シンデレラの心模様
三年前、私は就職を機に県外からここの地に引っ越してきた。県を一つまたぐとはいえ、帰ろうと思えば二時間弱で帰れるところに実家はある。だが、思っていたほど頻繁に帰ることはできなかった。
家族と暮している人たちからは大人のくせにとか、よっぽど家族に甘えてたんだなとか言われ、寂しい思いを理解してもらえず、私は徐々に誰とも話すことが出来なくなり自分の殻に籠っていった。
スーパーまでの田んぼ道が地元と似てる。
夕暮れ時になると田んぼ道の上をおじいちゃん達がちらほら散歩し始めるところも似ている。
低い建物の間から、遠くの山が見えるところも似ている。
けれど、都心の方に首を伸ばせば、高いビルが何棟も連なっているのが見えてしまう。
ただ似ているだけ。ここは私の暮していた街じゃない。十階以上のビルは建ってないし、水道水も硬水じゃない。電車は一時間に一本が当たり前だし、肩と肩がぶつかってしまうほどの人数が駅に集まることもない。
何もかもが違う。ここは私の街じゃない。
ここに住み始めて半年は、一週間に一度地元が恋しくて号泣する日が必ずあった。それでも、気を病んで仕事を休みはしなかった。それはきっと元彼のおかげだと思う、その頃の私は、引っ越す前から交際をしていた彼と遠距離恋愛をしていた。その彼はありがたいことに、毎月一回は遊びに来てくれたので地元の懐かしい匂いを運んでもらえた。
彼が帰る前には必ず号泣した。それは大好きな彼が行ってしまうからではない。私が帰りたくてたまらない地元に帰ることが出来るからだ。高層ビルも、新幹線も、肩と肩がぶつかるほど人がごった返すような駅もないド田舎に彼は帰ることが出来る。それを想うと羨ましくて、恋しくて、寂しくて涙が止まらなかった。
彼は私が、自分と離れるのが寂しいから泣いているのだと思っていたようで、彼もボロボロともらい泣きをして別れるのが恒例になっていた。自分でも薄情だと思うが、一度も私は彼と離れ離れになるのが寂しくて泣いたことは一度もない。その頃にはもうすでに、彼への気持ちは冷めきっていたのだろう。引っ越してきた四か月後には彼と別れてしまった。
彼と別れてから、職場の友達に誘われ街コンに参加した。別に、新たな恋をすぐ求めていたわけではないけれど、メールのやり取りや夜中まで繋げていたビデオ通話がもうないんだ、もう地元の匂いを運んできてくれる人はいないんだと思うと、少しだけ寂しくて、その寂しさを少しの間埋めてくれる人を探すために参加することにしたのだ。そこで出会った三つ上の介護士が今の夫だ。
彼は、仕事場ではなかなか出会いがなく、友達に誘ってもらって参加したようだった。話しているうちに意気投合し、連絡先を交換して、その日はお別れした。だが、その日のうちにすぐ彼から誘いが来て、さっそく三日後にデートに行くことになり、私たちはどんどん距離を詰めていった。誠実で、年上の余裕も感じられ、可愛げもある彼に、私はどんどん私は彼に惹かれていった。初デートから何回目かのお出かけの時に、結婚前提の交際を申し込まれ、当時二十六になった私は、周りの友達がどんどん結婚していくのに少し焦りを感じていた二十六歳の私は二つ返事でOKした。
その一年後、子供を身ごもった私は彼と授かり婚をし、今年の一月に息子を出産した。女としても母としても私はとても幸せだ……と、出産してみんなに祝福されていた時は本気でそう思っていた。だけど現実は私の思い描いていた幸せとは程遠いものになった。
私の幸せをぶち壊したのは彼の母親、つまり私の義母だった。彼女とは顔合わせの時に初めて会ったのだが、その時はとても優しいお母さんというイメージで、私はこの人とならもめることはないだろうと安心しきっていた。しかし、出産を機に義母は豹変した。いや、仕事を抜けられない夫の代わりに義母が
