ダルマの消失(3)

 ルカヤは息苦しさで目を覚ました。

 喉が痛い。首の真ん中を通る気道が、左右から狭まり、顎の下からどんどん苦痛がせりあがってくる。


「けほっ、こほっ」


 まぶたを開けるなり、軽く咳き込む。首のまわりに手をあて、振り払うようにはたいた。

 兄の手がまだ押し当てられている気がする。


 目を開ける。先ほどまでの感覚は夢の延長戦だと気づく。兄に首を絞められる夢。ルカヤの首回りはすっかりスッキリとして、彼女の呼吸を阻むものは何もなかった。

 腕をさすって自らを落ち着かせる。

 防御本能に従って、体育座りで体を小さく折りたたみ、周囲をうかがう。


「……兄さん?」


 景色は見慣れたルカヤの自室だ。そこに兄の姿は見当たらない。

 ルカヤはひとまず胸を撫で下ろす。

 足を伸ばして、ベッドからおりる。


「もしかして悪い夢?」


 期待を込めて鏡台で首筋を確かめてみた。想像していたような手の形の痣はなかった。うっすら赤くなっているだけだ。

 赤いのは先ほどルカヤがかきむしったからと思えば、悪夢説が強化される気がした。


「わたし、いつの間に家に帰ってたんだろう。ガエタノ先生に黙って退勤してしまった……いや、あれは直帰でいいのかな。とにかく、今……何時なんだろ、家事をしないと……」


