ラスト・フライ(1)

 ペンテの邸宅に連れてこられてから三日が経つ。

 ルカヤは憂鬱な朝に眉を下げ、ふかふかのベッドにうずくまって、暗澹(あんたん)たる表情を隠していた。


「ルカヤちゃん。今日はお父さん、仕事がないのよ」


 起こしにきたアリーゼのひとことに、ルカヤの肩がはねる。

アリーゼは半分開け放った扉に寄りかかり、困ったように小首を傾げた。


「一日目と二日目は夕食で会うきりだったけれど、今日はそうはいかないわ。久しぶりに会った娘と水入らずで過ごしたいっていって聞かなかったから」

「……無理です……」

「それをなんとかしなきゃ。でないと未来はないわ。あたしも一応一緒にいていいって言われてるから、勇気を振り絞って」


 有無を言わさぬアリーゼに泣きそうになるのを堪える。

 ルカヤが思うに、ルカヤがフラヴィアになるのは無理がある。

 ペンテ家は家を見ればわかるように、富裕層だ。大金持ちというわけではないものの、それに近しい。


 娘のフラヴィアも金銭で不自由せず、身の丈に相応しい消費の仕方をしていたようだ。

 例えば必要な家具や電気製品を買うのに躊躇しない点であったりとか。多様な服を買いそろえたり。


「今日も服はあたしが選ぶ? なんでもいい?」


 アリーゼはクローゼットに触れ、子どもに言い聞かせる姉のように話しかける。ルカヤはこくんと頷く。

 観音開きのクローゼットの中身は、淡い色の服でぎゅうぎゅうだ。服の数がルカヤの三倍、いや四倍はある。


 ルカヤは自分のための買い物に罪悪感を覚えるため、衣服の類いは必要最低限しか買わなかった。

 必然的に、どんな時にでも使える、カジュアルで無難な服装になる。


「じゃあ、今日はピクニックをするっていってたから、汚れて困る類いの服は避けるわね。さて、ロングスカートがいいかしら、それともパンツにしようかしら」


 アリーゼはルカヤをベッドに腰掛けさせる。そして候補の服を取り出しては、ルカヤに重ねて、見比べた。

 フラヴィアはルカヤと逆に、用途別に合わせられるだけのバリエーションもちあわせがあった。

 見た目も大人っぽいシックな服から、大胆に足を見せるスカートに。好みは、色は薄めでかわいげはある、フェミニンなタイプだったらしい。


「バッグはこの肩がけ鞄でいいか。小ぶりでキュートでしょう。いれるハンケチはこれでいいわ」


 アリーゼは説明しながら、ベージュの革バッグに、するするとした触り心地の桜色のハンカチをつめる。

 遺された持ち物からは、若干控えめでいて、今時のおしゃれ好きな少女という像が浮かんでくる。

 他にも鞄は四つほどある。どれも見目は違う。装飾が少ない、シンプルなつくりなのは共通だった。


 買い上げられてから数年を過ぎたろうに、どれもいまだに使用できる点をみても、高級品だと予想がつく。

 同じ趣味の品物たちから、どれも『好きだったから』選んだのだとうかがえる。

 親のためでも、高いものを勝手はいけないといった妥協の結果でもない。

 豊かな環境によって、ありのままで好きなように過ごしていたことがうかがえる。ある種の自信があった。


 そういう意味で、明るい少女だったのだろう。

 他の人間にはなくて、ルカヤにある要素といえば、髪のみだった。


「ほら、いきましょう。そんなに悲観しないで。いいことだってたくさんあるのよ。欲しいものはなんでも買って貰えるし、今日だって、うんと美味しいものが食べられるわ」


 アリーゼに壊れ物のように手をとられながら、ルカヤは心の中でかぶりをふった。


(今日こそ、きっとダメだ)


 そう思いながら。

 ルカヤの予感は、悪いほうに限って、予知のようによくあたる。

 それが起きたのは、邸宅の庭に日の光が降り注ぐ正午だった。


「そろそろランチにしようか!」


 老人の一声で、アリーゼがシートを敷き、ルカヤはバスケットを差し出した。なかには六枚切りの食パンにバゲット、ハム、トマト、肉のパテ、エトセトラ(etc)。

 かりそめの親子三人で並び、ひなたぼっこを堪能しつつ、ルカヤがナイフをとりあげた。ナイフでパテを抉り、バゲットになでつけようとした時だ。

 ニコニコ満面の笑顔だった老人の目が見開かれた。


「……フラヴィア?」

「え、な、なんですか」


 限界まで見開かれた目は血走っている。病んだふくろうのような目にルカヤがキョドキョドとナイフを置く。


「どうしてそんな持ち方をする」

「え」

「手が震えているぞ」


 はっと手元をみる。既に刃物を手放した手は、ぴくぴくと震えていた。極度の緊張からくる、無意識の反応だった。


「フラヴィアはそんな動作はしなかった! 食事ぐらいで何故それほど恐れる? 私は父親だぞ」

「お父さん!」


 アリーゼがバッと立ち上がる。鬼気迫る呼び声に、ルカヤの動悸が急速に速まる。


「下がりなさい、アリーゼ。きっとこの子は事故のせいで混乱しているんだ。もとのフラヴィアに戻れるよう、治療してやらねば」


 老人が唾を飛ばして訴える。盲信のもと、老人はピクニック道具もそのままに、ルカヤの腕を掴んで引っ張った。

 枯れた体のどこにあるのかわからない剛力に、「痛いッ」と悲鳴があがる。


 抵抗も虚しく、ルカヤは邸宅に引きずり込まれ、今度は階段を下がらされた。転ばないよう、もつれそうになる足を必死で動かしていると、薄暗い階に出た。

 地下室だ。湿気った匂いのするフローリングがギシギシと嫌ななきかたをする。


 やがて大きな椅子がみえてきた。遠くから見れば社長椅子にも見えたそれは、近づくとむき出しの木製のものだとわかる。

 まとわりつく茨のように配置されたコードを見とがめて、ルカヤは一層激しく暴れた。

 老人相手で心が痛むともいってられない。


「ちがいます、ちがいます、やめてください!」

「フラヴィア、おまえは病気なんだよ。治さないと!」


 まとまらない頭で、老人をふりほどこうとするルカヤの両肩をもみ、老人は悲痛な声をあげた。


「おまえを失いそうになったとき、わたしとお前の母がどんなに苦しんだか。病院の待合室で何時間もうつむいていたよ。妻がきたのは更に数時間後。共働きで、遠くにいっていたからね。帰るのに時間がかかってしまった。妻は出張なんか断って、自分が送ればよかったと何日も泣きはらした。わたしもだ」

「ちがいます……その子はもう」

「いる! いるんだ。いなくてはならない。でなければ全て無駄になってしまう。すべて帰ってくる。そうすれば悲しみも全て帳消しになる」


 肩にかけられていた老人の手にちからがかかる。ルカヤは強制的に木製椅子に座らされた。

 慣れた動きで両手と足首がベルトで縛られ、椅子に固定される。無駄のない動きは、今まで何人もにこうしてきた事実の証拠だ。

 老人はベルトをはずそうと全身をハネさせるルカヤの頬を撫で、子守歌を歌うように囁く。


「安心しなさい。少し痛いかもしれないが、うんと効く」

「待って、いかないで、やめて!」


 猛烈に嫌な想像が脳裏を駆け巡った。泣き叫ぶルカヤをもう一度撫でて、老人は部屋の奥に向かう。

 電気のあかりも届かず、濃厚な闇に秘されたそこで、老人は何かのスイッチを入れた。

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