悲愛へのカウンター(9)
エヴァンが事故について知ったのは、学校に着いたあとだった。
生徒達が校門前に集まり、さながらアリの大群のようにたかっていた。
中心で教師がしきりに叫ぶ内容を理解した時、さあ、と血の気がひいたのを覚えている。
バスの衝突、横転。死傷者多数。病院。
うち、いくつかは生徒側がはやしたてる憶測だったかもしれない。
とにかく、いくら見回せどルカヤが見つからない事実がエヴァンを焦らせた。
ルカヤは昔からどんくさい。どんくささの原因のほとんどが運のなさに由来していた。
兄から逃れるため、ルカヤはタイミング悪く、バス通学してしてしまったのではないか?
エヴァンの予想は的中した。数分とおかず、両親から連絡が入ったのである。
ルカヤはバックに保険証を持ちあるいていた。おかげで病院の人間がすぐさま保護者を発見できたのだ。
エヴァンはその場で身を翻す。事情を知らず、止めようとしてくる教師も振り払った。
さぼりと思われようがかまわない。ルカヤの無事をこの目で確かめたかった。
病院は人でごった返していた。白衣の人々が戦場のように大声を飛ばし合っている。なかにはマスコミらしき人物も見受けられた。
廊下を進む最中、椅子に座る男が目に入った。エヴァンの父親と同じくらいの年格好の男で、この世の終わりを見た顔で座り込んでいた。
エヴァンはガラにもなく身につけている衣服を握りしめる。
「すみません、ルカヤ・ドゥランテの身内です」
受付で身分証明に保険証を提示する。看護師が受話器を手に取ってボタンを押す。
次に人のよさそうな、メガネをかけた医者が現われた。
「お兄さんだね。ご両親も先ほど到着したよ」
「妹はどこに?」
単刀直入にきく。医者はエヴァンの手をとると、人の波の方へ導く。病室のある方だ。
「不幸中の幸いというべきか」
医者はこころなしか、安らいだふうな話し方だった。エヴァンの前に、子を喪った親と面したのかもしれない。
「かなりの大怪我はあった。だが命に別状はない。亡くなったかたもいるなかで、彼女は運がよかった」
はじめて乗ったバスで事故にあって、どこが幸運だ。
わきあがる怒りを堪える。死者を目の当たりにした医者に、生存者に気を緩めるなというのはあまりに酷だ。
ルカヤの運の悪さも医者にとってはあずかりしらぬ。なにより余計な諍いを起こせば、病室に連れて行くのを渋られる。
病室周りは人払いがされているのか、待合と比べれば森の如く静かだ。
なかにはいると、医者の言ったとおり両親がベッドサイドに立っていた。
はっきり言って顔も見たくない。
だが一応はルカヤを心配してきたのかと思うと、わずかに溜飲が下がる。軽く会釈をして、ベッドを覗き込む。
生きている。
透き通った瑠璃色の瞳をゆっくりとまたたかせ、自分を囲む家族を眺めていた。
体はシーツの下に隠れて見えないが、露出した顔面にはあちこちガーゼが貼られている。
事故の痛ましさがありありと感じられた。
「ルカヤ、大丈夫か?」
「兄さん……うん。私は平気。ごめんね、びっくりさせて」
エヴァンのささやきに、ルカヤは眠たそうに答えた。とろんとした目で、赤子のようにウトウト枕に頬をすりよせる。
「先生。うちの妹、やけにぼうっとしていませんか」
無傷を信じていたわけではないが、祈ってはいた。
下から睨めあげて問う。彼を責める気はなかった。どうしようもなく嫌な予感に胸がざわつく。
医者はたじろいで、慎重に言葉を選ぼうとした。
「繰り返すが命に別状はない。あの大事故だ。発見時、彼女は足を怪我してかなり出血していた。痛みも強い。麻酔を使っている」
「……足? おい先生、今よォ足っていったのか。ルカヤの足がどうしたって!?」
一瞬にして頭に血がのぼる。反射的に医者の胸ぐらを掴み上げていた。
「やめなさいエヴァン!」
父親が叱咤する。こんな時ばかり父親ヅラをする男が。
「うるせェ、娘のぶんまで怒るのはアンタの役目だろうが! 妹が大変な時に案じねェ兄貴がどこにいる!」
言い返すエヴァンも、これが八つ当たりだとは承知している。医者を脅しても妹の怪我には関係ない。
なお衝動的に行動するほど、激しい動揺が起きていた。
「いや! 安心しなさい。優先すべき患者のあとで、彼女も足をボルトで固定する手術をする」
「手術をしたら、ルカヤの足は元通りになる……んですか」
「ああ」
はっきり肯定してみせる医者に、エヴァンは胸をなでおろしかけた。
次の説明が更なる絶望を招くと知らずに。医者はネクタイを直して、続けて言った。
「歩く分には支障はない。無事日常生活に戻れる。走ることはできなくなるが」
エヴァンは言葉を失った。
走る。それがルカヤにとって大きな意味をもつか、知っていた。
ルカヤの平均記録、20キロメートルを1時間28分。
