第2話 西元町駅、膨らんだカバン

 寮からほど近いところに駅がある。西元町駅という名前で、四車線道路の地下をくり貫いて作られた。駅と線路の持ち主は神戸高速鉄道という会社だが、そこを走るのは阪神電車と、直通先の山陽電車だった。とはいえ、見た目には阪神の駅にしか見えなかった。青地に白文字の駅名標が、レンガタイルの壁に等間隔に貼り付けられている。ホームと線路は直上の道路に沿うようにして、ゆるやかにカーブしている。ここは各停と一部の特急が停まる駅だが、通過する優等列車は激しい軋み音を鳴らして、一瞬のうちに暗がりからまた暗がりへと消えていく。東隣は元町駅で、反対側は高速神戸駅である。高速神戸駅と西元町駅は徒歩でも2分か3分程度と短い距離で、僕は時間に余裕があるときは、高速神戸駅を使うようにしていた。

 

 一人暮らしの幸先はあまりよくなかった。引っ越してきてから一週間が経ったころ、僕は自分の部屋の一角に設けた洗濯かごが下着とタオルでいっぱいになっていることに気づいた。寮は洗濯機と乾燥機が共同スペースに置かれていて、服を洗いたいとなったら、部屋を出て、廊下を突き当たりまで進んだところにある鉄の扉を押し開ければそれですべてがうまくいくようになっている。僕は、しかしそれすら億劫な気がした。かごがいっぱいになったら、そのときが絶好の洗濯日和なのだと自分を言い聞かせていたように思う。一人暮らし2、3日目のことだ。一週間経つと今度は、もう身に着ける下着が無くなったら洗おう。そんなふうに考えた。


 同時期、僕はもう実家に帰ってしまおうと考えるようにもなっていた。親のありがたみを感じたかったというよりも、自分でなにもかもやってしまわねばならないこの一人暮らしという名の無賃労働に飽きていた。僕は、自分の頭のなかで、目の前に広がる洗濯物の山と、実家に帰るというアイデアが運命の赤い糸で結ばれたのを確認した。


 西元町駅の改札にICカードをタッチした。実家まで帰る分の残高があった。改札階からホームに降りていく階段のへりの方は、天井から滴った水がいくつもの白い筋を描いていた。梅田行の特急が通過していくと、駅に静けさが戻って、天井から滴る水の音がわずかに聞こえた。黒いレンガ様のタイルが敷き詰められたホームが、上りと下りの線路を挟んで、向かい合わせになって奥の方まで伸びている。ホームの両端に階段はあったが、一方の階段を降り立ったところからもう一方の階段を見ることはかなわない。僕はこの湾曲したホームを気に入っていた。それは、おそらく、直線的なホームはもうつまらないと感じるようになっていたからだろう。僕は、少なくともその時には、自らの人生が西元町駅のホームみたいであってほしいと考えていた。先は見えなくてもいいし、歪んでいてもいい。ただ、しっかり線路がつながっているという確証だけはあってほしかった。

 僕は、カバンを携えていた。洗濯かごを満たして溢れるほどだった下着とタオルを詰め込んだカバンだった。実家に持って帰って洗ってもらおう。それからしばらく地元でゆっくり休もうという算段だ。神戸に戻るのは、サークルの活動が始まる日でいいだろう。そうだ、僕はサークルに入っている。地味な活動の連続だったが、愉快な仲間が集まるサークルだったんだ。今はもう引退しているけれども。

 青と薄いクリーム色の電車が勢いよく駅に飛び込んできた。ホームと車両の間は足一本まるごと飲み込んでしまうくらいの隙間があった。黄色い警告ランプが足元を照らしている。ランプの明滅を見て、これから何か奇怪なものが現れる、僕はそんなことを考えた。

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