悲愛へのカウンター(8)
ルカヤは兄にカウンセリングの継続を勧めた。
エヴァンは頷かなかった。もはやカウンセリングという手段は祖母の知るところとなってしまったからである。
通うということは、ドアノブの一件のような争いを続けるということでもある。
エヴァンは病院に行くすきを作らず、ルカヤの傍に居続けることを選んだ。
1週間でエヴァンの登校が再開した。
エヴァンはまだフリーだが、ロッカーにはもう新手のラブレターが入っていたという。
「スリリングなのがスパイシーで素敵なんだとよ。ユメミガチで可愛らしいよなあ」
再登校初日の報告で、机で作業がてらに教えてくれた。
なにをしているのかと手もとをみると、エヴァンはハサミで手紙を切り刻んでいた。
後日、直接会って丁重にお断りしたらしい。一時期は女性を切らさなかったエヴァンだが、しばらく隣を埋める気はないらしかった。
代わりに、登校はルカヤとするようになった。前々から誘っていたのを実行に移したのである。
兄の冗談だと思っていたルカヤは、最初ずいぶん遠慮した。ルカヤの登校時のランニングに付き合ってまで同行してきたので、ルカヤの方が折れた。
翌々日のあたりから、登校時に妙に黄色い声援がついて回るようになった。
初めて兄を邪魔だと感じたのは、生涯の秘密になるだろう。
人間とは適応力に優れる生き物だというのは真実だった。兄妹そろっての登校をはじめて六日。
いつまでも慣れないと思っていた声援も、女子の視線も気にならなくなっていた。
その日、朝に兄が数枚のプリントを持ってルカヤの前に置いた。
朝のカフェラテを嗜んでいる時だった。パソコンからの印刷物と思わしき三枚の紙は、どれもドアノブのようだった。
「新しいやつ?」
「ああ。そろそろつけようと思ってよ」
「ふうん。そうだね、不便だものね」
「ひいては、どれが好みか教えてくれ」
「兄さんに任せるよ」
「いいから言え」
家を出るまで時間がなかった。
いつものようにだらだら、兄に選択権を譲ろうとねばる余裕はない。さっと目を通す。
シンプルな白樺模様のドアノブ。くすんだ真鍮のレトロなドアノブ。アジアンテイストな陶器のドアノブ。
こういうときは直感だ。ルカヤは真鍮のドアノブをさした。
「よし」
さっと回収した兄を眉を下げて見上げる。エヴァンの提示した画像には全て奇妙な共通点があった。
指摘してよいか迷ったのだ。
「ねえ。それ……全部外鍵ついてるよ。探すの間違えてるかも」
「間違えてねえよ」
「え?」
「内鍵だとルカヤに開けさせればいいって、ババアが学習したかもしれん。はっきりオレが部屋にいさせてんだってわかりやすくする。そうすりゃ、無理にだしたり壊したりしたら、オレに喧嘩売っただろっていってやれるからな」
「……やっぱり兄さんはカウンセリングいったほうがいいよ」
カフェラテの最後の一口をふくむ。冷めて苦さが増していた。えぐみの強い味わいはニガテだ。眉が寄る。エヴァンもルカヤと同じ顔をしていた。
「その話はもう終わっただろ」
「うん。わかってる。兄さんが折れるなんて滅多にないこと」
一度はカウンセリングを受け入れて、その一回目でこの惨事。兄は二度と頷かない。溜息を飲み下し、椅子から立つ。
「そういうことならいらないかな。ドアノブ。ふつうの買おう」
「別に用途が代わらないんだからコレでいいだろ」
「ええ……嫌だよ、なんか……」
言いつのろうする兄から逃げるように、肩にリュックをのせた。
着いてくる兄を置いて、先んじて家を出る久しぶりの一人登校になりそうだった。
しかしエヴァンの足はルカヤより長い。持久力ならルカヤのほうが上だが、短距離走なら兄が優位だ。
ルカヤは初めてバスを使ってみることにした。
学校近くのバス停から乗り込むと、想像以上の混雑に白眼を向いた。人混みにぎゅうぎゅうに詰められる感覚には息が詰まる。
今更降りるなんてできない。乗車に手間取ったせいで、眠そうな目をした運転手からすごまれていた。
(今日いちにちだけだから)
ルカヤはバスの奥に移動し、学生の塊にのまれる。ちらと見えた窓の角から、エヴァンが走って行くのが見えた。
「……ごめんね、兄さん」
放課後に、また一緒に帰る頃には、お互い頭が冷えているはずだ。
ルカヤの狙いでは、そうなるはずだった。
だが不幸とは折り重なるもの。
特にルカヤは幸運の女神に、存在を見失われていたようだった。
午前七時十七分。
ルカヤの乗車したバスは横転し、大事故を起こす。
原因は運転手の居眠り運転だった。
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