「あらー、ご両親も立会できないの……でも一人で出産は不安よね。私が付き添うわ」と言い出した時からすでに少しずつ歯車が狂っていったのかもしれない。
当初は自然分娩で出産する予定だった。しかし、陣痛が来てしばらくした後、私の容体は急変し、緊急で帝王切開に切り替えることになり、自然分娩しか認めたくないタイプの人間だった義母は、相当気に食わなかったのだろう。ベットの上で不快感や吐き気と闘いながら痛みに震えている私に、分娩室に入る瞬間までずっと義母は罵り続けていた。
「帝王切開ですって!? あんたは満足に出産もできないの!?」
「甘えたこと言ってんじゃないわよ!」
「自分の体をきちんとコントロールできないなんて人として終わってるわ」
「どうせ生まれてきた子は長生きできないわよ!」
痛みと気持ち悪さでその時は義母の言葉をきちんと理解できていなかったが、人間とは不思議なもので無意識のうちに記憶してしまうらしい。出産後も義母の言葉が蘇ってきて、ショックと恐怖でなかなか眠れなかった。私に罵声を浴びせ続けていた義母は、自分が付き添うと言ったくせに、出産を終えて病室に戻るといつの間にかいなくなっていた。
一体どこで私は間違えたのだろう。どうして帝王切開に変わっただけでそこまで言われなくちゃいけないのだろう。どこで私は義母の機嫌を損ねてしまったのだろう。どこだろう、いつだろう……。そればかりをずっと考えていた。
次の日の朝、授乳訓練を受けている時にやっと夫が到着した。
「あれ? 母さんは?」
「わかんない……病室戻ったらいなくなってた。……それよりさ、帝王切開でうむことになったんだけど、お義母さん気に食わなかったらしくてめちゃめちゃ怒ってさ。結構ひどいこと言われたんだよね……お義母さんって、私のこと嫌いなのかな」
「え……なんて言われたの?」
「満足に出産もできないのか。人として終わってるって……」
「それはひどすぎるわ……何考えてんだ、あの人」
本当に何考えているんだろう……。生まれてくる自分の孫になんでそんなにひどいことが言えるんだろう。あんなに優しかったのにどうしてしまったんだろう。夫が到着した一時間後に両親もお見舞いに来てくれ、同じことを伝えると、母は激昂した。父も
「娘と孫を不安にさせるならうちに二人とも連れて帰る。君はちゃんとお義母さんと今回の件について話ができるかい?」
と、静かに怒ってくれていた。夫も思っていたより大変な状況になったと理解し、すぐに義母へ電話をかけていたが、夫に怒られるのを恐れたのか電源を切っているようで繋がらなかった。
義母と話し合いができないまま息子を生んでから二週間後、母子ともに健康だということで、退院することになった。仕事にもすぐ戻る予定だし、一応こっちでとりあえず頑張ると両親を説得して、帰ってもらった。
家に帰り、息子を腕に抱きながら玄関の戸をくぐると、「あ、母になったんだ」と今更ながら実感した。二人で暮らしていた3LDKの家に、ポッとおなかの中から新たな命が出てきて、そしてこれから三人の新たな暮らしが始まっていく。すごく不思議な気持ちだった。
それから義母のことなんて忘れてしまうくらい忙しくて、それ以上に幸せな毎日が始まった。仕事にすぐ復帰したかったので、昼は保育園に子供を預けて、早く帰れるほうが迎えに行く、子供の容体が急変したときはすぐに帰れるようにしたいと、あらかじめ会社に伝えておく、料理は私が、掃除洗濯は夫が行うというルールを作って、共働きである私たちなりの育児生活がどんどん出来上がっていった。
