悲愛へのカウンター(7)

 祖母は歳を重ねるごとにテレビの前に座る時間が増えてきた。

 その後ろをそっと通る。テレビからは老若男女の歓声が聞こえてくる。

 横目で画面をのぞきみると、二人のシェフが並んで色とりどりの食材を切り刻んでいた。


 祖母がテレビの真正面から動かないよう信じて、キッチンのガスコンロを点火した。

 今日は兄がカウンセリングに行く日だ。どうしても落ち着かない。


 食器棚からペーパーフィルターを、冷蔵庫から円柱の筒にしまわれたコーヒー粉を取り出す。

 コーヒーを煎れるという行動事態がしたかった。もう幼い頃に過ごした生身の母との思い出は薄れかけている。

 そのなかで、コーヒーのいれかたは数少ない母直伝のわざだ。


 サーバーにドリッパーをつけ、木のスプーンで粉をいれる。軽く三杯。

 重いやかんを空中でささやかに傾ける。小さな滝を作るように丁寧に。

 平らに整えた粉のうえで、湯の注ぎ方は日本語の「の」を書くように。うずまき型に、ぷくぷく可愛いベージュの泡がたつ。

 目当ての量を煎れ終えたら数分放置だ。これで中身の濃さが均一になるらしい。


 待つ間にエヴァンからメールが来ていないかチェックする。

 兄は喫茶店で昼食を食べたあとに、カウンセリングを予約したと言っていた。時計は一時半をさしている。

 エヴァンは今頃、先生と話しているのだろうか。手に持った携帯でカウンセリングについて検索してみる。

 専門外なルカヤでも理解できるような優しい解説を選んで、ページをクリックした。


 ネット上の辞書で出た意味は「心理相談」だった。

 依頼者がかかえる懊悩などを、本人自身が解決できるよう手助けする方法なのだという。

 スクロールしていると、メールの着信を知らせるアイコンが画面を遮った。着信メロディは切ってある。祖母には聞こえていないはずだ。


 メールアドレスは母だった。あんな時間があった後だ。エヴァンの経過が気になるらしい。

 ルカヤは逡巡してから、返信を書く。


 エヴァンはルカヤより年上だが、未成年だ。一般的に両親の保護下にある。場合によっては、保護者である両親の名義が必要になるかもしれない。ルカヤはエヴァンにカウンセリングを勧めたことについて、知らせておこうと思った。

