おいすがる過去(1)

 兄が出かけている時間、ルカヤは否応なしに暇だった。できることは限られている。

 リビングまでは行き来できるので、カフェオレをいれたり、手持ち無沙汰ゆえに掃除にふけってみたり。


 携帯電話とノートパソコンは取り上げられていた。他の家具は手つかずだ。本棚もある。

 試しに、読み残した書籍、とっておいた古い教科書を読もうともした。しかし、ページをめくろうとすると、数枚めくったところで止まってしまう。暇を使い潰す手段を見つけ、安定してしまったら。環境に適応するまであっという間だ。


 果てには、兄の帰りを心待ちにし、兄の存在だけを望んで生きる生き物に成るのではないか?

 だから夢中になれる暇つぶしを見つけそうになると、ルカヤは目を閉じる。


 時計と窓のない部屋で、日付感覚は失われた。監禁から何日経って、どれほど睡眠に費やしたかわからないが。

 気が狂う前に、兄が正気に戻るのを願って、今日も彼女は眠りにつく。

 眠ったルカヤは夢を見た。


◇ ◆ ◇ ◆


 ルカヤは二段ベッドの下の段で、ぬいぐるみを抱いてまどろんでいた。

 寝ぼけまなこにうつるのは高い天井、大きな家具。


 目に映るもの全てに見覚えがある。今となっては懐かしい。生まれた頃から高校卒業までを過ごした生家である。

 太く短い指は子どものそれだ。きつく結んだおさげの毛先が首筋をくすぐる。


 夢特有のふんわりしたあたまで「幼少期の夢だ」と思う。

 ふかふか毛並み、ダークブラウンのテディベア。元は祖母からエヴァンへの贈物だ。

 それをエヴァンがルカヤに投げてよこした。

 祖母は激怒し、ルカヤから力尽くで取り上げてエヴァンに渡し直していたが、エヴァンもめげずに繰り返すので、今はルカヤのものになっている。

 ルカヤは、ぬいぐるみを抱え込んで足を折りたたみ、胎児のような体勢で寝ていた。


「おい、ルカヤ。起きろよ」


 愛らしいボーイソプラノ。声変わり前のエヴァンだ。彼がルカヤの布団をゆさゆさと揺さぶる。


「……おにいちゃん?」

「夕飯できたってよ。行こうぜ」


 兄に引っ張られ、ルカヤはベッドを抜け出した。

 リビングにつくと、祖母と父がテーブルにつき、母が食器を並べていた。ルカヤ以外、家族全員が揃っている。


――あれ。父さんも母さんもいる。十歳ぐらいの時かな。この頃はまだみんなで暮らしてた。


 小さな歩幅で、よいしょと椅子に座る。大人を想定した椅子で、脚が長く、ルカヤではよじ登る必要があった。

 遅れてやってきたルカヤに、祖母はこれ見よがしな溜息をついた。


「座って待ってりゃ料理が出てきて当たり前かい。偉そうに」


 はっとして座面から飛び降りようとする。食器は既にでてしまっていたが、母のエプロンが台所からチラチラ覗いていた。

 しかし、母に手伝えることがないか聞く前に、祖母からぴしゃりと叱咤が飛ぶ。


「言われてから動いてどうすんだい!」

「ご、ごめんなさい……」

「謝れば済むと思って。人を馬鹿にしてなめてるからだよ。子どもだからって調子にのって甘えてるせいで、普段から考えて人のために行動できないんだ。性根が腐っとる!」


 食卓の空気が一気に悪くなる。爆弾物が傍に置かれているように息が詰まる。

 口を出す間もなく、ルカヤがうつむいて祖母の怒りを受け止めていると、母がやってきた。


「すみません、お義母さん。この子も次からは気をつけるでしょうから、どうか」

「ふん。いつになったらまともな子になるんだか。これがいると食事がまずくなる! 今日はどっかにやっとくれ」


 母は細腕がルカヤの脇の下に差し込み、ルカヤを優しく降ろす。


「ルカヤ、ご飯をお盆にのせてあげるからちょっと待って。そうしたらお部屋でお夕飯を食べてちょうだい。ベッドにこぼさないようにだけ気をつけてね」

「じゃあオレも部屋で食べる」


 膝を曲げ、視線を合わせて言い聞かせる母の横に、兄が並ぶ。


「エヴァンはいいのよ!」

「なんで?」

「エヴァンは部屋で食べる理由がないでしょう」


 母はチラと祖母を盗みみた。言外に「あなたがいるのは問題ないのよ」と伝えたがっている。

 ここで素直にくちにだして、「なにがいいたいんだい」と癇癪を起こされるのを恐れていた。


「ルカヤだけひとりで食べることもねえじゃん。それでも親かよ。いいよ、自分でいくから」


 母の表情がひきつる。

 思っても言えないことを真正面からいったエヴァンは、かたまった母をおいて盆をとった。


 なお「そんなことしなくていいの」と止めようとする母。

 「お兄ちゃんだからって気にしなくていいのに」と猫撫で声でひきとめる祖母。