もともと喧嘩をしない関係だったが、子供が生まれてからも特に喧嘩をすることもなく、夫がとても協力的だったため、穏やかに過ごしていた。しかし、そんな平穏な日々は長くは続かなかった。無視を貫いていた義母がある日ひょっこり訪ねてきたのだ。
「何しに来たんだ。硝子と息子にひどいことしておいて、今さら何の用だ。電話にも出ないし、いったいなに考えてるんだよ!!」
インターホン画面に映る義母に向かって、夫は怒鳴り散らした。夫の声を聴いて義母は一瞬ひるんだようだったが、
「だって、和(かず)君(くん)を盗ったメス豚が最初から気に食わなかったのよ。大嫌いだったの。これまで親切にしてやったし、和君の子供だって生めたんだからもう満足したでしょ? 和君を返してよ!!」
「いい加減にしろ!! 警察に突き出されたくなかったら、ここにはもう二度と来るな。硝子にも息子にも二度と近づくなよ!」
夫は一方的にインターホンを切ると、私に土下座した。
「申し訳ない!!」
「どうしてあなたが謝るのよ」
「あいつだったんだ……硝子が出産のとき、容体が急変した理由」
「どういうこと?」
意味が分からなかった。妊婦の体の中にはもう一人人間がいて、体調が急に変わってしまうことなんてざらにある。あの日もそうだと思っていたし、子供も無事に生まれたから特に気にしていなかった。
ただ……あの時、義母が「二人まとめて死ぬと思っていたのに」という言葉はずっと引っかかっていた。
「出産日の翌日、硝子に会いに行ったときにさ、俺硝子の病室に入る前、担当の先生に呼び止められて、容体が急変したときのことを聞かされたんだ。そしたら……」
「そしたら?」
「あの時の、硝子の症状はアナフィラキシーショック状態だったって」
「え……アナフィラキシーショック? でも私、小麦以外のアレルギーないよ? 病院は考慮してくれてるから出さないし、私も小麦が使われている食べ物は持ち歩いてないよ」
「あの日、何食べた?」
「普通に病院食だけだよ」
「何か母さんに食べさせられなかった?」
「いやなにも……あ、そういえば陣痛が来たって時に、『長丁場になるだろうからおなかに何か入れときなさい』って何かわからなかったけど、ぱさぱさしたもの口に突っ込まれたかな」
「そのまま食べたの?」
「痛すぎてそれどころじゃなかったから、お義母さんが見てない隙にベットの下に吐き出しちゃった」
「多分それを看護婦さんが拾ってくれたんだ……それ、クッキーだよ。きっと、母さんが手作りしたやつ」
「え?」
夫は、そこで言葉に詰まったのか黙ってしまった。しばらく沈黙が続き、「もう、終わったことだからいいよ」と、話を切り上げようか迷いだした頃、すすり泣く声が聞こえ、ギョッとして俯いたままの夫をのぞき込むと、彼は顔を
くしゃくしゃに歪めて号泣していた。
「小麦で作ったクッキーを……わざと、あいつが……二人まとめてころっ……殺すために……ごめん……本当にごめんなさい……」
言葉を失った。
私達親子を殺すため……。思い返せば、義母の不思議な言動も、それならつじつまがあう。
だから、私に小麦アレルギーの致死量を聞いたのか。
だから、何度言っても小麦が使われているようなお菓子を用意していたのか。
だから、子供ができたと報告したときに、「おめでとう」とは絶対言わなかったのか。
だから、「生まれてきた子は長生きできない」と言ったのか。
だから……
「なぁーーに、いいオンナが辛気臭い顔してんの。そんなに眉間に力入れてたらしわになるわよ」
「ちょっ、葵ちゃん!?」
葵ちゃんは急に何を思い立ったのか、慌てている私をよそに、ずけずけと硝子先生に話しかけに行ってしまった。私も慌てて後を追うが、絶対よろしくない状況だよね!? 絶対関わんないほうがいいと思うって!!
