ダルマの消失(4)

 ルカヤはただただぼうっと手首を眺めていた。

 握り返されない手に構わず、エヴァンは一方的な恋人繋ぎを保つ。彼が動くたび、合わさった指の股がこすれて痛かった。


「俺、生まれて初めてこの顔でよかったと思ったぜ。不細工よりイイ男のほうがいいだろ。きっとお前のために綺麗な顔に生まれてきたんだな」


 ルカヤの意思は関係なかった。エヴァンの指は自分自身ですら触れない場所をはいまわり、暴いていく。爪がつきたてられて血がにじむようなことはない。優しく触れるそれは、ルカヤ本人の拒否を無視した暴力的な刺激だ。


 足が逃げるようにのびる。つま先の親指が曲がって、シーツをぐちゃぐちゃにかきみだす。

 体が動く。勝手に反応する。ルカヤの脳は顔筋に感情を浮かべる命令を出すのも忘れていた。

 代わりにぼろぼろ泣いている。じかに触れあう素肌の温度。幼少期、一緒にお風呂に入ったのとはわけが違う。気持ち悪くて、悲しかった。


「最高だ、俺のルカヤ。我慢していたのを後悔するぐらい幸せだぜ」

「ひぐ、う、」

「見た目が全然違っても俺たちやっぱり兄妹だな、中身からだのほうはそっくりだ。こんなに相性のいい女はいなかった」

「……たすけて……」


 聞いたこともない高い声がでた。ルカヤは更に泣く。

 見慣れた天井は残酷なほどいつも通りだ。ルカヤの寝食を見守ってきた白い天井が冷たくルカヤをみくだしている。


――罪深い。


 際限のない袋小路に立たされた気分だ。

 バス事故で病院に運び込まれた時以上に、行く先のビジョンが描けない。


「おねがい、たすけて」

「は……、誰に助けに来てもらうんだ?」


 獣じみて息を荒げているエヴァンがこめかみにキスをする。ルカヤは数度いいよどみ、ぐしゃりと泣き崩れる。


「たすけて、にいさん、たすけて」

「わかってる。当たり前だろ」

「にいさんはこんなことしない、かえして、おにいちゃんを返して。たすけて、たすけてよぉ、おにいちゃん……」

「……なあ。好きなのは俺だけか? お前のほうは本当に、俺のことをなんとも……」


 胸板を押し返そうとするルカヤを、エヴァンはずっと愛おしげに撫でていた。


「いいか。もうそんなくだらねえことは」


◇ ◆ ◇ ◆


 ルカヤは一糸まとわぬ肌のまま、兄に背を向けた。

 丸みを帯びたルカヤの肩に、ずっしりとした腕が「離さない」といわんばかりにかけられている。いわゆる腕枕だ。

 ほどいた黒髪を肩にかけ遊ぶ兄に、ルカヤはどう振る舞えばいいかわからなかった。


「兄さんはわたしにどうして欲しいの」


 日の陰りも月の光も差し込まない、閉じられた部屋は、人工的な明かりで照らされている。

 枯れた声に、先ほどまでの行為がまざまざと蘇り、ルカヤは毛布を引き上げて頭からかぶる。


「俺がどうして欲しいかって?」

「…………」

「ルカヤ。お前、結婚について考えたことはあるか?」

「けっこん」


 うつろにオウム返しする。

 考えたことがないといえばうそになる。


 両親は仲睦まじい夫婦だった。喧嘩しているところを見たことがない。ただそれは幼いころの話だ。何十年も時を重ねた夫婦というものを、ルカヤは知らない。

 そのせいか幸せな夫婦というのは、絵本のなかの理想像のようにふわふわとした存在だ。


 そのうえ、ルカヤをひとりの人間として認め、一途に愛してくれる人なんて。とても信じられなかった。

 涯を誓い添い遂げる伴侶。夢見てもあり得ない存在。それがルカヤのなかの結婚観だ。

 それを置いても血の繋がった兄は論外だ。いうまでもなく。


「ぜったいできないって、おもってる」


 それがルカヤの答えだ。


「いいや。お前を孤独にはしない。俺はお前を愛してる。離れ離れになることを考えるだけで暴れたくなるくらいに。俺たちは運命共同体だ。これまでそうだったように、これからも」

「兄妹として? もうめちゃくちゃだよ」

「安心しろ。すべて俺にゆだねろ。ルカヤ……俺は、お前が妻に欲しい。お前以外はあり得ない」


 狂っている、とルカヤは思った。

 攻撃的な感想を伝えられず、ルカヤは事実を――事実であるべきことを――伝える。

 長年積み上げられた時間が、どうしてもルカヤのなかの兄を完全な悪人に染め上げさせてくれなかった。


「無理。妹だもの」

「妹で妻になればいい。家族で、恋人で、いずれは母に。女が持ちうる立場、それによって得られる喜びを取り落とさせはしない。俺がどれだけお前を大切に思っているかは知っているだろ?」

「お願い。やめて。わたしにそんなことは思えない。兄さんのことは世界一大好きだけれど、家族としてだよ」

「無理でも出来るようになれ、ルカヤ。俺はそれしか許さない」

「……耐えられない……」


 毛布のした、エヴァンの腕がルカヤの腹に回る。

 芯の芯、心の底まで冷え込んだルカヤに、エヴァンの体温が無理矢理うつされる。


「気に病む必要はねえぞ。喜びも悲しみも全部俺にぶつけていい。俺にとってもいい話だ。憎しみでさえ赤の他人になんかやるもんか。そうだな、俺はお前を囲い込む世界になろう。お前が味わうものは全て俺が選ぶ。ザルにかけて、不純物ひとつ混ざらせねえ。お前に不要な不幸を全て取り除く。それが一番いいんだ」


 ルカヤの髪はほどくと長い。滅多に人に見せない豊かな黒髪が、夜闇を編んだカーテンのように広がっていた。

 エヴァンはルカヤの髪を一房すくって、額をうずめた。煌々と燐光を宿す月色が黒に重なる。


「だいたいよ。当然、お前はオレの可愛いおちびピッちゃんコラさ。でもなあ、ルカヤ。【ルカヤ】は【ルカヤ】だ。その【ルカヤ】のなかにたまたま妹って関係があっただけで、オメーは最初から女なんだぜ?」


 眩しい月はいとも容易く黒を食む。最初からルカヤはこの美しい獣から逃げようがなかったのだ。


「オレは『ルカヤ』を愛してる。永遠に、変わることなく。諦めろ、ルカヤ」

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