5

 先ほどまで下の階から響いていた生徒たちの話し声や足音は、聞こえなくなっていた。屋上の一つ下の四階は三年生のフロアだが、ほとんどの生徒はもう教室に残っていないようだった。

 復讐という物騒な言葉が出てきたので、周りが静かになったことを加味して、克己はやや声を潜めて話した。

「復讐って……?」

「真岳くんも十年前のバラバラ殺人事件のことは知っているでしょ。あれで殺された医者夫婦っていうのは、私の両親なの」

 バラバラ男と復讐というキーワードからその意味を推測することはできたが、実際に智佳の口から聞かされると、想像以上に衝撃的な発言だった。それだけでなく、克己は心臓が握られたような圧迫感のある痛みを感じた。おそらくそれは智佳が両親を失ったことを考えるたびに受ける痛みで、それだけ両親への想いとバラバラ男への憎しみが強いことが伝わった。

「でも、あの事件の被害者は、緒美音って名字じゃなかった気がするけど……」

 記憶を辿りながら、被害者の名字は緒美音ではなく道長だったはずだと、克己はほぼ確信していた。智佳はそんな克己を見て、感心したように頷いた。

「そう、殺された夫婦の名字は緒美音ではなく道長。でもこれは簡単な話なの。ただ単に、私の旧姓は道長だっていうだけの話。両親がいなくなって、私を養子として引き取ってくれた親戚の名字が緒美音」

「それじゃあ、帰って来たっていうのは……」

「事件が起きるまでは住んでいたから、ここが私の生まれ故郷だってこと。第一小学校知ってるでしょ?私、あそこにいたんだから」

 第一小学校というのは、板滝町立第一小学校のことだろう。朝影高校に近い場所にあるため、克己だけでなく、二年三組にもそこの卒業生は若干名いる。

「同じ小学校だったんだ。道長さんって人がいるなんて、気付かなかったな」

「同じクラスではなかったしね。私が転校したのも、入学してすぐだったし」

「確かに、そうか。事件が起きたのって五月だったもんね」

 あのときも、連休が明けて間もなく騒ぎが起きたということを克己は覚えていた。

あの年のゴールデンウィークには、家族四人で遊園地に行ったんだっけ――

「さすがね、真岳くん。被害者の名字だったり、起きた時期だったり、こんなに十年前の事件のことをしっかり覚えているなんて」

 智佳は克己を褒めるというより、嫌みを含んでいるように言った。

 克己は、智佳のその言い方から、克己がバラバラ男に対して詳しいこととその理由まで、智佳はわかっていることを察した。

「真岳善文って、あなたのお父さんよね?」

 やはりそうかと、克己はうなだれた。

 バラバラ男に復讐するなんて言っている以上、知らない方がおかしい。

「……そう、だよ」

 克己は絞り出すような声で答えた。

 真岳善文は、十年前のバラバラ殺人事件以降行方不明になっている克己の父親であり、さらに、警察が血眼になって捜索しているバラバラ殺人事件の重要参考人でもあった。


「お父さん、出張で遠いところでお仕事することになったから、しばらく家に帰ってこれないみたい」

 六歳のときに幸衣から言われたそのセリフを、克己は今でも覚えている。そのときの克己はその言葉を信じていたが、それからすぐバラバラ殺人事件の騒ぎが起きて、マスコミの訪問、学校や近隣住民からの冷ややかな視線、いたずら電話など異常事態が続き、本当に善文は仕事でいなくなっただけなのだろうかと疑いを持ち始めるようになった。

「後から知ったんだけど、実際母さんのところには父さんからメールが来てたみたいなんだ。事件当日の深夜に、仕事の関係で遠くに行くことになったからしばらく帰れないって」

 今度は克己が自分の家族の話をする番だった。智佳は真剣な表情で克己の話に耳を傾けている。

「仕事で遠くに行くって、父さん小学校の教師だったのにね」克己の口から乾いた笑いが漏れる。

 善文は、克己と当貴が第一小学校に通っていた関係で、より遠くにある第二小学校まで行き教師を務めていた。非常に責任感の強い真面目な性格で、同僚の教師や生徒だけでなく、保護者からも慕われていたという。

 だから幸衣も善文が嘘をついていることはわかっていたはずだった。そのうえ、バラバラ殺人事件に関わっていなかったとしても、不倫して駆け落ちした可能性すらある。

 それでも幸衣は善文のことを信じていた。善文は事件に巻き込まれて何らかの事情で帰ってこられないだけなのだと。いつか帰ってこられるようになった時のために、二人の息子を自分の手で育てようと決意したのだ。

 そんな母の姿を見て、克己はバラバラ殺人事件に関心を持つようになり、何か続報があるたびに善文の名前が出ていないかと調べるようになった。被害者の名前やその時期を覚えていたのもその影響だった。

「父さんの名前はテレビのニュースでこそ報道されなかったけど、ネットとか雑誌とかには載せられてた。もちろん犯人や容疑者とは書いてないけど、そう受け取られても仕方ないような書き方で。それが無くたって、父さんがバラバラ殺人事件のタイミングでいなくなったってことは、近所の人には筒抜けだったから」