 傍観して飲み物を飲んでいる父。

 家族全員を振り切り、エヴァンはルカヤを連れて部屋に入ってしまった。


 運んだ食事は勉強机の上に置いた。おなかはすいているはずだ。

 なのに、胃の中へ食べ物の代わりに感情がたまってしまったみたいに、食欲がうせた。なかなか食事に手をつけられない。


 やっと荒れ狂う心の波が小さくなって、スープをくちに運ぶ頃には、少し冷めてしまっていた。

 兄はルカヤが食べ始めるまで、フォークを片手に待っていた。一緒に食べ始めて、先にエヴァンが食べ終わった。

 エヴァンは今度はルカヤが食べ終わるまで口をつぐみ、最後の一口を嚥下したのを見ると、小声で彼女を慰めた。


「あんなの気にしなくていいんだからな」

「……わたしがわるいの。おにいちゃんが来ることなかった」

「オレが嫌だったんだよ。あんなやつらと食べると、飯の味しねえし」


 そこで兄は数度、咳をこぼす。最近喉が痛いという。天使のような美声はがらついていた。声変わりが近いのだ。


「わたしのせいだよ。みんなそういうもの」

「本気で思ってるわけじゃねえだろ」

「……それはわたしが自分に甘いから。わたしは悪くないって言い訳を、妄想しちゃうの」


 からの器を遠ざけて、ルカヤはこめかみをぽりぽりとかく。

 この頃のルカヤはそういう癖があった。考えたくないことを考えそうになると、まつげや前髪を抜くのだ。


「やめろ。せっかくの綺麗な髪と長いまつげがもったいない」


 兄の色男の片鱗があらわれたのは早かった。エヴァンは優しくルカヤの手をとり、髪をむしろうとする手を外させる。

 そのとき、二人の部屋がノックされた。


「ルカヤ。いるわね?」

「聞かなくていい」


 エヴァンのまだ薄い胸板が頭頂部に触れる。兄はルカヤの両耳を塞ごうとしたが、掌も大きくなりきっておらず、人の声はよく通った。

 扉越しの母に届かない囁きはルカヤのみに届く。


「エヴァンもいる?」


 エヴァンは返事しない。


「ルカヤ?」

「……いる、よ」


 耳を塞ぐ手が震える。舌打ちのかわりだ。そうはいっても、ルカヤに呼ばれて無視する度胸はない。


「そう。でも、いいわ。あのねルカヤ、お願いだから、お母さんをあまり困らせないで」

「…………」

「しようがないのよ。おばあちゃんはいくらいっても聞いてくれるのはわかりきってるでしょ。食事の時間なんかせいぜい三十分ていど。それだけ我慢すればいいのよ」


 母の言うとおりであった。世の中には子を殴る親もいる。

 たかが三十分、家族の空間から省かれるぐらい、なんの害があろう。だというのに、ルカヤはいつも胸が張り裂けるような寂しさに襲われる。

 「わかった」と頷けなかった。

 兄は「聞くな」と警告を続ける。


「聞いてるのッ!?」


 母がドアを殴った。疲れ切り、爆発した金切り声でルカヤをなじる。


「親なのかっていうけど、親だって人間よ! 疲れるし、万能じゃない。あなたをいつだって守れって? 仕事やめて、ずっと傍にいろっていうの」

「そんなこと……」

「できないでしょ! そうよ。これって虐待よね、子どもから親への虐待よ! みんなみんなあたしに押しつけてばっかり! ねえルカヤ、あなたあたしの子どもよね。子どもぐらい、あたしの味方になってくれないの?」


 ルカヤは縮こまって、兄に抱きつく。

 母が追い詰められているのはわかる。

 あの祖母の言動を最も正面から浴び、愛想良く機嫌とりに勤しんでいるのは母だったから。ならばルカヤは誰に助けを求めればいい?

 閉じこもり、無言を貫く子どもたちに、母はやがて嘆きを込めて呟いた。


「二人目なんか産むんじゃあなかった」


 涙ぐんだ台詞を、ルカヤは本音としか思えなかった。

 髪を抜きたい。あるいは高いところから飛び降りたかった。

 できるなら、我が身を切り裂いてバラバラになってしまいたい。生きている恥ずかしさと申し訳なさにいっぱいいっぱいになる。

 たまらなく、自分が消えた世界を願ってしまう。


「なんてやつだ。あんなの全部嘘っぱちだぜ、気にするな」

――違う! お兄ちゃんは優しいから、わたしとちがってちゃんとした子だから、そんなことを言ってくれるだけ。


 エヴァンは声を押し殺して泣き崩れるルカヤを撫でる。

 泣き疲れて眠ってしまうまでそうしていた。


「大丈夫。誰もわからなくたって、オレはお前の価値がわかってる。お前だけがオレの家族だ。ずっと一緒にいる。オレにはルカヤが必要だ……」


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