5
翌日から、克己はより親しく智佳と接することができるようになった。
智佳の持っていない教科書を見せてあげるのはもちろんのこと、授業の合間の休憩時間には、その日の天気など世間話も気軽にできる仲になっていた。
克己としては、やはり自分の秘密を打ち明けた唯一の相手という点が大きく、智佳としてもそんな克己に対して、他の生徒よりも心を開いているようだった。
「真岳くん、図書室に案内してくれない?」
といった風に、克己を頼りにするようになっていた。
昼休みを告げるチャイムが鳴ってすぐのことだった。克己はバッグから財布を取り出して学食に向かうつもりだったが、その動作に入る前に綺麗に中断されてしまった。
「いいよ」と言って克己が立ち上がると、智佳は後ろをついて歩いた。
「本当は図書室の場所くらいは案内図見たらわかるんだけど、本の借り方とかわからないことが出てきたときに知ってる人が一緒にいてくれたら楽だと思って。真岳くんが私のお世話係みたいだしね」
お世話係という言い方に少し疑問を持ったが、実際國村にはそういう意図で指名されたので、特にそのことは指摘しなかった。
「といっても、図書室で本借りたことないんだけどね。せいぜいテスト前に自習するときに使うくらい」
「読書とかしないんだ」
「そうだね、漫画は好きだけど」
「ふうん。小説も面白いのに」
智佳が残念そうに呟いた。
克己も小説が嫌いではなかったが、苦手にはしていた。というのも、克己は登場人物に感情移入することが苦手だった。ただでさえ日常生活で人の痛みを共感しているのになぜわざわざ創作の世界でまで共感しなくてはいけないのか、という不満が心のどこかであるのかもしれない、と克己は自分で苦手とする理由を推測していた。漫画に比べて小説の方がより感情移入することを求められるため、進んで小説に手を出すことはなかった。
小説が好きであろう智佳に、自分の苦手な理由を説明するのもばつが悪いので、適当に話題を変えることにした。
「勝手なイメージで申し訳ないけど、緒美音さんはあまり人に頼らない人なのかと思ってた。自分一人でなんでもこなすタイプなのかなって」
「確かにどっちかって言うとそんなタイプだけど、意地っ張りってわけでもないわ。使えるものは使うタイプ」
「僕は今、緒美音さんに使われているわけだね」
「そうね」
揚げ足を取ったつもりだったが、意地悪く返されてしまった。まだ智佳と知り合って三日程度だったが、これまでの言動から智佳がサディストであることを克己は確信していた。
僕がドMなら、君はドSだよ……。
克己たちの所属する二年三組は三階にあり、図書室は一階にあるため、克己は階段を降りた。智佳は変わらず一歩後ろから付いてきていたが、二階の踊り場に着いたところで智佳が前に出て克己の横に並んだ。
「真岳くんから見て、私の印象って悪い?」
智佳は克己の左手に並んだ。今日も綺麗に巻かれた右腕の包帯が視界に入る。
「強くはあったけど悪くはないよ」
「そう。ならよかった。クラスの皆もそうであってくれたらいいんだけど」
智佳は安堵したように小さく笑った。
「周りの目とか気にするの?」
「少しね。無駄に敵を作りたくないから」
意外な答えだった。全身包帯まみれという目立った格好をしておきながら体裁を気にしている。しかし逆に言えば、目立った格好をしているからこそ人の目を気にしているのかもしれない。すなわち包帯は巻きたくて巻いているわけではなく、巻かなければならない理由があるということだ。
良い機会だと思い、克己は意を決して聞いてみた。
「その包帯って、本当に怪我のためのものなの?」
智佳は横目で克己の顔を見上げた。
「その疑問は、私から痛みを感じないから?」
「まぁ、その、うん、そうだね」
智佳には痛みを共感できる話はすでにしているのだからごまかす必要はないとわかっていても、まだ慣れていなかった。
「自己紹介のとき古い怪我だって言ったでしょう。だから今はもう痛みは感じないけど、傷痕を隠してる可能性もあるわけじゃない?」
「あー、そう言われれば」
痛みを感じないから怪我じゃないというのは、確かに安直な判断だったかもしれない。克己は反省して、納得しかけていた。
「あ、着いたよ」
一階の踊り場から右手に直進したところで、奥に図書室の入り口が見えた。本の借り方は知らないと言ったものの、念のため克己も智佳と一緒に中に入る。
しかし克己の心配は無用だった。図書室内の掲示板には、丁寧に本を借りるまでの流れがイラストを交えて記載されていた。
お役御免ということで、智佳と別れて学食に向かおうとしたところで、智佳が別れ際に口を開いた。
「そのうちわかると思うわ。私と一緒にいたら、ね」
智佳が妖艶な笑みを浮かべたので、そんな表情もできるのかと克己はどきりとした。
わかるっていうのは、包帯の理由のことだろうか。
図書室を出て食堂に足を運びながら、克己はずっと智佳の言葉の意味を考えていた。
つまり、やっぱりあの包帯は怪我を隠すためのものではなくて、何か別の理由があるってことなのか?だとしたら、いったいなんだろう。まさかファッションってわけじゃないだろうし。
食事中もずっと包帯の理由を克己なりに考えていたが、答えが見つかるはずもなく、智佳が最後に見せた蠱惑的な表情だけが思い出されて、ただただ悶々とするしかなかった。