 そこで気づいた。


「……壁時計、なくなってる……」


 ベッド脇のチェストに置いておいた目覚まし時計もない。ならば日の傾きで時間を知ろうと、窓に手をかけた。

 いくら押しても、窓枠はガタガタ鳴るだけで開いてくれない。鍵はあいているのに。

 逃げようとしていたルカヤの予感が現実に引き戻されていく。


「嘘」


 呆然と立ち尽くす。安全を蝕まれる恐怖にたちすくむのが終わると、ルカヤは急いでドアに向かう。

 ドアノブに至っては元のものと姿が違う。真鍮でできたレトロなドアノブだ。ぼんやりとだが、見覚えがある気がする。


 触ってみると、予想に反して、ノブはあっさり回った。

 廊下に出る。ルカヤの部屋は家の中心で、生活に便利な位置にある。リビング、風呂場、トイレ。快適な生活を送るために必要な場所と隣接していた。


 ひとつひとつ確かめてみる。

 リビング、問題なし。風呂場もいつでも入れそうだ。トイレも特に変わった点はない。最後に、リビングを通って玄関に出るためのドアに手をかけた。

 ドアは数センチ動いて、そこで止まった。

 数センチの隙間を覗く。銀の光がきらりと光った。細かな金属がぶつかり合う。ドアチェーンだ。

 ルカヤが外に出ようとあがくと、新品のドアチェーンが冷徹にドアの開閉を制限する。


 ルカヤは自室に戻らざるを得なかった。

 近づける限り、すべてのドアに近づいてみた。どれも向こう側にしかけられた鎖によって阻まれた。


 見える限り時計もカレンダーも取り払われていた。気絶してから、実際にどれほどの時間が経っているのかもさだかでない。

 なすすべなく、ルカヤは兄の迎えを待つ。


 会いたくないのに、会う以外の選択肢を望めない状況。

 ベッドのすみに寄って震えるルカヤを見て、帰ってきた兄は甘い笑顔を浮かべた。


「ただいま、ルカヤ」

「兄さん。どういうことなの?」

「お前が『おかえり』を言ってくれなかったのは今日が初めてだな。新鮮な気分だぜ」


 エヴァンは床に荷物を置いた。ベッドに腰をかけ、ルカヤを見つめる。青い瞳は満足そうだった。


「寝ている間に終わらせてやるっていっただろ。お前が外に出て、勝手に危ない目に遭わないようにリフォームしといたぜ。昔取った杵柄ってヤツだな。高校の時にやったヤツ」

「わたしを閉じ込めるの? そこまでして守ることなんて……」

「説得力ねえぞ。バス事故に誘拐未遂。出会う男はろくでもねえ。ことごとく悪いほうに動く。よくわかった。じっと待つだの、不運を信じないだの、全部無意味なんだよ」


 エヴァンは長い足をのばす。くつろいでいた。

 ルカヤと対照的に、彼は完全な落ち着きのなかにあった。

 ルカヤは、この状況を望まないルカヤと正反対に、これこそが兄の求めているものなのだと悟る。


 起きる前の記憶が真実であることも。ルカヤが正常に生きるのを諦めるまで、エヴァンが諦めないことも。

 起きてからの行動を思い返してゾッとする。

 今こそ凪いだほがらかな顔をしているが、本来のエヴァンは気性が荒く、感情が激しい。

 ルカヤが逃げようとしたと知れば何をするだろう。


「なあルカヤ」


 エヴァンは愉しそうにルカヤを見守っている。


「お前、早速逃げようとしたな」


 兄はルカヤの数歩先をいっていた。


「な、なんで」


 ルカヤはわなわな唇を震わせる。


「リビングを通って出ようとしただろう。あのドアの上部分にセロハンテープを貼っておいた。お前が外に出ようとドアを開けば、テープが剥がれて一目瞭然ってワケだ」


 エヴァンはそういって指先につまんだセロハンテープを見せる。指紋で濁ったテープがひらひら踊った。

 エヴァンのバランスの整った笑顔が恐ろしい。一切の歪みがない笑み。


 あれほど望んだ兄の自由と幸福が、これなのか。

 ならばルカヤの運命はどうなる?

 ルカヤの両の目から大粒の涙があふれでる。


「や、やだ」

「恐いのか。その顔も初めてみるな。ババアにいじめられている時はちょっと悲しそうな顔するだけだったな。麻痺して受け入れててよ。いっつもイライラしてたぜ。今はいい気分だ。これからは俺だけが知っている顔が山ほど出来ていくのか。ああ、本当にいい気分だ……」

「ひ……ひどいことする?」

「どうして?」

「出ようとしたから……」


 エヴァンは小首をかしげ、ルカヤとの距離を詰めた。


「ほお。ひどいことをして欲しいのか?」

「なんで!? ちがう、」

「守ってやるって言ってるだろ。愛してるんだから。これでも優しくして、お前が俺に惚れるのを待つ案もあったんだぜ」

「待って……」

「お望みだったらそうしよう。どっちにしろ、遅いか早いかの違いか。慣らすなら早いほうがいい」


 エヴァンの白い手がのびる。血管の浮いた腕は昨晩と違って、力任せにルカヤをシーツに縫い付けた。


「何年耐えてきたと思ってる。俺も色々我慢の限界だ」


 昨晩の記憶が鮮やかに蘇る。ルカヤは必死で手足をばたつかせて暴れた。エヴァンはびくりともしない。子猫をからかう獅子のように余裕がある。

 角ばった指が鎖骨にひっかけられた。獲物をとらえた捕食者のたわむれだ。


「先は永い。早めにやって早く慣れるか。ゆっくり愛を深めるか。どっちが好みだ? 選ばせてやる」


 選択肢などない。結末は同じだ。

 ぬくぬくとベッドのぬくもりに包まれいきながら、ルカヤは首を左右に振る。


「黙ってちゃわかんねえよ。あまり兄ィを困らせるな。選べないなら俺が決めてやろうか」


 慮る口調と裏腹に、言葉は嗜虐的な快楽が抑えきれていない。

 エヴァンの指が鎖骨からシャツのあわせに移動する。


「じゃあ前者だ。これからはお前は俺の女だってことを、きっちり教え込んでやる。一生のはじめてから終わり、からだのひとかけらにいたるまで何もかも。俺だけがお前を知る。お前の全てが俺のものだ」

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