悲愛へのカウンター(6)

 コンコン。ノックの後、自室にエヴァンが入ってくる。


「夕飯できたぞ。今日はエビとアスパラの塩パスタだ」


 エプロンをかけたまま話しかけたエヴァンの顔は、相も変わらず美しいようで、笑いかたがぎこちない。


「兄さん。話があるの」


 ルカヤが短く切り出すと、エヴァンはいずまいを正した。

 兄の目の前で、ルカヤは勉強机の引き出しを開き、なかから封筒を取り出す。

 分厚い封筒だ。長方形に膨らんだ封筒はうっすら日に焼けて、年季を感じさせる。


「兄さん。ひとつ、兄さんにお願いがあるの」

「なんだ」

「うん。言うんだけれど、その前にひとつききたいこともあるんだ。どうしてあんなことしたの? 私を心配したのはわかってる。でもいきなりあそこまですることあった?」


 極力穏やかに話す。エヴァンを追い詰める事が目的ではないのだとわかって欲しかった。

 エヴァンはしばし考え込むと、ぽつぽつ口を開く。


「……ルカヤ、お前は家なんだ。オレにとって」

「家?」


 全く予想外の例えに、ルカヤは自分を指さす。

 エヴァンは小さく首を動かした。金糸の髪がさらりと揺れる。


「アパートでも家でも。小綺麗に掃除されていようが広かろうが。どこに建てられてることは家の条件じゃあねえ。オレにとっちゃただの空間。便所とおんなじだ」

「それが理由?」

「ルカヤ、お前はいつも世界を穏やかに美しく見ようとする。オレには無理だった。お前がくれる景色だけがあたたかい。お前のいる場所がオレの家だ」


 エヴァンの青い瞳は真っ直ぐにルカヤを貫き、白い唇は震えなく動いていた。

 嘘はない。偽りのない真実だ。エヴァンの弱さの告白だ。

 見栄っ張りな兄の、妹への精一杯の誠実さ。

 ルカヤは膝の上にのせた封筒を握りしめる。


(兄さんは病んでいる)


 そう思った。

 ルカヤの想像以上に兄は苦しんでいた。心の支えがなかったのだ。

 兄は美しい。顔の美しさに見合う心の誇り高さを持つ人だ。そんな人がここまでボロボロになっていた。

 きっとルカヤのあずかりしらぬところで、耐えがたい痛みに苛まれ続けていたのだろう。


 ルカヤは思い切って兄に封筒を差し出す。

 兄はルカヤより10センチ以上背が高い。捧げ物をするかのような目線の交わし方になる。


「これは?」

「私、お弁当を作ったりして、節約してたでしょ」

「ん、ああ……」

「これはヘソクリ。毎月、余ったお金の半分を引き出して、貯めておいたんだ。災害だとか、おばあちゃんが許してくれないようなものが必要になったときとかに使えるように」


 約八ヶ月分のみとはいえ、ルカヤは物欲がないほうだ。合計は結構な額になっている。封筒を持った手が震えた。


「こ、これで……カウンセリング、行こう」

「え?」

「だって兄さんは本当は素晴らしい人だもの。いいところをたくさん、本当にたくさんしってるの。兄さんは今、凄く疲れてるんだと思う。でも私、子どもだから。わからないこと、間違ってること、いっぱいある。でも、お母さんとお父さんは仕事だし。おばあちゃんは頼れない。だったらプロに頼るしかない」


 兄の白い歯が見えた。反論する気だ。

 ルカヤは意を決し、たたみかけるように喋る。ぎゅっと目をつむり、祈るようにこうべを垂れる。


「病気扱いしたいわけじゃないの。信じて。いっておしゃべりするだけでもいい。なにもなければそれでもいい。安心しておしゃべりする時間を買って、楽しんだんだって思えないかな。ほら、仕事でしょ。だから情報を漏らさない義務があるんだよね? じゃあなんでも喋れるでしょ? 何かあったらそれで兄さんが楽になれることもあるかもしれない」


 今まで生きてきたなかで、一番はやく喋っていた。

 失礼なことをいっているのはわかっている。だがこれ以外に、ルカヤが兄にしてやれることが思いつかなかったのだ。

 頭を下げたまま、兄の答えを待つ。


「……お前はよぉ、オレを憎んだりはしねえのか? 初めて出来た彼氏を殴ったんだぞ」

「ジーノを殴ったことは許さない。でも兄さんを憎みたいわけじゃあない」


 エヴァンは眉をひそめる。納得いかない顔だ。

 ルカヤはもう一歩ふみこんで考えた。自分がどうしたいのか。

 それがジーノがいった「近しい人を切り捨てる」――自分の幸せを考えるということだと思ったから。


 祖母は身内が精神病院じみた場所に通うことを許さないはずだ。

 イタリアでは精神科病院の開設は禁止されている。くわえて、比較的カウンセリングは気軽な国だという。それでも祖母は完璧な孫が欲しいのだ。玉傷さえ許せまい。

 ルカヤは家族に嘘をついてでも、兄をとる道を選んだ。


「どういえばいいか、わかんないんだけど……私には兄さんを見捨てる義務はないし、兄さんに幸せになって欲しいと思ったら、そう願う権利がある……と思う」

「……随分かてぇ言い方だな」

「だって人にどう説明したらいいか、わからないんだもの」


 泣きそうになるルカヤの涙を、エヴァンの指が拭う。


「わかったよ。お前が一生懸命なのは。まあどうせ学校終わりにやることもねえしな」


 その手で、エヴァンは封筒を受け取った。

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