過保護と出会い(5)

 あと数回残っているかという勉強会。

 ボールペンを動かす速度も速くなった。ガエタノは相変わらず本を読んでいる。今日は娯楽小説のようだ。

 ルカヤのほうは日増しに、細い糸をナイフで削られているような心地になっているのに。彼は昨日と同じ顔をしている。


(ガエタノ先輩は寂しくないのかな。ないだろうな)


 ガエタノは社会的だ。ルカヤと違って友人も多かろう。時計は六時を刺している。今日も帰る時間が来てしまう。

 だからメールを確認した時、ルカヤの胸が高らかに跳ねてしまった。普段であれば不穏の知らせである、兄からの遅刻の連絡だった。


「あの、ガエタノ先輩」


 話しかければ、ひょいと顔をあげてくれた。

 瞳の色は揺れ一つない綺麗なモスグリーンだ。なんとも思われていないのはわかっている。

 ルカヤはいつになく勇気を振り絞った。てのひらに汗がにじむ。


「今日はちょっと兄が遅いみたいで……もう少しだけ教えてもらってもいいですか。迷惑でなければ、なんですけれど」

「ああ、そうなの? でも勉強会はやめておいたほうがいいな」

「そ、そうですか?」

「ああ。最近物騒だからさ。知ってる? 人が消える都市伝説。イタリア版ハーメルンの笛吹き男なんていわれてるけど。火のないところに煙は立たぬっていうし、実際、そういう系の事件が増えてるらしいぜ」


 あっさり断られ、落ち込みを隠しきれないルカヤに、ガエタノはニィと笑いかけた。


「だから今日は俺が送ってく」

「……えっ!?」

「前に送るって約束しただろ。このままだと果たせそうにねえからさ」


 そういうことになった。

 荷物があるというので、あらためて、学校の玄関で待ち合わせる。

 やってきた先輩はリュックサックを背負ってやってきた。赤いシャツとは若干合わない。


 リュックには動物のキーホルダーがついていて、それがまたずいぶん可愛らしい雰囲気だったのもある。

 ひとつではない。幾つもである。特に、大きな黄色い目をした黒猫のキーホルダーに目をひかれた。


 ルカヤはまじまじと図太い表情をした猫を観察する。やたら頭部が強調されたバランスの悪い猫だ。不格好なのが逆にひょうきんで可愛らしい。どこの店のだろう。

 ルカヤの注目に気付くと、ガエタノは珍しく照れて、頬をかいた。


「好きなんだよ、動物」

「知りませんでした」

「そういや言ってなかったっけ。可愛いよな。簡単に抱き込めるぐらい小さくて、よく動いてさ。で、ちょっとみないうちにあっという間に虫や鳥を捕まえてきたり、警戒心を覚えたり……見てて飽きねえっつか」


 知らない一面に、ルカヤのくちもとが緩む。オトナな人だと思っていたが、子どもっぽいところもあるのだ。


「帰る途中で店があったら教えてやるよ。ほら、行こうぜ」

「えっと……あの。うち、兄がわりと過保護っていうか、なんていうか」

「大丈夫だって。俺、変なことするつもりねえもん」


 ギリギリまで逡巡するルカヤを、ガエタノが引っ張る。

 そうされると「あ、そっちじゃないんです」と、自然と案内が始まる。

 ガエタノの、こういった心地のいい強引さが好きだ。今日を逃したら、もう二度とこんな機会はないかもしれない。

 ルカヤは震える指で、兄にメールを送信する。


「じゃ、じゃあ。兄の勤めるトラットリアまでお願いしていいですか」


 ガエタノは二つ返事で頷いた。兄がいたら頑なにノーと言われるところだ。帰り方も兄と違う。兄はゆっくり雑談して帰る。そのぶん寄り道はしない。

 ガエタノは面白そうなものがあれば立ち止まった。


 ジェラートジェラテ専門店リアで好きなアイスをひとつ奢ってくれた。

 兄は夕飯前の間食を嫌がる。歩き食いまでしていいといってくれた。罪悪感に包まれたが、買い食いしたピスタチオのジェラートはたまらなく美味しく感じた。


 怪我をして以来、エヴァンはルカヤの一人歩きを絶対に許さない。

 どこにいくにも一緒で、黙って離れると説教される。自然と出かける頻度は下がり、すっかりインドア派になっていた。

 この町に住み始めて一年を過ぎるというのに、どこにジェラテリアがあるのか、知りもしなかった。


 ルカヤは浮かれていた。

 だから店に着く前にガエタノに声をかけ、別れてもらうのを失念していた。気づいたときには、隣にガエタノを連れて、トラットリアの前にいた。


「よォ。随分な色男を連れてんな」


 低い声に、ふわふわしていた脳が冷や水をぶっかけられたように冷える。

 レストランの前。仕事を終えた兄が、人を殺しそうな目でガエタノを睨んでいた。


「ふうん。この人がお兄さんなんだ」


 唇をニヒルにつりあげ、目が全く笑っていないエヴァンは、ぞっとするような迫力がある。だというのに、ガエタノは口笛でも吹きそうな軽い調子で応じた。


「先輩に送ってもらう、ってメールはあったけどよ。男だとは聞いてねえぞ」

「女性より安心じゃあないか。ここらへんってマフィアの管轄内だろ。盾はかたいほうがいい」

「違いねえ」


 エヴァンはツカツカと歩み寄ってくる。

 見ているだけで苛立ちが伝わった。怯えて一歩下がったルカヤを、エヴァンは無理矢理引き寄せる。


「送ってくれてありがとうよ。ここからは俺達だけで帰れるから、テメーも帰りな」

「…………」


 兄の言い方は親切なようで刺々しい。ルカヤはヒヤヒヤと二人の顔を見比べた。

 ジーノの時と違って、急に激昂する様子はない。それは安心したが、ガエタノを怪しんでいるのは明白だった。


 眉間にしわを寄せ、睨むエヴァンを、ガエタノは黙って見つめる。

 ねっとり値踏みをするような目だ。これもまた、ルカヤの見たことのない目つきだった。

 無遠慮な視線がますますエヴァンの気に障る。


「文句あるのか?」

「いや。全然」


 ガンを飛ばされたガエタノは、ひょいと肩をすくめる。


「オマエさんがいるなら大丈夫そうだ。そういうことならよかったよ。ほら、お行き、お嬢さん」


 ニィと笑って、ガエタノはルカヤの肩をぽんぽんと叩いた。見上げた顔をみて、ルカヤは首を傾げた。

 威圧的な兄との初遭遇。

 さぞ気分を害しただろうとうかがった顔色は、逆に、楽しそうにニヤついていた。

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