第3話 新開地どろチーズらーめん

 神戸元町6丁目、旧宇治川を暗渠化したメルカロード商店街を浜手に向かって駆け足でくだる。泣く子も黙る西明石草津間概算にして160kmを誇る東海道本線日本最長の複々線区間の一端を担う高架をくぐり抜ければ、左手には10貫1000円ランチ寿司の元禄寿司とサークルK、右手にそびえるは神戸親愛病院、そしてお出まし交差点。地下に埋まるは神戸高速鉄道西元町駅と来た。そこから高速神戸行き各駅停車に乗り、お次の高速神戸駅で山陽姫路行きのこれまた普通に対面乗り換え。ひと駅先の新開地駅が今宵の終着駅である。阪神、阪急、山陽、神鉄の4社が顔を合わせるターミナル駅だって? そりゃ間違いない。けれども神鉄だけは仲間外れ。かわいそうったりゃありゃしない。そう思うのは私だけかしらん。神鉄には贔屓してるんだ。

 

 晩御飯が食べたい。昨日はコンビニ弁当だった。もう何日も大盛明太マヨのスパゲッティ。そろそろ飽きが来る。味の濃いやつがいい。できるだけ、濃くてたまらないやつを所望する。風の噂。新開地に「どろチーズらーめん」なる珍味があるらしい。にわかに、舌根が唾液に濡れる感じがした。


 新開地駅東の無人改札を抜け、パチンコとボートピア帰りのおっさんを横目に商店街の方へ足を向ける。その店は隠れもせず。街路の角に構えていた。店はそう古びた感じはしない。「営業中」と書かれた大人の体躯くらいある木製の看板が入り口の引き戸の半分に立てかけられている。店の名は「豚の助」。「とんのすけ」と読むか、はたまた「ぶたのすけ」か。このあと私は合計で4回、このお店にくることになるのだが、畢竟店の読みは分からずじまいに終わる。


 厨房を取り囲むL字のカウンターはまだ誰も座っていなかった。一番端の席を希望した。備え付けのメニューには大きく「どろチーズらーめん」の文字が躍っている。水を持ってきた店員に、注文をつけた。


 しばらく、店内の様子をうかがって待つ。カウンターの後ろは通路を挟んでテーブル席が並び、今は若いカップルがメニューを眺めている。ほどなくして彼らは店員を呼び出し、「どろらーめん」を2杯注文した。「どろらーめん」にチーズが添加されると、「どろチーズらーめん」となる。

 さて、「どろ」とはなんなのだ。それはやはり豚骨スープを指すものなのか。メニューには写真があった。見る限り、豚骨スープに特有の濁った黄土色の液体が杯を満たしている。

 厨房の奥では大将と目される人物が腕を振るい、麺を湯切りしている。少なくともそういう類の音が聞こえてくる。

 パシュッ、ボッ。

 圧縮されたガスが瞬間的に放出され、ただちに空気と混じりあいながら燃焼を始める音。ガスバーナーだ。ホー、ホーという音もする。橙色の炎が空気を揺らし一点に向けて放たれている。腰を浮かせ、厨房の奥を覗くと、らーめん鉢にガスバーナーの銃口が向けられ、勢いよく青い芯の炎がまぶされている光景があった。チーズを溶かしているのだと悟った。これは恐ろしい。加熱されているらーめんにさらに加熱しようというのだ。まもなく、店員が威勢のいい声で「はいお待ち」と言って「どろチーズらーめん」を目の前に置いた。


 それは焼け焦げた大地に根付き芳醇な香りの樹液を垂れ流す大木。あるいは可食部100%の琥珀。麺はどこか。流動性を感じない半固形の液体で満たされた器の表面が焦げ跡の残るチーズの膜で覆われている。

 れんげを突き刺す。すると突き刺したところでれんげは静止する。来たる終末の日。れんげが静止する日。運命の審判が下され、地上に再び主が降臨し選ばれた人類のみが千年の楽園に誘われるというその日。「どろチーズらーめん」には終末論的思想のカオスが渦巻いている。「どろ」が光を乱反射し、チーズの焦げ目は際限なく光の道筋を吸収している。どろとチーズのぬかるみの丘、その頂点に屹立するれんげ。ここはゴルゴダの丘。私は衆生を救いながらもついに裏切りに遭う主そのものであったか。


 いまや十字架は取り払われた。どろを飲み、麺をすする。麺がどろを絡み上げる。どろが口腔を満たし、我先にと喉を潤す。舌はその香ばしくも濃厚な豚骨の刺激に即応する。どんどんと膨張する胃袋。スープのように見えるそれはスープではなかった。本当にどろなのだ。どろが胃の内壁に浸透し、やがて血流にのって全身のすみずみまでいきわたっていく。豚骨脳、豚骨腸、豚骨横隔膜。全臓器豚骨製。 

 器の底に残る最後のどろをサルベージし、口元まで運ぶ。下唇を伝い体内に流れ込む一滴のどろ。気がつくと、カウンターは客で埋まっていた。


 満腹感で歩行は困難であった。重い足取り。新開地はとうに夜を迎え、居酒屋の喧騒が街路まで漏れていた。大通りに出ると、新開地のラウンドワンに煌煌と明かりが灯り、交差点の方に目を向けると、神鉄ビルが夜の闇に染まるようにして鎮座していた。


 新開地のホームで電車を待つ。

 西元町に停車するやつだったら嬉しいのだけれど。


 


 

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