エピローグ

 半分あいた窓から、乳白色の光がさしこむ。

 時刻は朝と昼のまんなか。庭の緑の木々を通り過ぎ、木漏れ日がフローリングの床に模様を写す。

 きらきら、きらきら。ヴェネチアングラスのようなあたたかみのある光だ。

 ルカヤは目を細め、窓から目をそらした。


「きれいだね、とっても。今日はうんと晴れてる。雲もごきげん。一番きもちのいい天気」


 安楽椅子のリクライニングシートにふくらはぎを乗せてうたう。


「きらきらふわふわ。いい日だよ。ここはあぶないがなんにもない。やってもこない。かちこちかちこち、とまっているから」


 時計がない家は穏やかな静寂で守られている。時の流れを拒んでいるようだ。

 いいや、いいや。時間はある。過ぎている。ルカヤに残酷さから目をそらさせて、時間は生まれ続けていた。


「だから……でてきちゃだめだよ。でてきちゃだめ。生まれたら、わたしはあなたを家族として愛してしまう。一番最初のプレゼントに、言祝(ことほ)げぬ生まれを与えてしまうのに。否定できなくなって……愛だけを……」


 ルカヤは腹をなでる。

 ゆったりとしたつくりの、薄青いワンピースのした、大きく膨らんだ腹が、太陽があともう数十回のぼるのを待っていた。


 虚ろな目でおなかをさする。河を渡るゴンドラの如くゆっくりした動きで、一日中同じ姿勢を保つ。

 日は天に達し、円を描いて落ちていく。熟れたオレンジそっくりな太陽が沈みかけたころ、家主が帰ってきた。


「帰ったぜ、俺の子猫ガッちゃんディーナ宝物テゾーロ。きちんと昼飯は食ったか?」


 美しい金髪を惜しげもなくさらし、ルカヤと目線をあわせる。返事がないとわかると、彼は冷蔵庫を開いた。


「ああ、よくねえぞ。腹にちゃんと食いもんをいれなきゃ。最近細すぎる」

「わからないの。これが正しいのか」

「何度もいってんじゃねえか。幸せになることだけ考えりゃあいいんだ。お前はじゅうぶん苦労した。もう愛して愛される、めいっぱいの幸福を受けていいんだ。俺もな」


 鍋に入ったミネストローネに火をかける。バジルが薫り、ルカヤの鼻がひくりと反応した。

 気持ちはいっぱいいっぱいでも、彼女の体は栄養を欲していた。


「なーんにも考えなくっていい。口を開けろ。俺達、、子ども、、、のためにも食え。俺に愛しい人を二人も失わせないでくれ。その子にはなんの罪も責任もねえ」


 ほうけていたルカヤの眉がひそめられ、緩慢に唇が開かれる。

 以前にも増して色白になった、肉厚の花弁のような唇は、雄をさそうめしべを思わせる。儚さの裏に植え付けられた色気は、こらえようもなくにおいたつ。


「まるでひな鳥の餌付けだな。この時間がすごくすきだ」


 舌の上にスプーンをのせ、嚥下を見守る。


「ガエタノに頼んでおいたはずなんだな。急患か? アイツ、連絡ぐらいいれろよ」


 文句をいってもエヴァンは楽しそうだった。ルカヤの腹に手をのせ、耳をあてる。


「子どもが腹を蹴るのっていつ頃からわかるんだろうな。ガエタノはそろそろだっていってたんだが」

「幸せそうだね」

「幸せさ。もうすぐ全部手に入る」


 話すあいだに夜が訪れる。エヴァンはルカヤに上着を掛け直し、暖房を入れた。

 次いでドアや窓といった『外界と繋がるもの』に近づき、内鍵をかけた。

 電気の光を鈍く反射する鍵がエヴァンの衣服のしたに仕舞われる。


「お前は本当に手強い。一度折れても、壊れても、どこか浮き上がろうとする。だが俺は諦めない。ルカヤ。必ずお前を幸せにする」


 腹のしたに住まう生き物を怖れ、ルカヤが視線を下げた。日々は日追いに穢れ、結実寸前だ。

 無垢な魂を前に、気高くあろうとしたルカヤもまた、全てを漂白して、まっさらな日常を享受しようと生まれ変わりかけている。


「そうだ、ルカヤ。いい知らせがある」

「……なあに?」

「新しい名前が手に入りそうなんだ。間違えづらいように、Eで始まる名前を探しててよ。やっと見つかった。『エドガー・ロー』。悪くねえだろ」


 手が止まる。


「つまり、それが……この子の名字になるの?」

「両親の許可がねえと結婚できないから、公式な婚姻は結べない。ま、イタリアで事実婚なんざありふれてる」


 ルカヤは祈るように目を閉じて、再び酩酊に浸る。


「でてきちゃだめ。でてきちゃだめよ」

「いいや。ちゃんと俺達で育ててやらねえと。そうだろ」

「きらきら、ふわふわ。ここはぽかぽかしてるね……あなたがいたら、どこにもいけない。もうでられないよ、ここから……」


 倫理は見失われ、手に取れる希望が選ばれた。

 南イタリアの可愛らしい一軒家で、あらがいようなく時間は過ぎる。

 いずれ人知れず、ひとつの愛が完成するまで。

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アルタ・カーマ 室木 柴 @MurokiShiba

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