「……獣村君?……と、蛭間さん……。別に、あなたたちには関係ないでしょ」
「そーんな冷たいこと言わないでよ。なに悩んでるの?」
「生徒であるあんた達に話すわけないじゃない」
先生の目の前にしれっと座ると、ぐいぐい質問攻めしていく葵ちゃん。なんてメンタルの強い人なんだろうか。
「だからよ。特別親しい仲じゃないからこそ、相談できるものもあるんじゃないの」
先生は長い溜息を洩らした。
「……仕方ないわね。でも、かなり刺激が強いかもしれないわよ?」
「あら、楽しみだわ。オンナはいつでも刺激を求める生き物なんですもの。ママ友だと思って気軽に話してちょうだい」
「ママ友なんていないけどね」
硝子先生はそれから一時間ほど、県外から単身赴任で私たちの大学に就職してきた話や、ご主人と結婚したときの話、お子さんが生まれた時の話、そして……義母から嫌がらせを受けている話を話してくれた。
「盗聴されてるの」
「と、盗聴!?」
「お義母さんにってこと?」
「えぇ」
信じられない。自分の息子のお嫁さんに、どうしてそんな真似ができるのだろうか。私の母が同じようなことを旦那さんにしていたとしたら……情けないし、気持ち悪い。そしてきっと、何が母を壊してしまったのだろうと切なくなるだろう。
「主人に怒られてから、義母は私に直接メールを送ってくるようになったの。でも、そのメールの内容が変で、どうしてこんなこと知っているんだろうってことばかりだったから、主人に相談して、専門家に調べてもらったのね」
「そうしたら、出てきたってことですか?」
先生は無言でうなずいた。そして、おもむろにスマホを取り出すと、義母から送られてきたメールの画像を開いて見せてくれた。
『昨日の隆一君はいつも以上に夜泣きがひどかったですね。耳が痛くなりました』
『今日の夕食は和君に作らせたんですね。しかもビーフシチューなんて手の込んだもの……和君がやけどでもしたらどうするの?』
『今日は寝坊をして、和君のお弁当作り忘れたそうですね。嫁失格』
つま先から頭の先にかけて電流のように寒気が走っていった。
「テーブルの下につけられてた。取らずに様子見してる。家ではメールで会話してる……でも、聞かれても困まらないような会話は普通にしてるんだけどね。急に会話なくなったら怪しまれるだろうし」
私と目が合った瞬間、先生は気まずそうに笑いかけてくれ、その瞬間に私も肩の力が抜けて少し楽になった。握りしめていた手の平には爪の跡がくっきりと刻まれていて、それに気づいた途端ジンジンと鈍い痛みが押し寄せてきた。
「そんな……気を使って無理に笑おうとしないでください。辛ければ泣いたっていいじゃないですか。こんな場でも我慢しようなんてしないでください」
「みどりちゃん、それは変にプレッシャーをかけるだけになってしまうわ。必ずしも悲しい話をするときに泣かなければいけないなんてルールなんてないし、先生は涙を無理してこらえている風でもないでしょ?」
どうして? 誰だって嬉しいことに共感してもらえたら嬉しいように、悲しいことに共感してもらえたら、味方がいるんだって安心するものなのに、なぜそれがいけないの?
先生の笑顔は辛そうだった。色んな悔しさや痛みを我慢して今まで頑張ってきただろうに、こんな場でもまた我慢させたくないって……そう思ったから。
「そんなに落ち込まないでよ。ありがとね、心配してくれて……そうよね、せっかく気持ちを吐き出す機会を作ってもらったのに、どうして泣けないのかしらね。引っ越してきたばかりの時は毎日のように泣いてたのに。やっぱり、土地が人を変えるのかしら」
恨めしそうに空を見上げながら、頬杖をついた先生は短くため息をついた。
「ここはやっぱり、私の街じゃない」
先生の心はずっと故郷にあるんだ。思い出の中にある空をずっと見てるんだ。
「この街は、私に優しくない。よそ者扱いして、全然受け入れてくれない。妻になったのに、母になったのに、全然幸せになれない。どうして……どうして?」
