池に鯉が泳いでいる。

委員長

第1話 神戸元町、10センチの隙間

 大学に入ってから数えて最初の春休み、確か3月の下旬くらいだ。僕は神戸に引っ越した。元町商店街の西端のほど近くに建つ学生寮だった。部屋の割り当てについては引っ越しの当日になるまで聞かされていなかった。管理人の小柄なおじいさんに連れられ、行きついた場所は5階の角部屋で、僕は自分の足取りが軽くなるのを感じた。

 ドアを開けて中に入ると、一人暮らしにはあまりあるほどの玄関スペースが広がっていて、右に続く廊下には台所と洗面所があった。トイレと風呂は別にしてあり、廊下と奥の部屋は引き戸で隔てられている。部屋には大小2つの窓があった。小さいほうの窓は、隣に建つ高所得者向けのマンションに面していて、はめ込み式で開いたりはしない。大きいほうの窓は大通りに面していて、角部屋だけの特権としてバルコニーも備わっていた。大きな窓のそばに本棚つきの勉強机があり、ベッドは隣部屋とを仕切る壁に沿って置かれ、タンスは壁に埋め込まれていた。その他には何も用意されていない、簡素な部屋だ。壁は白くて、汚れひとつ、画鋲の穴のひとつも、見当たらない。机もベッドの躯体もフローリングも、木目調の薄いブラウンの色味で統一されていた。

 引っ越しの荷物整理がひと段落した頃にはもう、窓の外は薄暗かった。大通りをはさんだ向かいのビルは建設中で、灰色のカバーと鉄骨で覆われていた。大きな窓は西向きだったから、鉄骨の隙間を縫うようにして、陽光が部屋に差し込んだ。埃がオレンジ色に光って、部屋中に飛び散るのが見えた。この部屋にあって、この部屋のものすべてをのぞいたあとに存在する虚無が、実は虚無ではなかったということを知った。この部屋には質量をもった気体が充填されている。僕は肺がいっぱいになるまで、日の光の色をした気体を溜め込んで、それからどっと吐いた。胸の辺りがちくちくする感じがあった。これが神戸の空気なのだと、その場で理解した。その日のうちに、僕は肺の中にわずかながら残っていたふるさとの空気を、残らず神戸製のものと取り換えておいた。そうしないと、ここでの新しい生活が酷く息苦しいものになってしまう。それを見越しての行動だった。

 この部屋について、どうにも我慢ならないことがあった。大通りに面した窓が、10センチほどしか開かない。かつてこの寮で、窓から身を投げようとした者がいたらしく、以来そういうことが万一でも起きないようにするためだった。僕は、できるかぎりこの寮のしきたりに順応したかったし、反抗心を持つつもりなどなかった。実際、この寮は僕を温かく迎えてくれたし、これは後で語ることになるのだが、一年後に僕はここの寮長になる。寮のスタッフは僕に好意的だった。この大窓のことをのぞけば、何の不満もなかったのだ。

 神戸の海が暖めたぬるい空気が、海風となって湾岸のビル群をすり抜け、10センチの隙間を潜り抜けて、僕の部屋に入ってくる。埃が宙を舞って、窓の方へ流れていくのが見えた。大通りを走る自動車の騒音、神戸駅を出発したばかりの新快速がモトロクの高架を軋ませる。浜手からは阪神高速のロードノイズ、港に停泊している船が汽笛を高らかに鳴らすのが分かった。


<第2話につづく>

 

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