黒御簾の転落(1)

 ルカヤが退院したのは、他の同級生が高校生になって数週間、あとだった。

 医者の見立てに間違いはなかった。走れないが、歩く分には今まで通りだ。

 出てみると、長い入院生活だったと思う。入院中、兄が毎日見舞いにきてくれたので寂しくなかった。


 中学卒業をすると、エヴァンはルカヤに二つの贈物をくれた。

 ひとつは杖だ。普通に歩けると説明を受けたのに、咄嗟にどんな不具合が出るからわからないからと持たされたのだ。


 黒に近い木製の杖で、持ち手の部分に青いリボンが結んであった。

 プレゼントのアクセサリーのつもりでつけてくれたのだろう。気に入ったのでそのままにしてある。

 もうひとつは部屋だ。エヴァンとルカヤの自室はドアノブがなくなってしまった。内鍵も使い物にならない。ルカヤはそれならそれでいい。エヴァンは違う。


「いつでもババアが入れるなんて冗談じゃあねえよなぁ。え? ルカヤ、お前もそう思うだろ?」


 反論を許さぬ言い方に、ルカヤは案の定否定できなかった。

 あの三つのドアノブのどれかがつけられてしまうのかと思いきや、エヴァンはなんと、部屋ごと変えると言い出した。


「親父とお袋の部屋を模様替えしたんだ。これが案外面白えな。ホームセンターで色々買い込んじまった」


 いつもビシッとしたスマートな服装を好む兄がホームセンターにいる光景は、想像もつかない。


「お父さんとお母さんが寝るところがなくなっちゃうよ。困ると思う」

「困るもんかよ。どうせそうそう帰らねえんだ。帰ってきてもあいつらが二段ベッドで寝ればいい。あいつらならいつババアが来ても平気だろ」


 うそぶく兄の横顔は氷でかたどった彫像のように冷淡だった。

 帰ってくると両親の部屋はすっかり綺麗になっていた。

 入院前はベッドも本棚もうっすらかび臭くて、埃がつもっていたはずだ。

 古かった家具の幾つかが消え、かわりに明るい色調の家具が据えられていた。ダブルサイズのベッドはそのままに、シーツと毛布は完全に新調されている。


 記憶のなかの兄は洗濯物を畳むのが下手だ。よく床に衣服を脱ぎ落として、ルカヤが拾い上げたものだ。

 几帳面なほうではないはずのエヴァンの意外な才能に驚いたのを覚えている。


「ドアノブはいいの?」

「ああ。細かくこだわるのはいい。お前が高校を卒業するまで、不快にならない程度に暮らせれば。そういうのは、いつか二人で住む家で使う」


 エヴァンのなかで引っ越しは決定事項のようだ。

 見知らぬ遠い土地に連れて行かれるのは、数年後の予定とはいえ、身がすくむ。

 しかし、エヴァンにここまでさせてしまう原因は、ルカヤにあった。ルカヤがうかつな妹だから。


 だからルカヤは逆らわず、エヴァンの望みを叶えることにした。

 そういうわけで、高校生になったルカヤは兄と寝起きしている。

 眠る位置は上下から、隣同士へ。手足を思う存分のばして眠れるのはいい。


 毎朝、目を開けると妖精エルフのように非現実じみて美しい顔があって、おののく。

 兄はルカヤと違って落ち着き払っていた。

 薄い瞼を開き、深い瑠璃色の色彩をまどろませ、ゆるりと微笑んでくる。まるでずっと前からそうだったみたいだ。


「ん……はよ」

「うん。おはよう、兄さん」


 退院後、エヴァンはちょっぴり寝起きがよくなった。たまに目覚まし時計を鬱陶しそうに床へ落としているけれど。

 洗濯物もきちんと洗濯機にいれる。靴下も、のばしてから投げ込む。


 膝を曲げる作業をするとすっとんでくる。登校時には必ずはりついてくるし、帰る時間帯をメールするよう厳命された。

 数ヶ月で兄は随分変わった。のんびりやなルカヤでもわかるほど過保護になった。


 一点だけ、入院前に戻ったところもある。女癖の悪さである。

 ルカヤが自宅に帰ってから一ヶ月。カウンセリング前後と入院中は落ち着いていた悪癖が、また彼女を作るようになった。

 エヴァンから声をかけたことは一度もないという。やはり特定の人物と長続きしない様子は、人によっては遊び人に見えるだろう。


 今までは夕食前には必ず帰っていたのに、少し遅れて帰ってくる日も増えた。

 そういう日は、必ず気怠そうに眉を寄せてキッチンに立つ。

 先日は同じ寝床に潜り込んだ時、首筋に小さな赤い痕が残っているのを見つけた。

 蚊に刺され。しかし腫れてはいない。鬱血痕? つまり痣。また喧嘩に明け暮れているのか。

 そっと問い詰めれば、半笑いで頭を撫でられた。


「そういうんじゃあねえよ。お前にはまだはえーからな」


 兄の「喧嘩ではない」という言葉を、ルカヤは一応信じた。

 かつてはしょっちゅうあった切り傷や擦過傷の類いは見られない。今のところは放置している。

 女性との関係も微妙に変わった。以前は何気ない会話で存在をにおわすだけだった。

 今はルカヤと帰りの時間が重ねられるとわかると、彼女とデート中でも着いてくる。


 内心、ルカヤとしては遠慮したい。気まずかった。

 女性達は概ね、足を怪我したルカヤに親切であったが、なかには隠さず睨んでくる彼女もいた。

 ときにオフィスレディと思わしき女性を連れ立ってきた時は、兄の交友範囲に驚かされた。


 子ども以外はなんでもありなエヴァンの女達。

 最初は前のように、来るもの拒まず去るもの追わずなのかと思っていた。そうではないと気づいたのは、彼女達の共通点に気づいた時だった。


「兄さんの彼女さんってみんな黒髪なのね」


 自宅まで送ってくれた、兄の同級生だという彼女の背に手をふる。

 しまるところはしまった体躯に垂れる豊かな髪をみて、唐突にひらめいた。

 理由はないが、どくん、と心臓がはねた。直感が囁く。おまえは爆弾のしっぽを踏んでいるぞ、と。


 エヴァンはルカヤの呟きを拾うと、ニィと笑った。

 中性的な美貌から男性的な骨格に生まれ変わりつつある。

 端麗であるのに野性味をともなった笑顔に、ルカヤはライオンを思い出した。

 エヴァンは丸みのあるルカヤの肩を抱き寄せ、冗談ぽく言った。


「そうだぜ。つまりお前はオレにとって最高の美人ベッラってことだ」


 耳元にあたる呼気がくすぐったい。エヴァンはすぐにルカヤから手を離した。

 体温はしばし残った。指が衣服を抑え、鎖骨近くに指先があたる生々しい感触も。


(あれ。これって適切な兄妹の距離感なのかな)


 そういえば、ルカヤはよその兄妹がどういうものかも知らない。

 ルカヤは兄がわからなくなってきていた。

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