「それは……」
「シンデレラってね、」
「え?」
それは、街のせいじゃないって言いかけた時、隣からトンチンカンな話が飛び込んできた。
「シンデレラってね、魔法使いのお婆さんのおかげでハッピーエンドになったって思われてるじゃない?」
「それがどうしたの?」
「それって違うと思うのよね。アタシは、ハッピーエンドになったのは、シンデレラ自身の力だと思うの。だって、お婆さんは舞踏会に行けるように身なりを繕ってあげただけなのよ。そこで王子様に気に入られて、義母たちに自分で意見して、硝子の靴を取り戻して、ハッピーエンドに持って行ったのはシンデレラ自身じゃない。違う?」
「葵ちゃん、何が言いたいの?」
「先生、あなたの言う『妻』や、『母』は所詮ドレスや靴と一緒なのよ。与えてもらっただけじゃ幸せにはならないわ」
葵ちゃんは淡々と話した後、ググっと先生に顔を近づけた。
「求めてるだけじゃ誰も変わらない。何も手に入らないわ」
射るような瞳が、先生だけじゃなく私の心にも刺さった。
求めているだけじゃ誰も変わらない、何も手に入らない。求めていたもの……私も先生に何を求めていたのだろう。私の作品を、認めてもらうだけ、褒めてもらうだけ、肯定しか求めていなかった。先生の気持ちに対しても、泣きわめいて、自分の不幸をもっと体全体で表して欲しいって思っていた。
でもそんなの誰が幸せになるんだろう。
肯定だけされてもきっと私は納得いかなかっただろう。
先生に大泣きされていたら、きっと困惑して何もできなかっただろう。
受け入れなくては。否定も肯定も、作品を生み出したものとして、自分の力を高めていくために。
じゃあ、先生を助けるにはどうすればいいのだろう。
ガランガランッ
ドアが乱暴に開けれられたことによって、ドアベルが大きく鳴り響いた。
店員も、私たちも、他のお客さんも一斉に驚いて入り口の方を見ると、初老の派手な衣服を身にまとった女性が、大股でこちらに歩いてくるのが見えた。
ガタガタッと先生が慌てて立ち上がる。
「ちょっとあんた! こんなところで何やってるのよ! お迎えはどうしたの? まさか、和君に行かせたわけじゃないでしょうね。嫁の役目はね、家庭を守ること。育児も家事もすべて女がやるもんなのよ!!」
初老の女性は私たちのテーブルまで来ると、先生に向かってすごい剣幕で怒鳴り散らした。
「すみません、お義母さん……でも、ちょっと体調悪くて」
「言い訳すんじゃない! あんたの体調なんて知ったこっちゃないわよ! いいからやるの!」
先生がチラリと葵ちゃんに助けを乞うような視線を向けた。私もつられて葵ちゃんを見ると、彼は素知らぬ顔で優雅にコーヒーを飲んでいた。
「ちょっと! コーヒー飲んでる場合じゃないでしょ!? 先生を助けてあげてよ!!」
「ダメよ」
「だっ、ダメってどういうことよ。先生、助けて欲しそうに葵ちゃんのこと見てたよ?」
「……」
小声で葵ちゃんに助けを求めたが、ぴしゃりと断られてしまった。その後も何度か説得を試みたが、葵ちゃんは無言のまま、先生の方をチラリとも見ようとはしなかった。
葵ちゃんが助けてくれる気配はないと悟ったのか、先生はうつむいてしまった。その間も先生のお義母さんは先生を大声で怒鳴り続けていて、さっきまで騒がしかった店内はすっかりお通夜状態となってしまった。
「ねぇ、聞いてるの? 本当にダメな嫁だこと。いつもなら保育園に向かうはずなのに、全然動かないからおかしいと思って来てみれば、こんなとこで油売ってるなんてね!」
「……」
「GPSもつけておいてよかったわ。あんた、何しでかすか分からないもの。ほら、さっさと保育園行きなさいよ。和君に謝罪することも忘れないでね。あ、私には特上和牛のステーキでいいから。それで許してあげるわ」
この義母、盗聴だけじゃなくGPSまでつけてたなんて……どこまでもいかれてる。
義母が先生の腕をつかんだ瞬間、私の中の何かがはじけ飛んで、とっさに体が動いた。だが、グッと肩を反対側に引かれ、後ろに倒れこんでしまった。
