おいすがる過去(3)

 眠い。眠い。眠い。

 しわくちゃのシーツのうえで寝返りをうつ。ルカヤは猛烈な睡魔に安堵した。


 エヴァンは二人の時間をゆっくり過ごしてからといって、気を遣っているらしい。だが怖いものは怖い。

 もう一度、のろのろと向きを変えた。ミルクティ色の壁が広がるばかりだ。人影のかけらもない。


 近くに兄の気配がないか、五感をハリネズミのようにとがらせて探る。

 あるのは沈黙だった。眠りこけたいとだだをこねる体を叱咤し、両腕をついて枕から頭を離す。


「……起きなきゃ」


 ルカヤの精神も限界が近い。

 兄は朝食をともにしてから出かけた。仕事である。顔色の悪いルカヤを案じ、冷蔵庫にはおやつも入れてくれた。今日はパンナコッタだという。

 現代風にゼラチンを少なめにしたクリームンナを煮たコッタお菓子。


 兄の優しい愛に似ている。濃密で甘く、ルカヤのあたまをふわふわとさせ、倫理観をゆるめようとする。

 正体は、本来こってり煮詰まって、焦げたカラメルソースに胸焼けしそうなほど濃密なところも。


 ほぼ毎日、それを与えられてきたルカヤは、もうダメになりそうだった。

 毎夜日増しに、エヴァンをより深く、奥へと受け入れていっている。

 危機だ。ルカヤは兄に隠れて行動を始めた。脱出である。


 実のところ、監禁からは何度か逃げだそうともくろんでいた。

 エヴァンは眠りが深いため、眠っているあいだに鍵をとって動こうとした日もあった。彼がでかけるとドアチェーンをかけられてしまう。結論を言えば、これはダメだった。


 一度動こうとした時に運悪く起きてしまった。

 以来、彼は眠りに落ちる前に、ルカヤの手をリボンで結ぶ。杖につけたリボンと同じものだ。

 エヴァン自身の手首とくっつけ、手錠のように繋ぐのである。起こさずに動くのは至難のわざだ。


 ごくたまにリボンをかけ忘れる日もあったものの、そういう日はイコールで、ルカヤも疲れて深く眠らされる日だ。とてもひとにいえない秘め事を施され、黙らされる。

 仕事で疲れた場合で忘れた日はないから、わざとなのかもしれない。とにかく、兄の寝込みを狙うのは諦めた。


 念入りに兄の不在を確認する。

 そしてめいっぱいのちからで、ベッドをひっくり返した。大きな音をたてないよう、そっと足を床におろす。


「案外やれるもんだね……こんなことに中学時代に培った体力が役に立つとは思わなかった」


 運動をしなくなったので、全ての筋肉が落ちたものと思っていた。

 若い頃に鍛えた筋肉は、存外長持ちするらしい。こんな活躍では喜んでいいかは複雑だが。


 ルカヤはかがみこみ、ベッドのフレームのすきまに指をねじりこむ。指先にひっかかったものを巻き取り、慎重に引っ張り出す。

 じっとり出てきたのは黒い紐だ。ぐちゃぐちゃと見苦しいありさまである。なんとか紐らしきていをなしている。


 しかし、これでも出来がいいほうだった。

 なにせ、材料はルカヤの『髪』だ。

 豊かにするりと伸ばした黒髪を抜いてよりあわせたのだ。これを作ろうとして、力加減を間違え、何度途切れさせてしまっただろう。


 なかにはカーテンや衣服のほつれを大きくして取り出した糸も混じっている。

 だが、兄に違和感を持たせないようにしようと思うと部屋の外観を変えるのは恐ろしかった。そういうわけで結局、髪を利用するに至った。


 幼い頃、ストレスにさらされると髪を抜く癖があったのも、兄の目をごまかした。

 今日もなんとか切らずに取り出せて、ルカヤはかいてもいない額の汗をふく。


 元々ルカヤの自室だったので、ベッドはまだ独り用なのがまた功を奏した。これが仮にキングサイズだったら、いくらなんでもひっくり返せなかった。

 けれども、兄は「近々二人で寝られるサイズにかえようか?」といっている。挑戦時間は限られていた。


「これぐらい長くなれば、もしかして」


 頑丈にすることだけ考えた。何十にも巻かれた『紐』は1メートル前後に育った。

 はやる胸に早足になりながら、ルカヤは部屋を出た。リビングを通りぬけ、廊下に通じるドアを押す。

 例の通り、ガチャッと金属音を鳴らして、ドアチェーンが揺れた。


「よい、しょっ、と……」


 集中できる作業なら、手先は器用なほうだ。

 ルカヤはチェーンに『紐』をひっかける。チェーンの揺れ具合を観察して、試行錯誤に取り組む。

 まばたきを惜しんで熱中して数十分。ドアチェーンが外れた。


「やった!」


 らしくなく小さくピョンと跳ね回る。まさか本当にできるとは思っていなかったのだ。

 内心、どうあがいても行き着く先は決まったのだと自暴自棄だった。


「こ、これで……これで外に出られれば、きっと。きっとなんとか、いいほうへ……」


 痛いくらいドキドキする心臓が邪魔くさい。一旦自室に戻り、適当な衣服に着替える。

 ファッションに自信はない。祖母は何を着ても「似合わない」と罵った。両親が服を見繕ってくれたのは幼児までだ。

 衣服の組み合わせは兄が選んでくれていた。


「大丈夫、大丈夫。最低限、外に出られれば。パジャマよりずっとマシ」


 自室に戻ったのは着替えのみが理由ではない。ルカヤは続いて、ひっくり返ったままにしたベッドフレームに足をかける。


「ふーっ……大丈夫、大丈夫」


 深呼吸して動悸を抑えると、ルカヤは覚悟を決めた。ひといきに、フレームの一部を踏み折る!

