おいすがる過去(2)

「ただいま」


 飛び起きる。すっかり低くなり、男性らしくなった声と胸部が眼前にあった。


「汗まみれだぜ。悪い夢でもみたのか?」

「あ、あ……」


 眉を下げて、エヴァンはルカヤの顔色を確かめた。ルカヤのみが知る表情。昔と変わらぬ優しい顔。


「わたしのせい、わたしのせいなの」

「ルカヤ?」

「お母さんの言うとおり。生まれなきゃよかった! わたしが生まれなければ兄さんは家族と仲が悪くならなかった、こうはならなかった……」


 髪をつかんで振り乱す。そんなルカヤを食い入るように見つめ、エヴァンはみるみる眉間に深い皺を刻む。


「ちっ、やはりとっととあのクソどもから引き離しておくべきだったぜ。大学に入ってから繋がりをきるんじゃ遅かった。家出でもなんでもしときゃあ」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 体を揺らしてひたすら誰ともなく謝るルカヤを、エヴァンは強く抱きしめる。

 骨が軋む。遠慮のない抱擁に、体内の空気が押し出され、ルカヤの喉がキュウと鳴く。


「そんなこというなよ。もう過去には戻れねえんだ、これからを考えようぜ」

「ごめんなさい、ごめんなさい……わたしじゃない誰かを愛して下さい、お願いします……」

「オレだって祈ったぜ。可愛い妹にイイ男が、オレにはイイ女が出来ますように、ってよ。で、結果がコレだ。テメーの男運は最悪で。オレぁ満足できなかった」


 ルカヤを抱いて、ゆりかごのようにエヴァンも揺れる。唇の先が耳たぶをかすめた。ルカヤの肌がぞわわと粟立つ。

 兄との体温の交換に感じるものは、おぞけ以外もできてきている。ルカヤに対し、エヴァンはそういうふうに隅々まで丹念に愛したのだ。


「わかるか? 俺の息がこんなにも熱く、血が煮えたぎっている。少年みてえに心臓が跳ね回って息苦しいぐらいだ。なぁ、おい。もうこれでしか幸せになれない」

「うう、う、やだ、やだぁ……壊れる……こんなのが幸せだって、思っちゃいけないのに……」

「いいんだって、それで。な? ぜんぶ兄ィの言うとおりだったろ、今からでも遅くないから、俺を信じろ」


 涙で衣服が濡れる。ぼたぼた垂れる塩辛い涙を、エヴァンは美味しそうに唇で拭った。


「ルカヤ。お前が折れて、俺を愛してくれたなら、いずれ外にも連れて行ってやる」


 傾きかけのルカヤに、エヴァンは更に甘言を重ねる。

 窓も時計もない部屋で、兄だけが動いている。彼がルカヤの世界の中心であるかのように。


「神に誓って、国の認めた夫婦になれずとも、俺の愛は永遠にお前のものだ。住みたいところがあれば引っ越そう。海が見える家もいい」


 ルカヤは黙る。黙ろうとする。昂ぶった感情に「ふーっ、ふーっ」と獣のような呼吸になった。


「わ、わたしたち、兄妹、なのに」

「そこで俺達と俺達の子どもと一緒に過ごそう。老人になったらゆっくり潮風にあたりながら、ピクニックにでも出かけて、パンをかじって風にあたるんだ。幸せな未来だろ」


 理想的な未来のビジョンだ。エヴァンも夢見るようにうっとりと言い聞かせてくる。

 ひとかけらの倫理観がルカヤをつなぎ止めている。なにもかも奪われていくこの部屋で、あと何度『幸せ』にさせられたら、最後のかけらも手放すのか。

 示された救いはどしがたい。ケダモノめいた浅い息のなか、かろうじてルカヤはエヴァンを拒絶した。


「そうなったら、わたし、ひとでなしになる」


 ちからなく押し返す手に、エヴァンは苦笑した。


「あとちょっとなのになあ。いいぜ。とりあえず先に済ませたいことがある」


 身構えるルカヤに兄は小さな箱を取り出した。シックなネイビーの箱には鮮やかなピンクのリボンがかけられている。


「約束通りお土産を持ってきたぜ。今はまだ秘密だが、それだけじゃあない。これからお前にはたくさんのプレゼントが待ってるんだ。そっちはまだ秘密だが」


 ルカヤの目の前に箱を差し出し、恭しい動作で箱を開く。ぱかりとあいた小箱のなかにはプラチナの指輪が収まっていた。

 ルカヤは生理的に暴れた。兄の腕のなかで必死にもがく。

 だが毎夜のことのように、エヴァンは容易くルカヤの身動きを抑える。


「いっ、いらないっ!」

「ダメだ」

「受け取れな――」


 しかし、先に半開きの口をエヴァンの唇で塞がれた。

 手足を振り乱そうとしても無駄だ。がむしゃらに体をハネさせてみても、エヴァンはろくに動じない。

 口蓋のすきまから舌が入り込む。ひやりと冷たい感覚が奥へ奥へとねじこまれた。

 傍若無人にふるまう肉は、あふれる唾液をからめとり、無理矢理飲込ませた。

 かたい金属が臓腑に滑り落ちる。違和感が通り過ぎたのを感じて、ルカヤはゆるゆると脱力した。


「ルカヤは恥ずかしがりやだからな。これでいい」


 指輪をのませたエヴァンは、紅潮した頬で微笑む。


「最高のアイデアだろ? 俺達が死んで、灰になって、皆はようやく知る。俺達がいったい誰のものだったのか。どれほど愛し合っていたかを」

「兄さん……」

「死が二人をわかつまで。いや、たとえ死んでも。地獄だってお前といれば天国だ。ずっとずっと一緒だからな」


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