「いたた……何すんの!」
「あんたは何もしちゃダメ」
私の肩を引いた犯人、葵ちゃんが倒れこんだ私の顔を覗き込んで言った。ぶつぶつと文句を垂れる私を起こしてくれながら、葵ちゃんはボソッと
「悔しいけど、何もしちゃいけないの。本当に先生のためを思うなら」
そうつぶやき、驚いて彼の顔を見上げると、耐えるように唇を噛み締めていた。
そうだ、さっきシンデレラは自分の力でハッピーエンドを手に入れたって、葵ちゃんが言っていた。先生も自分の力で何とかしなきゃいけない。だから葵ちゃんは助けようとしなかったんだ。本当は庇ってあげたい、言い返したいのを我慢して先生の力を信じて待ってるんだ。
先生が運命を変える瞬間を。
「しは……」
その時、先生が小さな声でぼそッと何かを呟いたのが聞こえた。
「は?」
「私は、お義母さんの道具ではありません! 私は、和さんに選ばれて妻になり、和さんの子供の母になりました。お義母さんの言う通り、家庭を守らなくてはいけません。なので、」
「お義母さんを訴えます」
さすがの義母も言葉を失ったようで、店内にはしばらく無音が続いた。沈黙が五分くらい続き、そろそろ無音過ぎて耳が痛くなってきたと思っていた矢先、やっと思考回路が復活したのか、義母がぎゃんぎゃんと騒ぎはじめ別の意味で耳が痛くなった。
「ふざけんじゃないわよ!! あたしが何をしたていうの!! なんであんたみたいな出来損ないに訴えられなきゃいけないわけ!?」
「陣痛が来ている時に私の口に放り込んだもの、あれ小麦入りのクッキーだったんですね」
「ど、どこにそんな証拠があるっていうのよ!」
「隣のベットの妊婦さんが、私の口にあなたがクッキーを放り込むところ見ていたそうです。そのあと容体が急変したって先生に話してくれたそうですよ。ちなみに、ナースコールしてくれたのもその方です」
「……」
「盗聴器もあなたですね」
「知らないわ」
「『龍一君、熱出したんだってね。子供の体調管理もうまくできないなんて、ほんと母親失格』っていうこのメール、これは主人と口裏合わせてでっち上げた嘘です。子供は熱なんて出してませんし、そもそも私たちは子供の名前を教えていないのでお義母さんが知っているなんてことありえないんです。それこそ、盗聴でもされない限りは」
「そ、それは……」
「極めつけはご自分で自白したGPSです。殺人未遂に加えて、プライバシーの侵害、不法侵入、他にもいろいろありそうですね。これは数年で刑務所から出てくることはできないでしょう」
あれだけ勢いのあった義母は途端にしおらしくなってしまい、もじもじと体をくねくねさせながら「だって」や「でも」と言い訳し始めていたが、その姿はちっとも可愛らしいものではなく、むしろ見ているものの怒りを増幅させるだけだった。
「ねぇ、ごめんってば。謝るからさ、許してよ。うち、お父さんなんて役に立たないし、年金暮らししてるからお金無いの知ってるでしょ? お願いよ~、ね? ほんの冗談のつもりだったんだってば」
「ほんの冗談で子供を殺されたらたまったもんじゃありません。こちらは気持
りますので、自分の考えが通ると思わないでくださいね。それでは」
言い終えると先生は、固まっている義母を無視して席に着きすっかり冷めきってしまったコーヒーに口をつけた。少しずつ店内にざわつきが戻りだし、止まっていた時が流れていく。
たった一人、義母を除いて。
私の時が流れていく。ここに引っ越してきてずっと止まっていた時間。故郷に帰りたくて泣いていたあの頃からずっと止まっていた時間。この地で結婚しても、子供を産んでも、ちっとも自分の街だと思えなかった。
ここは私の街じゃない。何度も何度も、心の中で叫んできた。空の色も忘れ、太陽の温かさも忘れてしまった。帰りたい、帰りたい、帰りたい。
でも、気づいた。
私が本当に帰りたかった場所。
甘やかしてくれて、庇ってくれて、慰めてくれる母の腕の中。
