悲愛へのカウンター(3)

 ジーノと付き合って二ヶ月になる。

 ルカヤはまだ『恋人』という関係を実感できない。


 前と変わらない日々だ。放課後にコースを走り、翌日に待ち合わせる。

 せめて置いていかないようペースを合わせようとした。なのにジーノは断る。ルカヤが思うまま走るのが好きなのだという。彼はいつもルカヤからつかずはなれず、後ろをついてきた。


 元々走るのは好きだ。不思議と、最近は前より体力がつき、記録が縮まった気がする。

 近頃は概ね20キロメートルほど走っている。平均記録は1時間28分。

 ヴェニスマラソンは42.195キロメートルある。もっと体力が必要だ。タイムも2倍以上かかるだろう。


 前は走るばかりで満足したのに、最近はタイムを測るのも楽しい。

 ジーノは速いというけれど、公式記録は調べなかった。自分より凄い人の記録を見てへこむのは恐い。

 それ以上に楽しみが増えるのは、いい。


「明日はコース変えてみる?」

「うん」

「いいね。調べてみよう」


 会話はまだ緊張する。

 ジーノはルカヤが相づちしかしなくても、文句を言わない。嫌そうな顔ひとつしないので、気にしていない風に見える。

 ルカヤは時々不安になった。家族でもない人にこんなに自分に都合良く接してもらっていいのだろうか?


「おっと」

「え?」

「いや、コースを変えるのはいいんだけれどね。明日は雨みたいだ。よく考えれば、こんなに晴れが続くほうが珍しかったんだよな」

「ああ……そうなんだ」

「小雨じゃ済まないなあ、これ。走ったら風邪ひいちゃうよ」

「じゃあ明日はマラソンしないんだね」


 前に雨が降った日にはジーノの家に呼ばれた。ジーノの両親と兄弟にも会っている。

 彼は両親と弟と妹と暮らしているらしい。お母さんはジーノと同じ褐色の肌で、よく笑う人だった。

 息が止まりそうなほど緊張した。


「明日はどうする? ジーノはやりたいことないの。いつも私に付き合わせてもらってばかりだし」

「好きでやっていることだからいいんだよ。でも、ううん、そうだなあ」


 若干の間があく。また彼の家に招かれるのだろうか。兄の助言を信じるなら嬉しいことだ。

 緊張から空を見上げると、明日の天気を先取りしたような分厚い曇天だった。

 癖のある黒髪をもったジーノには、陰りのない太陽がよく似合うのに。


「先にいう。オレからいうのは厚かましいのは重々承知なんだけれどね。もしも君が嫌じゃあなかったら……」

「うん」

「君の家に遊びにいってもいいかい?」


 頭を殴られたような衝撃が走った。


(そうだ、ジーノは私を家族に紹介してくれたのに、私は兄さんさえ会わせたことがない! これじゃあ不安になって当然だ。なんて不誠実なことをしてしまったのだろう)


 言われるまで全く意識にあがらなかった。言い訳が浮かんできて、ますます情けない気持ちになった。

 家に呼んだところで両親はいない。祖母に関しては、醜いことだが、ジーノを会わせたくなかった。


 祖母は兄に彼女ができると、あれこれアラを探して不釣り合いだと文句を言う。万が一、彼を侮辱する言葉をぶつけてきたら、ルカヤは祖母が嫌いになってしまうだろう。

 ちょうど明日は、珍しく祖母が出かける。何より、勇気を出して提案してくれたのに、むげに断るのはジーノに悪い。


「いいよ」

「ほんと!?」

「うん。明日、うち、誰もいないから」


 ルカヤの頷きに花咲いたジーノの笑顔が固まる。

 言い方を間違えたかと、じっと彼を見つめた。頬がうっすら赤い。唇の端は引きつってはいない。

 筋肉の微細動は、ルカヤが祖母の前で笑いを堪える時に似ている。喜んでくれているようだ。


「い、いいのかい?」

「うん」

「その。えっと、僕で?」

「……他にいないと思う」


 家にいってもいいか、というので、彼が来るのかと思い込んでいたのだが。

 もしや他の人物をルカヤの家に行かせてもいいか、という意味だったのだろうか。いや、流石にそれは文脈がおかしい。


 ルカヤは自分の前後の発言を振り返ろうとした。よくしてくれるジーノに報いようと、半ばパニックだった。

 何か致命的な言い間違いがあったのかもしれない。その前にジーノがルカヤの手をとり、両手で包み込んだ。


「いく。明日、絶対いくよ」

「え、うん」

「正直、もしかして君は、無理に僕に付き合ってくれているんじゃあないかと思ってたんだ。だから本当に嬉しい。ちょっと急に早足過ぎる気もするけれど」

「……うん」


 言葉を選びながら、喜びをかみしめるジーノに、ルカヤもにっこり笑う。

 嬉しそうならいいか。ルカヤはそこで考えるのをやめてしまった。

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