 消灯時間はとっくに過ぎてるのにどうして!?」

 うとうとしかけていたところだったが、ずっと来てくれるのを待っていた恋人の声が聞こえたので、思わず魚は飛び起きた。

「俺は東条病院の息子だぜ? 消灯時間だろうと俺が会いてぇと言えば目をつむってもらえるのさ」

「そ……そう。でもここ大部屋だからもう少し静かに喋って」

「だぁかぁらぁ、関係ねぇって。俺は、東条病院の息子なんだから、文句言えるもんなら言ってみろよ。どうせ、そうやってやいやい言ってくる奴らは金が欲しいだけなんだから、金渡したらおとなしくなるさ」

 魚はたしなめたが正弘は声を潜めようとはせず、むしろもっと大きい声で話し出した。漏れる息から微かにアルコールの匂いがする。

「正弘、酔ってるの?」

「あぁ。さっきまで先輩と飲んでてさぁ」

 彼はまだ未成年だ。仮にも医者を目指しているものが、未成年飲酒し、彼の先輩もそれを止めなかったなんて……どんどん彼が悪い方向へ変わっていっている。

「正弘、一緒にいる同級生や先輩とは縁を切りなさい。じゃないとこれから先、とんでもないことになる」

「あぁ!? この俺に指図すんのかよ! ただの金づるのくせに、偉そうなこと言ってんじゃねぇ!」

「か、金づる!?」

「結婚なんて本当にすると思ってたのか? 嘘に決まってんだろ! お前が貯めてた金は全部俺が遊ぶために使っちまったよ。それに、俺は将来金定病院のご令嬢と結婚することになってるからな、お前とは最初から遊びだったんだ。最初は気が強くて扱いにくい女だと思ってたが、最近は従順になって金を運んでくれるようになったから今まで付き合ってやってたんだよ。いやぁ、結婚をほのめかすと女はすぐ金を用意するってホントだったんな!!」

 正弘は高笑いしながら病室を出て行ってしまった。

 しばらくして看護師さんが走ってやってきた。普段あれだけ「廊下は走らない!」と怒鳴っているのに、自分だって走ってるじゃん。とか変に頭は冷静だった。

「ごめんね、ごめんね」と、何度も繰り返しながら看護師さんは謝ってくれていたけれど、今はとにかく放っておいてほしかった。明日聞くから。だから今は放っておいてよ。ねぇ、わかるでしょ。今ね、入院して初めて彼氏がお見舞いに来てくれたの。そしてね、振られたのよ。三年近くも付き合って、彼のために体壊してまで働いて、お金貯めて……なのにね、他の女のところに言ったのよ。

 ごめんなさいって言いたいのは私の方。彼、ここよりも大きな病院の息子だから、下手に逆らえなかったのよね。わかるよ。でも、謝らないで。謝らないでよ。だってさ、さっきのこと全部、今受け入れなきゃいけなくなるじゃない。「大丈夫ですよ」って言わなきゃならなくなるじゃない。

 ねぇ、どうして私……こんなに惨めなの……。


「魚、体調はどう?」

 後ろ手でドアを閉めながら聞いた。魚は私に背を向けた形でベットに腰掛け、窓の外を見ていた。

「振られたよ」

 魚の声は明るかった。

「……」

「昨日、消灯時間を過ぎた頃に彼がやって来てね、お前は金づるで遊びだった。私が貯めていたお金はもう使っちまったって……あと、許嫁がいるらしいよ。全く、ほんとくずだよねーー。あー、緑の言うことちゃんと聞いていればよかった!」

 あははと大げさに笑ってみせる魚の姿は、とても痛々しかった。

 私には相手を庇って怒れるような恋愛をした経験はない。相手と将来を考えた約束をした経験もない。たとえお金目当てだとしても誰かに必要とされた経験もない。

 そんな私がかけられる言葉……

「大人になったんだね」

 それまで狂ったように笑っていた魚がピタッと動きを止め、ボロボロと涙を流し始めた。

「大人になれたのかな……」

「大人だよ。少なくとも私よりかは、ずっと」

「こんなに辛いなら大人になんてなりたくなかった……」

 違う……。辛いことを乗り越えた先に一歩大人になる道が開けるのだと、昔誰かが言っていた。私には経験できないだろう痛みを彼女は一人で受け止めて、今乗り越えようとしている。