そこが私の帰りたい場所だった。
私はずっと甘えていただけ。いじけていただけ。私はもう、小さくてか弱い少女ではない。太陽の光をただ探して、さまようだけじゃいけない。
私は妻になり、母になったのだ。
その称号を得られれば、自然となじんでいくものだと思っていたけれど、それはとんだ間違いで、私はちっとも妻にも母にもなれていなかった。助けてもらうことばかり考えて、戦うことをしなかった。
まだまだ沢山困難は待ち受けているだろう。これで終わりじゃない。私の物語はまだまだ終わらない。やっとスタートを切ったところなのだ。
コーヒーを飲み干しながら窓越しに空を見ると、夕日が傾きかけているのが見えた。橙色がどんどん朱色に染まっていく。
もう大丈夫。私は、この街と生きていける。
あぁ、やっと雲が晴れた。
「ねぇ、なんでシンデレラだったの?」
先生と別れ、カフェを後にした私たちはゆっくりと、田んぼ道を散歩しながら帰っていた。
「硝子先生、陰で『ハートが硝子のシンデレラちゃん』って呼ばれてるのよ。彼女、幸薄そうだし、メンタル弱そうじゃない。実際義母にいじめられてたしね」
「そうだったんだ……。先生、なんかすっきりしてたね」
「結局、自分の機嫌は自分でとるしかないってことよ。幸せになりたいなら、自分で今の状況を変えるしかない。場所のせい、人のせいにしたい気持ちもわかるけど、まずはどうにかしようって行動しなきゃ何も始まらないわ」
先生に言い負かされた義母は数分間フリーズした後、煙のようにスーッと去っていった。
あの時、葵ちゃんが加勢していたら、私が止めに入っていたら、きっと先生のあんな晴れやかな顔は見れなかっただろう。私たちは、葵ちゃんが言うところの魔女であらねばならない。というか、魔女の仕事をしたのは葵ちゃんだけだったか……。
「葵ちゃんが先生の魔女だったんだね」
「えー? 何それ」
「葵ちゃんが先生に魔法をかけたんだよ。自分の力で幸せを手に入れられるように。……あ、でも魔法にかかったのは先生だけじゃないか」
「?」
「私も求めているばかりじゃなくて、私が欲しい言葉や評価をもらえるように自分の力で、見る人の心を奪えるようにもっと頑張らなくちゃね!」
求めているばかりでは何も変わらない。たった数か月の信頼だけじゃ、彼は自分のことを話したいとは思えないだろう。しかもいつから化粧をしだしたのかなんて、気持ちの話なのだからかなりセクシャルな話だ。
別に知っても知らなくてもいい話題で、そっとしておけばいいのではと頭では分かっているが、彼のことが知りたくてたまらないと、ぐんぐん好奇心を膨らましている私がいて、一向に収まる様子がない。
同い年とは思えないほどの冷静さ、簡単に心を許したくなる人懐っこさ、どんな修羅場にも恐れおののかない強かさ。一体、彼は今まで何を見てきて、どんなことを経験してきたのだろう。
「ねぇ、そんな怖い顔してどうしたの?」
葵ちゃんに声をかけられハッと我に返った。気づけば先ほどいたカフェがものすごく遠くに見える。
「あ、ごめん。考え事してて」
「結構長く考え込んでたわね。何を考えてたの?」
「んーー、葵ちゃんのことかな」
葵ちゃんがビクリと揺れた。
「やっだぁ。みどりちゃんたら、ほんとアタシのこと大好きなんだから。乙女に考え込ませるほどの魅力があるなんて、アタシったら罪なオカマよねぇ」
数秒の沈黙の後、何を勘違いしたのか、葵ちゃんは体をくねらせがら喜んでいた。
「なーんか、勘違いしてるみたいだけど、まぁいいや。オカマの発作には慣れました」
「あ?」
「男隠してくださーい」
「あらヤだ」
こんな風に仲良く話していても、彼が心の壁を崩してくれることはない。
カメラで写した空のように、彼の心模様も写真のように映し出されればいいのに。と思いながら、少し先をゆっくりと歩く彼の後姿にカメラを向けた。
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