過保護と出会い(4)
ルカヤは大学近くのカフェで時間を潰した。
ノートや本を見比べているうち、店内にいたらしき女性の黄色い声が耳に届く。メールはなかったが、すぐにわかった。兄の到着だ。
喫茶店の出入り口をみる。
エヴァンは腕に上着をかけ、見下ろすような視線で店内を一瞥した。しゅっとした立ち姿は映画のワンシーンのようだ。
エヴァンは店員とふたことみこと言葉を交わすと、真っ直ぐにルカヤのほうへ歩いてくる。
「よぉ。窓越しにうんと可愛い
「ああ、うん。兄さんもお仕事お疲れ様」
甘い台詞に店内の視線が一気に突き刺さる。
兄は立ったまま、机に置かれた伝票を手にとった。ルカヤももうカフェラテを飲み終えていたので、未練なく席を立つ。
伝票を取り返そうとしたが、ひょいと手を高くあげられ、かなわなかった。
「待たせて悪かったな。急な予定が入ってよ」
「たったの一時間だよ。ゆっくり休めたし、気にしなくっていいのよ」
会計は兄が支払った。店を出て、二人で並んで歩く。
杖をもったルカヤの歩く速さは遅いほうなのに、歩数はぴったり合っていた。
「今日は大学、疲れたのか?」
道すがらエヴァンが話題をふってくる。
「うん。勉強会してるんだ。先輩ができたの。勉強教えてくれるって」
「ほぉ、よかったな。いつから。どんな奴だ?」
「一ヶ月くらい前。いい人だよ。ちょっと意地悪……かな。よくからかってくるんだ。でも教え方がわかりやすいの。成績、あがるかも」
「そうか。実技以外じゃ悩んでたからな。お前が嬉しいんなら、悪かねえ」
含みのある言い方に、ルカヤは口をつぐむ。
今まで何度かガエタノについて言おうとした日はあった。そのたび、脳裏に血を流すジーノが浮かぶ。男性であるという事実がどうしても言えない。
(実際、お付き合いしているわけではないのだもの。ただの先輩と後輩。わざわざ性別をいう必要なんてないよね)
言い訳をして、今度はルカヤから話しかける。
「兄さんは?」
「いつも通り仕事だぜ。パスタ茹でて仔牛を包み焼きして、つまるとこメシつくってシフト終わって店を出る」
「今日はちょっと遅かったね。デートしてきたの?」
エヴァンの目が右上のほうを泳ぐ。考えごとをしている時の癖だ。
「そんなところだ」
「今はどんな人なの?」
「前に教えた女と変わってねえよ」
ぶっきらぼうな言い方に記憶を掘り返す。前に現在の女性について話したのは、大学に入って一ヶ月前後の時だった。
ん? と思い、当時から現在までの月数を指折り数えてみた。何度やっても三本より多い。
「えっ、兄さん、まだあの人と続いてるの!?」
兄の片眉がくいっとつりあがった。
「なんだ、嫉妬か?」
「そんなわけないよ。嬉しいの。遂に兄さんにも本気の恋人が……!」
がらにもなく声がうわずる。
エヴァンは両手をあわせて興奮するルカヤに、はあと溜息をついた。ルカヤがとりおとした杖をひょいと持ち上げる。
「名前なんだっけ。将来お義姉さんになるかもしれないし、しっかり覚えておかなきゃ」
「気が早いぜ、ったく。名前はアリーゼ」
「アリーゼさんね、ふふ。忘れないようにする」
「……別に覚える必要なんざねえよ」
「え?」
かたまるルカヤに、エヴァンは短く舌を打つ。
かつてしょっちゅうあった鋭い舌打ちは、祖母と別れてから、滅多にしなくなった。
何故兄が苛立っているのか理解できず、ルカヤはおろつく。
「あー、クソ」
兄はガシガシと前髪をかき、大きく呼吸する。次に放たれた言葉は、だいぶ険がとれていた。
「いいか? 覚える必要はないって言ってるんだぜ。気にしなくっていいのによ、ってやつだ」
口癖を混ぜて言い聞かせられる。
当然、ルカヤには疑問が残った。全く解答になっていないではないか。
だが兄の強情さは知っていたので、渋々諦めた。
「とにかくだ。必要があれば、そんときゃ教えてやる」
「うん……」
「今日は飯のことでも考えてろ。冷蔵庫にトマト缶とツナと生クリームあったから、それでパスタにすんぞ。好きだろ?」
「……うん。好き」
夕食の献立を話す兄は、いつもの豪快で優しい兄だった。
そのあとは不和を起こさず帰宅した。兄は風呂に入ってからキッチンへ、ルカヤは洗濯物を洗濯機に投げ込む。
毛糸の製品をまわさないため、洗濯物をひとつひとつ確かめる。
兄は帰ってくるなり、手早く入浴した。汗が気持ち悪い、といって。今夜、兄が着ていたはずのシャツも既に入っている。
白い一枚をつまみあげ、皺を伸ばす。しみひとつない綺麗なシャツをみて、ルカヤはぽつりとこぼした。
「これ、おろしたての新品みたい」
かつては兄に考えるなといわれれば、ルカヤはその通りにしていた。
最初はそれきりで、透明に兄を信じ切っていた思考も、いまや疑惑の濁りが落ちつつある。
シャツに鼻をうずめ、深く息を吸い込んでみる。
完全なる無臭。
ルカヤも物心ついてからずっと家事をしてきた身だ。【なんだか変な洗濯物】はわかる。
南に引っ越してから何度か遭遇した、真新しいシャツ。それは決まって、待ち合わせが遅くなる日に紛れ込むのだ。
(考えたくないけれど。これ、帰ってくる前に買ってきて、わたしに会う直前に着替えたの?)
なんのために。レストラン勤務だというのに、ダークスーツを何着か揃えているのにも、理由があるのだろうか。
(今度迎えが遅くなる時、匂いをかいでみようかな。それともやめておこうかな。変な匂いが……そう、たとえば、煙や錆びの匂いがしないか、とか)
知っておきたい。しかし知りたくない。
兄を好きなままでいたかった。エヴァンに問うてみるべきか。ルカヤは決断できずにいる。
忙しい月日はあっという間に過ぎる。ガエタノに出会い、一年目が近づいていた。
そして、別れの季節も。
ルカヤの学生生活二年目は、ガエタノの卒業年でもあった。
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