 外を歩くたびに周りの人間が遠目にこちらを見ながらひそひそ話をしているのが日常だった。時にはマスコミが来て、「お父さんがどこに行ったか心当たりはある?」や「家でお父さんとお母さんが揉めたりとか問題が起きたりしなかった?」なんて、不毛な質問をされたこともあった。学校では露骨にいじめられたりこそしなかったものの、腫れ物に触るような扱いをされていた。

 そしてそんな扱いを受けるのはもちろん克己だけでなかった。善文の残した貯金がいくらかあったものの、幸衣は専業主婦を辞めてパートを始めていたため、精神的だけでなく肉体的な疲労も積み重なっていた。穏やかながらも芯の強い母親が日に日に疲弊していく様を、克己は横で見守ることしかできなかった。

「転校とか引っ越しとかは、考えなかったの?」

 智佳には克己のような痛みを共感する力はないが、同じようにバラバラ殺人事件によって被害を受けている身として、心の底から克己に同情していた。

「最初は考えてなかったと思う。母さんは、父さんが帰ってくる場所が必要だって言ってたし。でも最終的には、嫌がらせとかは無くなって、考える必要も無くなったんだ」

「それは、どうして?」

 ここまで来たら隠す必要もないかと、克己は一度大きく息を吸い込んだ。

「兄さんが、自殺したから」

「えっ……」

 智佳は目を見開き驚いた。善文のことなど、バラバラ殺人事件に関してはそれなりに調べているようだが、当貴のことまでは知らなかったようだ。

「なんだか、ごめんなさい。聞いてしまって」

「いや、いいんだ。もう十年も前のことだし。緒美音さんもご両親のこと話してくれたわけだしね」

 智佳は申し訳なさそうにしながらも、口を開いた。

「その、答えたくなかったらいいんだけど、お兄さんが亡くなったのは、やっぱり事件によるいじめが原因?」

「一応そうだったんじゃないかとは言われてるけどね」

 当貴は、善文がいなくなった数か月後に、第一小学校の屋上から飛び降りる形で自殺した。

 自殺した場所が学校であったこと、さらには何人かの生徒から当貴がいじめられていたことの告発があったことから、遺書などもなかったため、それが原因だと警察は判断した。いじめを行っていたとされる複数の生徒は、逃げるようにして家族ごと板滝町から離れた。

 克己は、当貴の自殺はいじめが原因ではないと思っていた。当貴が怪我をして帰って来たところを見たことがないし、なによりいつも一緒に遊んでくれていた、優しくて頼りになる兄がいじめられているところなど想像もできなかった。

 しかし、その原因がなんであれ当貴が死んだことは事実であり、克己の心に穴を空けたが、それ以上にショックを受けた幸衣の心は折れることになった。

「あのままだと母さんは壊れてしまって、引っ越すことも有り得たかもしれないけど、兄さんが亡くなったことでこれまで冷たくしてきた人たちが掌返すようにして優しくなってね。父さんが容疑者じゃなく重要参考人って扱いだったこともあって、家族が二人もいなくなった悲しい被害者として同情してくれる人が増えたんだ」

 幸衣が徐々に元気を取り戻したことにより、克己は日常に戻ることができたが、今でも幸衣の増えた顔のシワを見るたびにそのときの幸衣の痛みを思い出してしまうことがあった。

 克己は顔を上げて智佳を見た。智佳は目を伏せて悲痛な表情を浮かべていた。

「ごめん、なんか話が脱線しちゃったね。たぶん緒美音さんの言いたかったことって、父さんにバラバラ男の容疑がかかってるから、その息子である僕に何か知らないか聞きたかったってことだよね」

「いや、うん、まぁそうなんだけど。その様子だと、何も知らないみたいね」

「うん。ごめんね」

「別に、謝らなくてもいいけど……」

 智佳は克己の身の上話を聞いて、明らかに歯切れが悪くなっていた。

 克己は、ここでやっと智佳が克己に近づいてきた理由および初対面にしては攻撃的に接してきた理由――後者に関しては性格的なものかもしれないが――がなんとなくわかった。自分の両親を殺した男の息子かもしれないと考えれば、刺々しい態度になっても仕方がないだろう。

 ただ、痛みを共感する力を初めて共有できた相手が、自分を復讐のための情報提供者としてしか見ていないとしたら悲しかった。克己としては仲良くなれたつもりだったが、もしかしたら智佳は、克己がたいした情報を持っていないと知って距離を置くようになるかもしれないとすら思った。

「一つ聞きたいんだけど」智佳は気まずそうに目を逸らしながら言った。「その、お兄さんが亡くなったときには、オニは使えたってこと?前に似たようなことを聞いたときには、十年前くらいから使えたって言ってたけど」