 魚は強い。彼女にかけられる魔法ってなんだろう。彼女がかかる魔法って何だろう。考えても、考えても魚にかける言葉はどれも軽すぎて、彼女の心を救えそうにない。

 葵ちゃんなら……彼なら魚ちゃんを救えたのだろうか。

 やっぱり私は誰かの魔法使いになんてなれないのだろう。勇気という魔法をかけられるのは、きっと誰でもできることじゃない。彼はやっぱり特別で、私には遠い人だ。

 目の前で泣いている魚になんて声をかけるのが正解なのか分からなくて、私はただただ魚を見下ろしたまま突っ立っていることしかできなかった。


「はぁーー乙女が二人もいるのに、なんでこんなにこの部屋は辛気臭いのかしら」


 いつの間に来たのだろう。私の魔法使いがドアにもたれて、この部屋の食う重さに顔をしかめていた。

「あ、葵ちゃん来てくれたの!?」

「可愛いみどりちゃんがアタシをせっかく頼ってくれたんですもの。無視なんてできるわけないでしょ?」

 あんたのためならどこだって駆けつけるわ。と耳もとでささやかれ、私の細胞のすべてがざわざわと歓声を上げているのが聞こえた。

「緑、このイケメンはだれ?」

「アタシ、みどりちゃんの大学で一番仲のいいオカマ♡ 魚ちゃんだっけ? ママ友だと思って仲良くして頂戴ね」

 だめだ……魚がポカンとしている。いや、そりゃそうだわな。自分はオカマだと言うイケメンが急に現れたんだから混乱するのも無理はない。

「よ……よろしく」

「えぇ、よろしくね。突然だけど、魚ちゃんは人魚姫のラスト知ってる?」

「へ?」

「他の女のところへ行ってしまった王子様を殺せなかった人魚姫がそのあとどうなったか知ってる?」

 まただ。葵ちゃんがまた突然プリンセスの話を挟んできた。ということは、何か魚に魔法をかけてくれるのかもしれない。

「自分で死んじゃうんじゃなかったけ?」

 魚が同意を求めるように私の方を振り向きながら言った。

「うーん、私が知ってる話は、海に飛び込んで泡になって消えちゃうだったかな」

「あと天使が迎えに来てくれたりね。人魚姫の話は諸説あるのよ。でも、結局どの話も姫は死んでしまうのだけどね」

 人魚姫は魔女ととある契約をして人間の体を手に入れた。それは愛する王子様と結ばれなければ死んでしまうというもの。結局王子さまは自分じゃない女性と結ばれ、人魚姫は王子様をいっそ殺してしまえばいいとナイフを持つが、それものできずに自分の生まれた海で死んでしまう。

 人間の男なんか愛さなければ、そんな悲劇は生まれなかった。この話はどう転んだって幸せにはならないのだ。まぁ某夢の国のアニメは別だが……。

「アタシね、どうして人魚姫は言葉が離せないんだったら砂に棒きれとか指でもじを書かなかったのかしらってずっと考えてるのよ。不思議だと思わなかった?」

「え……考えたことなかったけど、言葉は話せても文字は書けなかったからじゃないかな」

 それに体に何かが触れるだけで針に刺されたように激痛が走るっていう呪いにもかかっていなかったっけ? いや、それは足限定だったか? どちらにしてももうよく覚えていない。この話は子供ながらにも幸せになれないプリンセスが可哀想すぎて昔から苦手なのだ。

「私もそう思うわ。でもね、私たちは種族も同じだし文字も書けるし、話も通じる。それなのに、泡のようにパッと彼の前から消えるつもり?」

 「それで本当にいいの?」というように葵ちゃんが目を細めると、まだうるんだままの魚の瞳がはっとしたように見開かれた。

「傷ついたこと、寂しいと思ったこと、イラついたこと、それを言ってしまったら彼が他の女のところへ行ってしまうと思ってた……」


 私と彼は一緒に住んでなかった。一人暮らしをしている私の部屋に週四五回のペースで遊びに来るのが当たり前になっていた。一緒にいる時間が長いならそれなりにルールを設けておかないとうまくやっていけない。彼の役割は皿洗いと、お風呂掃除、そして私が頼んだ時だけやる洗濯機を回すことだった。終わった後は必ず「やってあげましたけど?」と彼がどや顔をするのが恒例になっていた。それが可愛いと思えたのは最初のうちだけで、だんだんうっとうしく、そして雑になっていく彼の仕事を見ていると、自分ですべてやったほうがいいと思えるようになってしまっていた。

