過保護と出会い(3)

 大学は使われていない教室が多い。正確には「その時使われていない教室」が常に発生している。

 大学にあるのは、高校生の時分に想像したような、生徒が何百人も並ぶ大教室ばかりではない。


 カラオケボックス程度の小さな教室もある。そういった教室は受講者の少ない授業で使われる。

 そして使われている時以外は、静かな空き部屋になる。椅子と机、ホワイトボードしかない小教室は、鍵もかけられなかった。実質、生徒が自由に使えるスペースだ。


 ルカヤは、念入りに時間割を調べたうえで、小教室で先輩と待ち合わせた。

 夕方になるにつれ、空き教室は増える。

 先輩との勉強会は週に二度。今日はその一日だ。


 他に誰もいない一室で、ルカヤは先輩と向き合って座っていた。

 ルカヤは先輩に提示された問題をノートに書き取り、解きほぐそうと試みていた。


(あたま痛くなりそう。甘いものが欲しい)


 左手で目頭を押さえ、右手でノートにボールペンを走らす。

 ボールペンを使うのは先輩の提案だった。消しゴムで消せると、どこをどう間違えたかわからなくなるという理由だ。

 問題とにらみあうすきまに、わずかに視線のみをあげて先輩を見上げる。


 モスグリーンの瞳の先輩。彼は名をガエタノ・ゲッツィと名乗った。

 ガエタノは椅子に背を預け、本を読んでいる。

 使用言語は母語だが、表紙は分厚い。絵のないざらりとした表紙には、タイトルが輝かしい金色で箔押しされている。

 めくられてチラとみえたページは、アリの行列のような字でびっしりだった。


「問題、とけたのか?」


 唐突にガエタノが顔をあげる。

 気づかれていたのだ。ルカヤの手からボールペンが滑り落ちる。ガエタノはなんでもないふうにボールペンを拾い上げた。

 かたまっているルカヤに、ニィと笑って黒インクのペンを手渡す。彼は笑うと目がきゅっと三日月の形になる。


「あっ、すみません! まだです」

「ヒントが欲しいか。チャンスは三回までだぜ、もう一回使うか?」

「だ、大丈夫です。頑張ります」

「ならばよし。時間は……五時か。結構遅くなってきたかね。ほら、俺じゃなくてノートをごらん。脳細胞が働きたいって言ってんぞ」


 再びガエタノは本を開く。ルカヤもまたノートに目を落とす。

 エヴァンの仕事が終わるまであと一時間。いつも通りなら、迎えまで一時間三十分ある。兄から大学到着のメールが届くまでが勉強会のタイムリミットだ。



 ガエタノと出会って約一ヶ月。

 これがルカヤの新しい生活リズムである。一ヶ月ですっかりガエタノはルカヤの生活に組み込まれた。


 その間にあちらはルカヤの扱い方を心得たらしい。からかわれ、掌でうまく転がされている心地になる。

 ルカヤのほうはガエタノについてまだあまり知らない。人にたずねるのはニガテだ。だが、幾つかわかったこともある。


 まず、赤いシャツが好きなこと。

 鮮烈な紅色カーマインからシックな葡萄ボル酒色ドー、フェミニンな珊瑚色コーラルまで、多種多様ながら、とにかくシャツは赤系統だ。

 現に今日は陽気な朱色ヴァーミリオンである。

 赤は本来、自己主張の強いカラーだ。だが、ガエタノの場合は奇妙にまとまって見える。ガエタノの髪が冷えた炭のような色合いだからだろうか。


 次に、コーヒーにミルクは煎れない。エスプレッソにたっぷり砂糖をいれて飲む。ナポリ定番の飲み方だ。

 三つ目に、やはりガエタノは頭がよかった。乾いた土に水が吸い込むように、内容が頭に入ってくる。

 へたな教授よりずっとわかりやすい。ワンツーマンとなれば、尚更教え方も丁寧だ。時に厳しく、時に甘く。


 例えば、

「手ェとまってんぞ。このままじゃあ人を扱うなんて夢のまた夢だぜ」

と真面目な顔で脅しつけてくる。


 時間ギリギリにときおえられれば、

「よくやったなあ。たいしたもんだぜ、こいつができれば上々だな」

等いって、褒めてくれる。


 ルカヤは一生懸命学んだ。気分は目の前にニンジンをぶらさげられた馬だ。

 次の試験を受けたら、解剖の先生も喜んでくれるかもしれない。死ぬほど疲れる勉強会が、ルカヤは楽しかった。



 今日も今日とて、脳みそをぞうきんしぼりしてるんじゃないかというほど使い倒して、買える時間がやってくる。

 ガエタノがパン、と本を閉じた。

 すっかり暗い。教室の電気をつける。時計は六時五分を指していた。


「もうこんな時間か。まだ帰んなくっていいのか」


 いわれてメールをチェックする。兄からのメールが数分前の日付で入っていた。開いて文面を確認する。


「あ、今日は長引くから少し待っていろ、だそうです」

「お迎えすんのは変わらないのか。いつも熱心だねぇ。兄妹仲がよくて羨ましいな。俺ぁひとりっこだもんよ」

「ここまでしてもらうのも申し訳ないんですけれどね。兄には兄の人生がありますから」

「いやいや。治安悪いとこもあるからさ。甘えておけよ。女の子ひとりは危ねえって」


 ルカヤは曖昧にはにかむ。兄の自由時間がルカヤに割かれすぎるのは、本当に心苦しいのだ。

 兄だって若い盛りで、友人と思い出を作る権利も未来を広げる可能性もたっぷりあるのだから。

 こういう時ばかりは、足がよければと思う。


「お兄さんが来れなかったら、いつでも俺を呼びなよ。用がなきゃ送るからさ」

「えと。はい、ありがとうございます」


 またしてもぎこちなく笑う。ガエタノの申し出は有り難いが、できればしばらく先の話であってほしい。

 ルカヤはまだ、兄にガエタノについて言えていなかった。


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