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「一段落目を読んでから、訳してみてくれ。えーっと、それじゃあ次は……真岳」

「…………」

「あれ?おーい、真岳。お前だぞ」

 克己を呼んでも反応がないため、國村は克己の席に近づいた。

 國村が横に来て初めて、克己は自分が当てられていることに気が付いた。

「えっ、あっはい。すみません。なんでしたっけ……」

「だから、枕草子の第三段を最初から読めって――」國村が克己の机の上を見てぎょっとする。「つーかお前、古典じゃなくて数学の教科書開いてんじゃねーか!」

 克己も國村の視線を追うようにして自分の手元を確認すると、確かにその教科書には、xだのyだのおよそ国語の授業では使われないであろう言語が羅列されていた。指摘通り、前の授業のまま教科書を変えていないことに気付く。

「すみません!」と言って克己が急いで教科書を取り換えると同時に、教室全体から笑い声が聞こえた。由利も後ろを向いて「何やってんの」と言いながらニヤニヤしている。

 克己は赤面しながらも、ちらっと智佳の方に目をやった。智佳は頬杖を突きながら克己とは逆方向を向いていたので、その表情は確認できなかった。

 なんか若干肩が震えているように見えるのは気のせいだろうか……。

 ちょうどそのとき、克己は智佳の体にいつもと違う点に気が付いた。智佳の頬を支えている左手に、包帯が巻かれているのだ。先週まではずっと右手に巻かれていたのに。

 そのあと、右手には巻かれていないことを確認した。さらに、脚も確認したところ――スカートから覗く太腿に目を向けているようで周りの目が少し気になったが――、先週まで左脚に巻かれていた包帯が、今日は右脚に変わっていた。

 緒美音さんの包帯の位置が、逆になっている……?


 智佳が何事もなかったかのように登校してきたこと自体は良かったが、その展開に理解が追い付かず、克己はその日一日まったく集中できていなかった。もともと授業中たまにうたた寝する程度の集中力ではあったが、今日に限っては教科書を間違えるなどという、普段は決してしないような小さなミスを連発してしまっていた。

 さらには、智佳の包帯が逆になっているという新たな謎が生まれ、克己の頭の中は完全に混乱していた。それでもなんとか、状況を整理することに努めた。

 まず、先週の金曜日の放課後に、マンションのゴミステーションで緒美音さんらしき人のバラバラ死体のようなものを発見した。翌日、バラバラ死体が見つかったらしいという噂を母さん経由で地獄耳の新橋さんから聞き、金曜の夜から警察が探しているようだった。そして月曜日になって、間土くんからバラバラ死体は板滝山で見つかったらしいという話を聞き、南戸さんや夜井くんの話から、警察はまだバラバラ死体を見つけられていないということがわかった。

 僕は、ゴミステーションで見つけたものと、噂になっているバラバラ死体を同じものだと考えていたが、まずそこが違うのかもしれない。そう考えれば、僕が見つけた場所と警察が探している場所が違うことにも納得がいく。しかし、犯人がゴミステーションから持ち出して板滝山に運んだ可能性だってある。

 ただやはり一番気になるのは、僕がゴミステーションで見たあれは、緒美音さんだったのかどうかということだ。バラバラになってたから仕方ないだろうが、顔までは確認できていない。バラバラになったおそらく元は脚だったであろう肉片に、包帯が付いているところを見て、緒美音さんを連想していた。そうなると、今日緒美音さんが登校してきたことと合わせて考えたとき、やはりあのバラバラ死体が緒美音さんではなかったと言える。

 けれど、今度は包帯が逆になっていることが気になってくる。先週まで包帯で隠されていた右手や左脚が今日は露わになっているが、自己紹介で言っていたような古い傷のようなものは見られない。あれはただの建前に過ぎず傷痕なんてないのかもしれないし、本当に傷痕があるのはこれまで通り変わらず巻いている額部分なのかもしれない。でももし傷痕があることが本当だとしたら、今日の緒美音さんは先週までの緒美音さんとは別人ということになる。

 つまり、今隣に座っている緒美音さんは、双子の妹かもしれない……。

 克己は、授業中ずっと、そんな妄想にふけっていたのだった。


 克己が智佳に気を取られている一方で、校内では一日中バラバラ男の話題で持切りだった。克己も学食に行くときなどに周りの話に耳を傾けていたが、今朝聞いた情報の信憑性が増したくらいで、特にそれ以上の新しい情報が入ってくることはなかった。

 結局のところ、板滝山寺でバラバラ死体が見つかったとされているが警察が調べたところによると未だそういった死体や血痕などの類は発見されず鋭意捜索中であり、事の始まりとなるバラバラ死体の噂の出処、すなわち目撃者や通報者もまた不明だという。見つかってもいないバラバラ死体の噂だけが独り歩きしているという輪郭が薄ぼんやりとした曖昧な話で、十年前にバラバラ殺人事件が起きた板滝町でなければここまで話題にならなかったに違いない。

 板滝山寺は板滝山の麓付近に位置している。朝影高校から歩いて三十分ほどの場所なので、今日は帰りに噂を確かめに寄っていく野次馬の生徒は多いだろう。地方の新聞記者なども来るかもしれないし、期せずして久しぶりに多様な観光客が訪れることになることを予測して、克己は小さくため息をついた。