 もうその段階で私たちの関係は冷え切ってしまっていたのだろう。だけど、それでも貢いだりだらだらと付き合っていたのは、依存と次の恋に対するめんどくささがあったからだろう。


「私も悪かったんだよ。もっと早く見切りをつけてしまえばよかった。黙って我慢することが、美学のような感覚になっていたのかな。ただただ、彼への気持ちを冷めさせていく一方だったのに……」

 魚ちゃんの気持ちに寄り添える部分と、より添えない部分がある。寄り添えない部分は圧倒的に経験の差があるところだ。我慢して、我慢して、気持ちが消えてしまったあとも一緒にいることなんて、私にできるのだろうか。私の知っている恋愛小説にはそんなこと出てきたことなんてない。

 愛が消えてしまった部分を何で補えばいいのだろう。魚ちゃんは何で補っていたのだろう。そしてこんなにも魚ちゃんは我慢して、相手を尊重してきていたのに、黙っていても我慢していても、許していてもはかの女に取られてしまった。愛を縛れるものって一体何なんだろうか。

「魚ちゃんは、刺せるナイフを持ってるわ。彼との関係の証拠を婚約者のお家や、彼の実家に送り付ければ人魚姫には迎えられなかったラストを手に入れられるかもしれない」

 葵ちゃんが魚の目の高さまで顔近づけて言った。ちょっとでも動けば花と鼻がぶつかってしまいそうだ。慌てて、葵ちゃんの腕を引いて魚から引き離す。彼の顔が魚に近づいた瞬間、胸の奥を針で突き刺されたような痛みが走った。人魚姫の痛みもこんなものだったのだろうか。

「葵ちゃん!! ちょっと近いよ!」

「……、あなたが言ってるナイフだと、刺してしまったら何も知らない相手の子の人生も、あちらのご家族の気持ちも壊してしまうことになるかもしれないよ」

「まぁそうね。相手の子が本当に何も知らないのなら可哀想なことかもしれないけど、でもそんなの気にしなくてもいいんじゃない? あとは結局魚ちゃんしだいなんだけどね」

 今日の葵ちゃんはなんだか意地悪だ。魚ちゃんとの間に見えない火花が散っているように見える。葵ちゃんの言い方に少し棘を感じるからかもしれない。

「あたしはナイフを刺さない。確かに彼に払ったお金は安いものじゃないけれど、あたしは彼を手放してもいいと手放さなきゃいけないと分かっていたのに、何もしなかった。あたしも悪かったの。だから勉強代だと思ってくれてやるわよ」

 最後にニヤッと笑った魚は、私の知っている自信にあふれたいつも通りの彼女だった。瞳はもう潤んでない。もうすぐきっと退院して、仕事に復帰するだろう。彼女から出る力強い生きる力を乗せた風が、私の心の中にも流れてくる気配がした。

 結局魔法使いは、私じゃなかった。


「今日もきっと怒られる」

「今日もきっと失敗する」

 そうやって怯えていた日々はもう過去の話だ。私はもう、怒られる側、愛される側、許される側の「される側」だけじゃない。私も選ぶ側なんだ。

 人魚姫は愛する人にナイフを刺せなかったから泡になって消えてしまった。私は刺せなかったんじゃない。刺さないことを選んだのだ。黙っていること、我慢すること、それが女の美学だと思う。葵さんに指摘されたこと、「私たちは言葉が通じる」というのは今からでも自分の思っていたことを言いに行け場良いということだ。でもそれは、今更なこと。全て終わってしまったのだ。全て私が終わらせてしまった。壊してしまうことを恐れて何もかも自分の中だけで終わらせてしまった。けれど結果は同じで結局我慢したところで彼は他のオン案のところへ行ってしまった。

 他の女のところへ行かないように我慢していたのに、涙が出たのはほんの一瞬の出来事で、彼らと話していたら元彼のことなんてほんの小さなことのように思えてきてしまった。彼がいなくても生きていける。所詮彼がいないといきていけないというのはとんだ思い込みだったようだ。

 もういらない。もう振り返らない。私の知らないところで、私とは違う誰かと、全く違う生活をしていけばいい。

 見切りをつけた彼との思い出は、パチンパチンと泡となって空へ消えていった。




 

  


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

久しぶりに会った幼馴染がオネェになっていた話 中嶋怜未 @remi03_12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る