 走りこそできないが、足の筋肉も生き残っていた。

 したたかな脚力で打ち抜かれた板は、ルカヤのくるぶしまわりの柔肌を噛みながら、ベッドから離散する。

 流れ出る血から目をそらし、ルカヤは一番大きなフレームのかけらを拾い上げた。女性が踏み折れる薄さは頼りない。不安だ。


「い、意外と脆い。でも必要だから……」


 痛みをごまかすため、独り言が増える。足首の痛みに意識がいって、動けなくなる前に、体を動かした。

 外れたドアチェーンを通り抜け、玄関へ辿り着く。

 おおむねかつてのままだ。だが内鍵が消えていた。今は使われていないのだろうが、ご丁寧に内側にむいた外鍵まである。


「やっぱり。寝てる間は鍵をかけてたんだ。兄さんが寝て、ドアチェーンがかけられていない間にここに来ても、出られなかったのね」


 手首を縛るだけで、疲れさせても起き上がれるかもしれないのに妙に余裕があると思えば、案の上だ。

 手の中の板を握る。今までルカヤとエヴァンの二人分の体重を支えてきた板だ。なんとか頑張ってもらう。それしかない。


 現在の自宅の玄関は木製だ。よくいえばアンティーク、悪く言えば中古物件らしい、がっしりとしたドアである。

 椅子で殴ったところでどうにかなる気がしなかった。ドアノブは新品だ。かつて祖母の凶行を目にした兄が対策しているかもしれない。


 不幸中の希望は、ドアをまるごとは買い換えられなかったらしいという点だった。

 当然、ドアは面積が大きい。それこそ『家の顔』として道路に面する場所だ。変えれば、ひとめで変化に気づかれる。

 スルーされ、見とがめられても「壊れた」とでもいえばいいドアノブとは違う。


 古いドアには隙間風が吹き込んでいる。ルカヤは隙間に板を差し込み、船をこぐような姿勢で押した。折らない範囲で、全力で。

 テコの原理でちからを加えられたドアは、最初はガタガタいうだけだった。ルカヤは何度も、何時間も、休み休みに取り組んだ。

 少しでも大きく開く角度を探し、丹念に。


 ときたま見える外の風景が、萎えかけるルカヤの気力に火をともしてくれた。

 見えているかも知れない人が通り過ぎていくのは、いまはいい。

 久しぶりに浴びる、細い細い太陽が気持ちよくて、涙がこぼれた。それも色合いがオレンジに近くなるにつれ、緊張におののいていく。


 ドアが壊れて開け放たれたのは、そんなおりだった。


「! やっ……た!」


 一秒でも早く家を離れねばならなかった。放置されていた肩がけ鞄に、持てる荷物を突っ込む。

 携帯電話は目の前で踏みつけられた。財布は使わないうちにどこかへ消えた。


 変にプライドの高い兄なので、盗まれてはいまい。されど探す時間が惜しい。

 ルカヤはリビングに戻り、テレビの下敷きになっているローボードを開く。


 ローボードのなかの天井に手を這わす。人差し指の腹にチクッとカドが触れた。

引き剥がす。それなりの厚さのある封筒が手に入った。