 昔から文句をいいながらも祖母を切り捨てない両親に、疑念を抱かなかったかといわれれば嘘になる。


 だが祖母を置いて家に帰ってこないのは、両親自身の心を守るためだろう。

 金銭的な援助は余るほど与えられている。ルカヤに対しても、明確にルカヤたち子どもを犠牲にするようなことをされた覚えはない。少なくともルカヤの記憶上はそうだった。

 何度も「祖母には言わないでくれ」と念押しをして、送信ボタンを押した。


 お気に入りのマグカップになみなみと飲み物をいれて、逃げるように自室に戻る。

 内鍵もしめる。兄が帰ってくるまで、部屋を開け放っておく気になれなかった。祖母はノックをしない。


 机の脇につんだ読みかけの本から適当に一冊抜き取った。

 ページをめくろうとする。いつもなら安らぎをくれる生成りの紙と凜と整列した文字列が、目に滑ってあたまに入ってこない。

 いっそ自分から電話してしまおうか。いや、先生と話しているまっさいちゅうだったら迷惑になってしまう。


 そわそわとしていたから、兄の名が電話に浮かんだ時は過敏な反応をしてしまった。

 電話越しのエヴァンの声は拍子抜けするほど穏やかだった。トラウマを直視するなどして不安定になっている様子はない。


『終わった。だいたい40分ぐらいで帰るぜ。とちゅう買ってきて欲しいモンあるか? 冷蔵庫の中身、忘れちまってよ』

「あ、うん。昨晩に買い込んだから、夕飯はなんでも作れると思う。えっと、それよりさ。どうだった?」


 いきなり生活の話になるとは思わなかった。

 単刀直入に切り込めば、エヴァンも具体的に言うことがないようだった。

 ザザザとノイズが挟まる。背景にカップルが大声で雑談している声が入った。あっというまに小さくなってかき消えた。エヴァンは外を歩きながら話しているようだ。


『まあ、普通に話しただけだ。拍子抜けしたぜ。検査とかがあったわけでもねえし。椅子に座って、最近あったこととか、好きなもの嫌いなもの、学校とか……とにかく普通の世間話してた』

「そうなんだ。嫌なことはなかった?」

『なかった。まあ、お前は気にしなくっていいんだぜ』

「うん……」

『本当だ。あー……劇的になんかあった、ってわけじゃあねえが。不信感はなかった。そういう意味じゃあ、確かに十分過ぎるのかもしれねえ』


 兄の言う意味はよくわからなかった。それに「ああ、よかったのだな」と胸を撫で下ろす。

 意味が理解できないのは、兄が言いたいことが、普段ルカヤに話さないようなことだからだろう。

 それを話せる相手なのかもしれないのだったら、兄のいう通り、じゅうぶんな成果といえた。


「兄さん。私、兄さんを待っている間にカウンセリングについて色々調べてたんだ」

『へえ』

「でね。イタリアでは、バザーリアっていうお医者さんが精神科病院の開設を禁止したっていうのを初めて知ったの。バザーリアの言葉にこう思ったらしいんだ。【人は自分の狂気と共存でき、人生の主人公として生きることができる】」

『狂気?』

「うん。狂気っていうのが私達の、うまくいかない色んなことなんだとしたらさ。私達、大丈夫だよね」


 うまく言い表せない。


「今まで通り、こうして家族として……幸せに生きられるよね。ずっと。一緒に。頑張って生きてるんだもの」


 果たして兄は狂気と共存できるのか。携帯を握りしめる。

 大丈夫よね、ともう一度言った。自分に言い聞かせるぶんだ。

 今まで通り、エヴァンとあたたかな日々を過ごし、コーヒーを飲む生活を、家を壊したくなかった。


 うまくいかないことがあったって、色々なやり方を覚えていけば、狂いきることなく乗り越えられるはずだ。

 見えない未来に曇る心を、かぶりをふって追い払う。ルカヤはわざと口角をつりあげ、声のトーンをあげた。


「ああ、こんな話、いつまでしててもよくないよね。今日のお夕飯の話でもする」

『そうだ、その話だ。なにかリクエストでも? 兄ィはなんでも作れるぞ』

「ていうか今日は私が作ろうか? 疲れてない?」

『夕飯はオレの当番だろ。ババアが怪しむ。さて、どうするか。ラザニアでいいか?』


 ルカヤは本を閉じる。

 目線をあげると、目の前でドアノブが回った。内鍵がかかったままなので、ドアは開かない。


「あれ。兄さん? まだ外だよね?」


 エヴァンとまだ繋がっている電話の背景は、雑踏のざわめきが絶えず続いている。

 ガチャガチャ。またドアノブが動く。先ほどより乱暴だ。苛立ちが伝わってくる。

 扉越しに、久しくきいていなかったしわがれた声が響いた。


「ルカヤ。出てきなさい。どうして家族に恥をかかせるのか、躾をしてやらなくちゃならないようだからね」


 ルカヤはみっともなく狼狽する。


「ど、どうして?」

「どうしてだって? あんたの父親が連絡してくれたんだよ。カウンセリングだって? 馬鹿馬鹿しい」

「わ、私達なりに考えて……」

「私達? 『たち』だって? あんたが吹き込んだんだろ、その足りないあたまで!」


 ルカヤを遮って投げつけられる否定の言葉に身がすくむ。


「まだ世の中に出たこともない子どもがなにをどう考えるっていうんだい。無駄な金を使って、勝手な行動をして」

「迷惑はかけてないよ……」

「もうかけてるんだよ! 病院に通う子だって噂がエヴァンの将来を傷つけたらどう落とし前をつけてくれるつもりだったんだ。あんたって子は言い訳ばっかり! いつまでも逃げてないで、とっとと出てこい!」