男子高校生の平均記録が1時間40分前後であるのを考えると、じゅうぶんすぎる速度だろう。
その足を永劫に失う。彼女が得られたはずの栄光と幸福がどれだけ損なわれるか。
「あんまりだ」
握りしめた拳に爪が食い込む。
「コイツは本当に走るのが好きで。オレぁスポーツには詳しかねぇが、きっと才能だってある。それすら奪われる? 冗談じゃあねえぞ」
行き場のない感情をもらすエヴァンに、またしても父が口を挟む。
「やめなさい。お医者様だって一生懸命やってくださってるんだ。走れなくなったぐらいで死ぬわけじゃあない。お前達は若い、まだまだ未来がある。いくらでも他がある」
うるさいとしか思えなかった。
どのくちで、といってやろうとした。この場で殴ってもよいと思った。
すました横顔をくずしてやろうと握りしめた拳に、冷たい手が触れる。乾燥でささくれた、しかし女性らしく柔らかい指。妹だ。
「兄さん。私はいいの」
「ルカヤ!? お前……」
「いいよ。走るのは好きだったけれど。私が走れなくなっても誰も困らないもの。だから気にしなくっていいよ」
指先を握り、優しく微笑む。エヴァンにガツンと頭を殴られたような衝撃が走った。
衝撃の正体は、信じられないことに、不快感だった。
耳障りな気遣いだ。おぞましい台詞だ。「誰も困らない」? そんなことを言わせるのは、一体だれでなんなのだ。
(ルカヤ。こんな時まで他人のことか?)
自分の宝を、輝かしい可能性の翼を奪われようという時に!
エヴァンは幼少の頃、不当にルカヤを貶めて以来、二度と彼女を嫌うまいと思っていた。
しかし、初めて妹を憎いと思う。
エヴァンはもう家族に見切りをつけている。
なのにどの家族より踏みつけられているはずのルカヤは、家族を許し、愛し、みずからを責めている。
その優しさにはらわたが煮えくりかえる。ルカヤは憤怒するべきなのだ。
我が子が傷ついて嘆かぬ両親にも。理由もなくルカヤを否定する祖母にも。
ルカヤをここまで卑屈にした祖母に至っては、あれは八つ当たりだ。
庭の花をみれば一目瞭然のことである。
見栄から表面はとりつくろうが、花を選ぶセンスも、よい庭にしようと学ぶ努力も、工夫するアイデアを思いつく教養もない。
日がな一日テレビにはりつき、人生を浪費している。
無為に削っていく人生の不満を、思い通りに生まれてこなかったルカヤへの不満にかぶせて、ストレス発散しているのだ。
彼女が信じ込んでいるのと違う。ルカヤは価値のない人間だなんて、真っ赤な嘘っぱちなのだ。
(オレのカウンセリングだと? 命の危機にあった日に、そんなふうに考えるお前のほうがよほど病んでいる。お前のほうが強いだなんて思っていたオレが間違いだった、オレは馬鹿野郎だ)
エヴァンはひとめもはばからず天を仰いだ。
どうしようもなかった。ルカヤ本人が諦めていて、両親もあがく気がない。エヴァンは未成年で、ルカヤを無理矢理救う手立てもなかった。
ルカヤは駆けることを失う。止められないのだ。
今は。
手術の準備のため、両親と医者が出て行った。そのすきに、エヴァンはルカヤの耳元に唇を寄せた。
「ルカヤ。オレは決めたぞ」
「なあに?」
ルカヤは先ほどより眠たそうだ。瞼はほとんど完全に閉じている。
「今はお前を助けられない。子どもだからな。だから大人になったら、自由になろう」
「自由?」
「お前はもうすぐ中学卒業だ。俺は高校終わるまであと二年かかる。だが俺ぁ大学にはいかねぇ」
「え……」
身を起こそうとするルカヤを、できるかぎり弱いちからで押し戻す。
ルカヤは抵抗できずベッドに沈んだ。ぞっとするほど弱い。妹が簡単に壊れる生き物なのだと今更実感する。
真新しい傷とちからない身体は、ますますエヴァンの決意を固めさせる。
「卒業したらすぐ就職する。そうしたら二人で別の街に引っ越そう」
「兄さんの人生を犠牲になんて出来ない」
「犠牲なんか払うもんかよ。安心しろ。最初はひもじいかもしれねえが、あてがある。そうだな、いくのは南がいい。お前が生まれる前に親父がナポリに連れて行ってくれた。いい土地だ……食い物はうまいし、空気があう。ここよりも、きっとな」
うろ覚えの記憶だ。だが南に行きたかった。
ここよりあたたかい土地ならどこでもいい。
寒くない家で、彼女を大事に守るのだ。可哀想なルカヤのために。そして彼女がいなければ帰る場所のないエヴァン自身のために。
ルカヤは睡魔に今にも負けそうだ。必死に目を開けようとして、うまくいっていない。
「……ヴェネチアからはもっと遠くなるのね」
ぽつりとこぼした都市の名の意味は、エヴァンにはわからなかった。
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