そして、智佳の言ったそのうちは、想像以上に早く来ることになった。
それは、智佳が転校してきて五日目、金曜日のことだった。
智佳は、克己に対してだけでなく、二年三組にも馴染み始めていた。他のクラスならともかく、個性的な面子を揃えている二年三組だからこそ、常にハロウィンのコスプレをしているような装いの智佳を受け入れる土壌ができていたと言える。例え手村によって欠員が出なかったことしても、学校側は智佳を二年三組に編入させていただろう。すでに学校側に包帯の事情を説明しているのか、特に校則違反というわけでもないということもあり、その独特の装いを注意されることもなかった。
「智佳ちゃん、今日も購買?一緒に買いに行かない?」
席が近いので、由利も気軽に智佳に話しかけるようになった。
「ええ、いいわよ」
智佳と由利が並んで教室を出ていく姿を、克己は後ろから見守っていた。
智佳が他のクラスメイトとも話すようになってから、克己は智佳の不遜とも言えるような態度が誰に対してもほとんど変わらないことを知り、なにか衝突が起きるんじゃないかと気が気でなかった。
しかしとりわけ由利に関しては、誰にでも話しかけられる気さくさと、まったく痛みを感じない――少なくとも克己視点では――寛容さを持ち合わせているので、智佳とも問題なく付き合えているようだ。さらには、由利と智佳は二年三組の綺麗所トップ2の位置をすでに確立しているので、普段取り巻きのように由利と一緒にいる連中も、その二人でいるときは畏敬の念を込めて距離を置いているようだった。
なにはともあれ、緒美音さんがクラスに馴染めているようでよかった。
智佳の教科書も揃ってきたため見せることは無くなり、世話係としての役割も果たしたと言っていいい状況になって、克己は他のクラスメイトとは逆に、智佳と話す機会が少なくなっていた。
克己としては、それでも構わないと思っていた。痛みを共感する力とは関係なく争いごとが苦手な性格のため、何も揉め事が起こらず穏便に日常が過ぎていくなら、それに越したことはないと考えていた。
その日の帰りのホームルームが終わると、連休明け最初の週末だからだろう、生徒たちはいつも以上に喜びの色を見せた。
克己も周りの盛り上がりに釣られそうになったものの、休みだからといって特にやりたいことがあるわけじゃないということを思い出し、冷静になった。五連休もあったゴールデンウィークですら、家で漫画を読んだり映画を観たりすらしかしなかったのだから。
とはいえ久しぶりの学校に体も疲れを感じており、克己は座ったまま大きく背伸びをした。ちらっと横の席を見ると、智佳は帰り支度を終えて席を立つところだった。
「またね、真岳くん」
「うん、またね」
机の間を縫うように進んでいって、智佳は一人でそそくさと教室を出た。
緒美音さんは休みの日に何してるんだろう。
まっすぐ家に帰っても暇なことに変わりはないので、学校の帰り道に、なにか適当な映画でも借りようと駅前のビデオレンタル店に立ち寄った。暴力的なものや感動させられるものは苦手なため、いつも通りコメディのコーナーに向かう。
今日と合わせて一日に一本見る計算で、三本の映画を借りることにした。棚に並んだパッケージの背表紙をざっと見渡すと、気になっていたシリーズ物の作品がちょうど1~3まであったので、それにした。マッドサイエンティストによって虎にされた主人公が、人間だったときの友達や恋人に恐れられながらも、同じく動物にされた元人間たちと仲良く過ごすという、なんだかいろんな作品をごちゃ混ぜにしたようなジャンクフード臭がする作品だ。こんな作品が三作も続いているということに克己は前から興味を持っていた。
店を出てふと正面を見ると、青信号に変わったばかりの横断歩道を渡っている、朝影高校の制服が見えた。
あれ、緒美音さんじゃないか?
克己もさすがに智佳の姿形を完全に覚えている自信はないが、朝影高校の女子用のブレザーにあの小柄さ、それになにより頭の包帯。十中八九智佳の後ろ姿だと言い切れる自信があった。
克己の帰り道と方向が同じだったので、最初は自然と後ろを付いていく形になった。もしかして智佳もすれ違うようにしてビデオレンタル店にいたのだろうか、くらいのことしか考えていなかった。
しかし、克己の進行方向とは逆向きに智佳が進むと、克己の中で好奇心がむくむくと湧き上がってきた。
少しだけ、後をついていってみよう。
ストーカー扱いされて嫌われたくはなかったので、バレることを前提に、隠れることなく智佳の後方3メートルくらいの距離を保って歩いた。もし智佳が振り向いて克己に気付いたら、「たまたま見かけたから」と謝れば済むだろうと考えていた。
いやでもどうだろう。緒美音さんのことだから手痛い仕返しをしてくるかもしれない。
智佳のサディストな面を思い出し、適当なタイミングでずらかろうと決めたときだった。
智佳の後ろ姿に異変があった。
突然前のめりに倒れそうになったかと思うと、右脚を前に出して踏ん張った。そのあとには、包帯が巻かれた左脚をほとんど曲げずに引きずるようにして歩き始めた。
さらに今度は、左手で右腕の肘辺りを掴んでいた。おそらくその服の下には包帯が巻いてあるのだろう。
もしかして、包帯の下の怪我が痛むのか……?