 ヘソクリだ。カウンセリングの経験から学び、こっそり、いざというときのために蓄えておいたのである。


「身分を証明できるものは――」


 引き出しをあさろうとして首を横に振る。

 もう二度とないかもしれないチャンスだ。保険証の類いは後で役所かなにかで申請しなおそう。

 真っ赤に染まった空のしたを歩き出す。走れないのにこれほど困った時はなかった。


(なにはともあれ、遠くへ。警察にはいかない。カトリックの国で近親相姦なんで、兄さんがどんな目に遭うか。兄さんの手が届かない場所にいければいい。そうすれば時間をかけて、兄さんももとの兄さんに戻ってくれるはず)


 あの兄だ。一時は傷心しても、周りが放っておかないはずだ。

 なによりしたたかな人である。いずれ本当につれそうべき人が兄を救う。

 ルカヤがいなくなれば、自然と他の人間との繋がりに集中する。時間をかけて、ルカヤもエヴァンも、正しい関係性のなかにかえっていくと願う。


(でもどうやって、どこへ? わからない……)


 ルカヤはあてもなく歩いていた。行き先に思考をはせた時、無意識に駅に向かっているのに気がついた。

 引っ越してからずっと同じ道ばかり歩いていたから、習慣づいていたのだ。


 駅は兄も利用する。


 ルカヤの職場がカピリジナにある影響で、兄も近辺のレストランに勤務している。カピリジナのなかでルカヤと合流した後、家に帰っていた。

 ルカヤは思った。いま駅に乗ったら、兄と鉢合わせするのではないか?


 沈みかけの太陽は夕方の証だ。地面から立ち上るほのかな熱気。季節は冬を越えた頃だろうか。

 春、あるいは盛りに至る前か後の夏?

 ならば日没は遅い。もう兄の帰宅時間でもおかしくなかった。うつむいてきびすを返す。


(貯金はそれなりにある。タクシーを拾えれば、いくらか先の町までは……。そうだ、ガエタノ先生を頼ろう。あの人なら助けてくれるかも)


 封筒の厚みを心のよりどころに、あたりを探し回る。だがうまくいかない。

 なかには正規ではない、モグリのタクシーもある。そういう場合、ぼったくられる危険がある。女ひとりとなれば尚更危険だ。


 暴力で身ぐるみ剥がれて、捨てられるかもしれない。兄に散々警告された。

 ルカヤの不運のせいか、まともなタクシーが見つからない。なんとか捕まえた車にも、女という理由で断られさえした。


(いっそ徒歩で行こうか? 走れないけれど、体力はあるし)


 困り果てていた時、後ろから声をかけられた。


「ルカヤちゃん」


 びくっと肩が跳ねた。咄嗟に飛び出さなかったのは、声の主が女性だったからだ。


「ルカヤちゃん、大丈夫?」


 女性はもう一度問いかけてきた。振り返れば美しい赤毛が目に入る。ふんわりした髪が夕日のなかで踊っていた。

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