 智佳はというと、我関せずといった様子で、先日図書室で借りた小説を読んでいた。克己は小説に詳しくないのでその作品を知らなかったが、タイトルに殺人事件が入っていたので推理小説だということは推測できた。推理ものが好きなら今回の噂にも興味を持ちそうなものだが、転校してきたばかりでバラバラ男の伝承も知らないであろう智佳からしたら、どうしてこんなに盛り上がっているのかわからないだろうと、克己は智佳の態度を特に気に留めなかった。

 智佳はそんな克己を横目にちらりと見て、すぐに視線を手元の文庫本に戻した。


 そして、帰りのホームルームで國村から改めてバラバラ死体の噂についての注意喚起がされ、放課後になった。

 克己としては、色々考えた末、まずは例のゴミステーションをもう一度見に行くことにした。犯人が持ち運んでいたり、見つけたマンションの住民が通報したりなどしてすでに無くなっている可能性は高いが、なにかしらの痕跡は残っているかもしれない。今一度冷静になって、あの場所を自分なりに調査してみることに決めた。

 さて、とはいえ、あの時は緒美音さんの後をついて行っただけだから、一人でたどり着けるかなと考えていた、そのときだった。

 克己の隣から、とても大きなため息が聞こえたのは。

「真岳くん、あなた、ヘタレなの?」

 克己はそのセリフが自分に向けられたものだと気付くのに数秒かかったが、その間も智佳は克己のことをにらみつけていた。

 智佳の言い方のあまりの刺々しさに、由利も驚いた顔で振り向いていた。

「ど、どーしたの智佳ちゃん。真岳になにかされた?」

「ごめんね、南戸さん。別になにかされたとかじゃないの」

 むしろされなかったというか、と小声で言ったのが克己には聞こえた。

「だけど、真岳くんにはどうしても言わなきゃいけないことがあるから。ほら、真岳くん」

 智佳は立ち上がり、顎だけ動かして教室の外を指し示した。その乱暴な素振りから、付いて来いという意図を汲み取ったので、克己も慌てて立ち上がった。

「そ、そーなんだ。なんか訳ありなんだね……」

 二人して教室を出ていく克己たちの背中に向けて、由利は小さく手を振った。先週の冷静さとは打って変わって激高しているような智佳の様子に、さすがの由利も少し動揺しているようだった。

 え、っていうか僕、もしかして今、怒られてる?


 ずかずかと階段を上がっていく智佳の後ろを、克己は戸惑いながらもついて行った。先日尾行したときのように足を引きずったりはしていないが、そのときと同じような速さで歩いていた。

 ひたすら上り続けて、屋上の扉の前に着いたところで、足が止まった。屋上は原則鍵がかかっているのでこれ以上進むことはできない。

 智佳もそのことをわかっているようで、屋上の扉には手を掛けずに、克己の方へ振り向いた。

「それじゃもう一度聞くわ、真岳くん。あなたヘタレなの?」

「ヘタレなのって聞かれても……」

 そもそも二回聞いてまで答えを求めるような質問なのだろうか。

 智佳がじっと睨みつけてくるので、克己は渋々答えることにした。

「どっちかというとヘタレかも、しれないです」

「どっちかというとでも、かもでもなくて、あなたはヘタレよ」

 智佳は食い気味にきっぱりと言い切った。もはや克己の回答内容はどうでもよかったようだった。

「あの、緒美音さん、もしかしてだけど、怒ってる?」

「その質問に意味はあるの?怒ってないと言って安心させて欲しいだけなんじゃないの」

 およそ怒っている人にしかできない回答だった。

 智佳の態度にまだ理解が追い付いていない様子の克己を見て、智佳は再び大きくため息をついた。

「どうして、聞かないのよ」

「どうしてって、聞くって、なにを?」

「どうして、金曜日にバラバラだったはずなのに、今日は普通に登校してきたのか聞かないのかって言ってんの!」

 声のトーンこそ大して大きくはなかったが、普段比較的淡々と話す智佳にしては、より感情的な発声だった。

「えっと、それはつまり、その」

 克己が智佳の言葉の意味を汲み取る前に、智佳は感情の赴くままに話し続けた。

「あなたがストーカーまがいなことをしてきたことに気付いたから、打ち明けるには良い機会だし、ついでに少し驚かせてやろうと思ってやったのに。それなのに、あの日走って逃げたことはともかく、今日顔を合わせても、一回も話しかけてすらこないなんて」

「いや、それはだって、普通に登校してきた女の子に、金曜日にバラバラになってなかった?なんて聞けないし……」言いながら、段々と克己の頭の中でも整理ができてきた。「つまり、僕がゴミステーションで見たあのバラバラ死体は、緒美音さんじゃなかったってことだよね。緒美音さんのいたずらか何かで――」

「いいえ、あれは私よ。間違いなく」

 智佳が克己の言葉を遮るように言う。またもや克己の頭の上にクエスチョンマークが浮かぶことになった。

「まぁ、そうなるわよね」智佳はそう言いながら、本日三回目の大きなため息をついた。

「まず、なにから説明したものかしら」

 もう気分も落ち着いてきたようで、智佳は普段通りの冷静さを取り戻していた。と思ったら、今度はクスクスと笑い出した。

「それにしても、朝、私が教室に入ったときの真岳くんの顔は傑作だったわ。あとは古典の授業のときに数学の教科書開いてたりとか」

 克己はそのときのことを思い出してまた赤面した。

 あのとき緒美音さんの肩が震えていたように見えたのは、笑っていたからなのか……!

 笑い終えてから、智佳は一つ深呼吸をした。

 そして、智佳はこれまでの経緯を説明し始めた。

「私は、バラバラ男に復讐するためにこの町に来た、いえ、帰って来たの」

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