悲愛へのカウンター(4)

 屋根を貫かんばかりの豪雨だった。

 ルカヤは雨の日が苦手だ。兄の嫌いな天気だからである。


 兄は寝起きの悪さからわかるように低血圧で、こういう日は怒りっぽくなる。

 血を流して帰ってきた夜から、兄は喧嘩をして帰ってくることが増えた。


 風の噂では、一人目は兄に女性をとられた青年だったらしい。

 そこから同じような男性に、兄の強さに興味をもった血の気の多い不良少年に……。

 ルカヤの前では兄は変わらず優しい兄なのに、どんどん知らない面が増えていく。


 だから雨の日は苦手だ。

 ピリピリと、触れれば焼けるような気配の兄を垣間見ることになる。

 ジーノを連れて、靴置き場を見る。兄の気に入りの靴がなかった。兄はだんだん家に帰る時間が遅くなっている。理由はだいたい二種類。喧嘩のためか、女に請われて。


 それでも夕食までには必ず帰るあたり律儀だ。

 いつも通り夕食頃に帰ってくれば、ジーノを兄に紹介できるはずだ。


「綺麗な家だね。さっぱりしている」

「家具が多すぎても大変だから。庭はおばあちゃんの趣味なの」


 手に職がない祖母は、ルカヤの物心がつく前から庭の手入れに熱心だった。

 冬を除いて、庭にはいつも植物が元気に茎を揺らす。

 エヴァンは「花の種類と見目にまとまりがない」と、気に入らない風なのだが。

 廊下を進む。シンと静まりかえった廊下は、雨音をすっと飲込んでいく。

 なんの変哲もない時間が、いやにどきどきした。


「ここが私の部屋。正確には私と兄さんの部屋」

「お兄さんと共用なんだ」

「昔からそうなの。部屋のものには気をつけて。いい人だけれど、こだわりが強いから。私のならいくらでも触っていい」


 ドアを開き、ジーノを招き入れる。

 他の家族はいないのに、ジーノはやけにかたい表情をしていた。初めてジーノの家に遊びに行った時のルカヤのようだ。


「せっかく来てもらったのに、面白いものはなんにもないの。ごめんね」

「そんなことないよ。君と二人っきりで嬉しい」

「あ、ありがと……えっと。飲み物いれてくる。あったかいやつ。カフェラテ、好き?」

「大好きだ、うん、バケツいっぱいでも飲める」

「おなか壊すよ」


 カフェラテを煎れて戻る。ジーノはベッドを椅子代わりに座ったまま、部屋を出た時とすんぷん違わぬ姿勢でいた。

 勉強机にカフェラテを置く。その間も背中から視線を感じた。

 兄もルカヤを呼び寄せる時は穴があくかと思うほどじっと見てくる。

 ジーノの隣に腰を下ろした。彼が息を飲む。


「ごめん。私、こういうのあんまり詳しくないから。どうしたらいいかわからないんだ」

「いや、僕の方こそ」

「自分ではもうちょっと落ち着いてるかな、って思ってたんだけれど。意外とドキドキしてるみたい。よく考えれば、先にリビングの方がよかったよね。テーブルも椅子もあるし」


 リビングだと祖母がいきなりやってくるので、みたい番組や広いソファで横たわりたい時以外は、ほぼほぼ自室にこもる。

 習慣が出てしまった。とことん気が利かない女だ、とうつむく。


「いや! ここでいい。ここがいいよ」


 座ったまま、ジーノが距離を詰めてきた。

 支え代わりに、腰の両側に置いていた左手に、彼の右手が重なる。

 熱い手だ。ルカヤより一回り大きい。ジーノの手に流れる血の温度が移ってくる。


 近いな、と思った。胃の底のあたりで、また、不自然に不愉快な感情が鎌首をもたげる。

 脳裏に泥のつまった爪と皺だらけの小さな掌が浮かぶ。祖母に平手打ちをされた記憶が花火のように過ぎ去った。

 顔をあげる。がちゃりという金属がまわる音がした。唇に柔らかいものが重なる。ルカヤの呼吸を覆ったものには、ぷにっとした弾力があった。遅れて、熱が伝わる。血の温度だ。


 頭が真っ白になった。

 まばたきを忘れた目は、脳に映像を伝えはするが、理解する余裕がなかった。

 外は暗くて、ジーノの顔は赤かった。電気の光がやけに眩しい。


「本当に、好きだよ。君のことが」


 いつのまにかルカヤはジーノと正面から向き合っていて、彼の手はルカヤの背に添えられていた。

 ガラス細工を扱うように、ベッドに寝かせられる。

 天井の丸い蛍光ランプが、太陽のようにルカヤの網膜を焼く。


「あの、ごめんなさい。私、人と付き合ったのが初めてで、普通の恋愛のルールを知らないかも知れなくて、だから間違いがあるかも、待って」


 白く明滅する視界に目を細め、ジーノの胸板を押し返す。

 パニックのなかで思考がまとまらない。なにもかも白い。見えないせいだ。

 大きな影が電気を遮った。やっと目の痛みが治まる。助かったと思った。声が降ってくる。


「なにやってんだ、テメー」


 喉元に刃を這わせるような、ドスのきいた声。

 激昂すら麗しい、エヴァンの声だった。 


「兄さん!!」


 兄の白い手がジーノの首根っこを掴み、床に引きずり倒す。


「なにやってんだってきいてんだ。耳ィ潰れてんのか?」


 エヴァンはジーノが立ち上がることを許さなかった。椅子をひっぱって床をひっかき、軽々と持ち上げる。

 小学校入学時に買ってもらった木の椅子で、エヴァンはジーノを殴りつけた。

 二度、三度。ジーノは体をくの字にまげ、必死に頭を守る。


「兄さん、やめて!」


 ルカヤははっとして兄の腰に抱きつく。

 止めようとした。だがエヴァンの力強さといったら、嵐を相手にしているようだった。


「どきな」


 一言だけいって、必死でまとわりつかせた腕を、じゃれつく子犬を引き剥がすように離される。


「違う、その人何にも悪くない。酷い人なんかじゃない。私が悪いの!」


 喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。

 兄は椅子を投げ捨て、長い足でジーノの腹を蹴った。

 怒鳴らない口ぶりからは信じられないほどの全力で。サッカー選手がボールを蹴るように思いっきり。


 人から聞いたこともないようなうめきがした。

 エヴァンの冷徹な暴行に、ルカヤを全身から血が抜けるような虚脱感が襲う。

 立とうとしてころける。腰が抜けていた。長い足でジーノに蹴りを入れる兄のそばを匍匐で動く。

 震える指で携帯をとり、シンプルな番号を入力した。


「もしもし、救急車――救急車呼んでください!」

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