「正直よく覚えてないんだ。使えたような気もするし、使えなかった気もする。それより」克己は聞き流しそうになった智佳の言葉を拾った。「オニって、なんのこと?」

「あ」と智佳は思い出したかのように言った。

「そうね、その説明もしなきゃ。というかその話が発端だったわけだし、真岳くんも気になるところよね」

 そう言って、智佳は左腕を床に平行になるように前に伸ばした。先週とは違って、包帯が巻かれている左腕を。

 長袖のブレザーを捲って肘まで見せると、左腕全体が包帯に包まれていることがわかった。

 智佳は右手を左手首に持っていき、丁寧に包帯をほどき始めた。途端に、重力に引っ張られるかのようにして包帯が下に伸びていったかと思うと――

 ぼとっ、という音がした。

 克己が音のした方に目を向けると、智佳の左手が落ちていた。包帯がほどかれている途中だったので、左腕と床に落ちた左手が、包帯でつながっているように見えた。

「これだけじゃないわ」

 驚きのあまり声の出せない克己を他所に、智佳はさらに包帯をほどき続けた――

 ぼとっ。ぼととっ。

 同じような音が連続でするとともに、包帯をほどかれた部分から順番に左腕の一部が床に落ちていった。

 肘まで包帯をほどくと、肘から先にあったはずの智佳の左腕は、十個ほどの包帯が巻かれた肉片として、その下の床に転がっていた。

「えっ、えーっと?」

 いったい僕は何を見せられているんだ?

 緒美音さんの手品か何かなのだろうか。それにしたって肘から先に何もないのは不気味だ。そうなると、初めからバラバラの状態だった左腕を包帯で固定していたということだろうか。いやでもそれなら、先週まで包帯の位置は逆だったことはどう説明する?

 先ほど智佳の怒っている理由がわからない時とは比べ物にならないほどのクエスチョンマークが、克己の頭の上に浮かんでいた。

 克己の不思議そうな様子を見て、智佳は満足げに頷いた。

「これが私のオニよ。つまり、私もあなたと同じように、不思議な力を持っているってこと」

「不思議な力って」克己は改めて床に落ちている智佳の左腕だった物を見た。「それはつまり、僕が人の痛みを共感できるのと同様に、緒美音さんも自分の腕をバラバラにできるってこと?」

「簡単に言えば、そういうこと。ただ、バラバラにできるのは左腕だけじゃないわ」

 智佳はそう言って、今度は自分の右手の人差し指を口へ持って行った。そして人差し指の爪のあたりを噛んだかと思うと、まるでボールペンのキャップを外すかのような感覚で、第一関節から先を外してくわえていた。

「ほんなかんひで」指をくわえたままだと喋れないので、右手の上に落とした。「ほぼ全身、バラバラにすることができるわ」

 克己は呆然となっていた。克己の痛みを共感できる力も超常的なものではあるが、智佳のものは目に見えてわかりやすい分、その衝撃も大きい。

「それじゃあ、僕があのゴミステーションで見たバラバラ死体のようなものは、緒美音さんがその力でバラバラになっていたということ……?」

「そうよ。やっぱりオニ感染者が相手だと、話が早くて助かるわ」

 智佳は右手の上に置いた指先を再び口にくわえて、元の場所に戻した。すると、磁石がくっつくような形で、元通りの人差し指になった。同じようにして、しゃがんで左肘を肉片に近づけて、左腕も元に戻していく。

 克己はもはやどこに驚けばいいのかわからなくなっていたが、智佳の言う新たな専門用語の方が気になっていた。

 オニの次は、感染者だって?そもそもオニって何かの質問にも答えられていない。

「さて」智佳は左腕が元に戻って問題なく動くことを確認してから、立ち上がった。「今度こそ、真岳くんもまだまだ聞きたいことがあるだろうし、行きながら話しましょうか」

 智佳は克己の横を通り、階段を降りようとする。

「行くっていうのは、どこに?」

 克己が聞くと、智佳が振り向いて、言った。

「紹介したい人がいるの。オニの専門家みたいな人。今から行くのは、その人の研究所」

 そのまま智佳が歩いて行こうとしたので、克己は「待って」と言って止めた。智佳は再び振り返った。

「その、今からどういうところに行くのかよくわかってないけど、僕がそこに行く意味はあるの?僕は、父さんのことについては何も知らない。緒美音さんの役に立つことはできないんだよ」

 自分で言っておきながら女々しい感じがして少し後悔したが、それが本音でもあった。

 智佳は、克己の言葉を字面通り受け取ったうえで、答えた。

「意味ならあるわ。だってあなたには、私のパートナーになってもらうつもりだから」

 役に立つかどうかはあなた次第だけど、と付け加えて、今度こそ智佳は階段を降り始めた。

「ぱ、パートナーって……」

 基本的には相棒という意味だろうが、異性に対して言うとまた違う意味になるのではないだろうかと、克己の中で余計な妄想が広がった。

 結局、頭の整理が追い付かないまま、またもや克己は智佳の後ろをついていくことになった。

 パートナーってことは、少なくとも僕は用無しではないらしい。

 先ほどまでとは違い、智佳の後ろをついていく克己の歩みは、少し軽くなっていた。

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