 子どもの頃、ルカヤは祖母のいうことを全てうのみにし、受け入れていた。

 今はもうヒステリックな祖母の言動に、ルカヤは一貫性や説得力を感じていない。

 だが、十四年の月日はルカヤにぬぐいようのない諦念を刻みつけた。

 どう尽くそうとも、祖母には通じないと。


 彼女の望むようにするまで、不機嫌を振りかざし、止まらない。

 風邪をひいたような気怠い憂鬱をひきずり、のろのろとしか動かない指で内鍵を外した。

 部屋を出ると悪魔のように吊り上がったヘーゼルの瞳が、ルカヤを睨む。


「自分がやられて嫌なことを人にしちゃあいけないってわからないのかね?」


 祖母は粘着質に舌を打つと、ルカヤの腹を殴った。

 祖母は高ぶりすぎて言葉がでないとき、暴力で発散する。

 胃酸がこみあげた。急所を攻撃された本能的な忌避感に、下唇を噛む。


 感情のまま祖母が腕を振り上げたのが見えた。

 慣れたもので、体が自動的に祖母に背を向け、正面を壁にぴったりとくっつける。ふりまわされた拳が数回、肩甲骨や脇腹を叩いていった。


「あんなことがあったのにもうこんな手間をかけさせて」


 だんまりになったルカヤにぶつぶつ文句を重ねる。発音に唾が絡んで語尾がニチャニチャと跳ねていた。

 ルカヤの反応がろくにみえず、つまらなそうだ。疲れてルカヤを叩くのをやめる。

 興奮であらくなった呼吸を整え、祖母は意地悪く、ルカヤと部屋を順番に見た。


「だいたい、こんな風に逃げられるのが悪いんだよ」


 祖母の口角があがる。笑い方がぬめっていて、人間大の爬虫類が笑ったようだ。

 嫌な予感に打ち震えるルカヤの眼前で、祖母はハンマーを持ってきて、ドアノブに振り下ろした。


「なんてこと!」


 驚愕に短く悲鳴をあげる。祖母は楽しそうに、連続してドアノブをいじめた。

 ハンマーは一歩間違えば簡単に凶器になる。持ち手が誰でも危険さはハンマーの質量は変わらない。腰の曲がった老人であろうとだ。うかつに近づけず、ルカヤは祖母を止められなかった。

 アドレナリンがなくなると、一気に疲労が押し寄せたのか、祖母は急に静かになった。

 不気味なほどに大人しくなって、ドアノブの残骸を残し、テレビの前へ戻っていく。


 兄が帰ってきたのは、祖母がテレビチャンネルをつけ、ニュースキャスターのよどみない朗読が流れ出したタイミングだった。

 急ぎで帰ってきたらしい。エヴァンは汗をかいていた。


 血流があがって、きらきら輝いているエヴァンの青い目がドアノブの残骸を捕らえる。

 熱は瞬時に冷却された。凍てついたまなざしが壁越しに、氷柱(つらら)の視線を祖母へ投げかける。


「ああ、ルカヤ。オレは今日はふたつのことを学んだぜ」


 電話では穏やかだった声は、ジーノを痛めつけた時と同じ声音になっていた。


「ひとつ。この世には、必ず卑しくおぞましい奴らがいるように、絶対に、誇り高く思いやりのある人間もいるっつーこと」


 長年ルカヤを守ってきたドアノブを拾い上げ、大事そうに抱きしめる。


「もうひとつは、道理を持つ気がねぇやつには、そんなもん意味がねぇってことだ」


 そして吐き捨てるように、抱いていた金属をゴミ箱に強引に押し込んだ。

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