ただその様子を見ている克己には、智佳の痛みを共感できなかった。由利と違って智佳の痛みは共感したことがあるから、今回痛みを感じないということは、智佳も痛んでいないはずだと考えられた。
とはいえ、その痛々しく歩く姿は見るに堪えないので、克己は近づいて声をかけることにした。ストーカー扱いされるなどと考えている場合ではなかった。
しかし、克己が小走りで智佳に近づこうとすると、引き離すようにして智佳もまた速度を上げた。左脚を引きずって右腕を抑えながらという不格好な歩き方だが、競歩のようなスピードが出ていた。
焦っている?何かから逃げているのか?まさか僕から――
いや、それはないと克己は首を横に振った。克己の存在に気付いたうえで付いて来てほしくないならば、それを伝えればいいだけなのだから。それすら躊躇するほど、智佳が克己を苦手としているとは思えなかった。
それじゃあ、なんで急いでるんだ……?
駅前の二車線の大通りをしばらく歩いたあとに横にそれて、有刺鉄線で囲まれた工場をなぞる細い道を抜けて、颯爽と視界の広がった田んぼを突っ切った道を進み、碁盤の目のように入り組んだ住宅地に入っていった。住宅地に入ってからは角を曲がるたびに智佳を見失い、当てずっぽうで進んだ先で智佳を見つけることを繰り返していたが、それが成功したのはせいぜい二回で、ついに三回目には完全に智佳を見失ってしまった。
大通りから自分の家とは逆方向に進んできていたので、克己にとっては未開の地に一人取り残されたような気分だった。いつの間にか智佳を追うことに必死になってしまって、自分がどう歩いてきたのかも覚えていなかった。ふと顔をあげると電柱にイラストの付いた紙が貼ってあった。小さな女の子の後ろにいる黒い影に赤いバツマークを付けて「ストーカーに注意!」と書かれているものだった。
なぜこんな取り憑かれたかのように追いかけてしまったのだろう、こんなことになるなら、最初から走って追いついてしまえばよかったと、克己は自分の行動を後悔した。俯きながらスマートフォンを取り出し、帰り道を確認しようと地図のアプリを起動した。
俯いた拍子に、目の先にあった曲がり角付近の道路上に何か白いごみのようなものが落ちていることを発見した。近づいて見てみるとそれはちぎられた白い布のようで、曲がり角の先を見ると別の似たような破片が点々と続いていた。それがほぼ一定の距離で落ちているので、まるでヘンゼルとグレーテルの白い石のように思えた。導かれるようにして、克己はその跡を辿った。
よく観察してみると、その白い布の破片は、ちぎられた包帯のようにも見えた。包帯となると連想されるのはもちろん智佳なので、おそらくこの先に智佳がいるのだろうと推測できた。
それならどうして自分の位置を教えるような小細工をする必要があるのか。なにか自分を見つけて欲しいという事情があるのだろうか。
先ほどのストーカー注意喚起の張り紙が脳裏に映し出される。
もしかして、誘拐……?
考えれば考えるほど、悪い想像ばかりが頭に浮かんだ。もはや克己の頭の中では、見失ったタイミングで智佳が何者かに誘拐され、誰かに自分の居場所を教えるために包帯をちぎって落としているとしか思えなくなっていた。
見失ってからはまだそんなに時間が経っていない。
克己は今度こそ走って、包帯の道標の上をなぞった。
百メートルほど走ると、包帯の破片は道沿いのマンションの前で消えていた。見上げると五階建ての赤レンガ柄のマンションで、正面玄関はオートロック形式になっていた。
智佳はここに連れ込まれたのだろうか。となると、まずは警察を呼ぶべきか。
次なる行動を考えつつ、マンションの玄関の方に目をやると、包帯の破片はその手前にも落ちていた。そこにはちょうどステンレス製の倉庫が建っている。人が4,5人くらいは入れそうな大きさだ。物置かと思ったが、可燃ごみの回収曜日やゴミの分別方法などが書いてある張り紙が何枚も貼られていることから、それが大型のゴミステーションだとわかった。
ゴミステーションの扉の前まで来て、克己は息を呑んだ。この戸を開けた先に智佳と誘拐犯がいるかもしれない。そう考えると、戸を開けようとする手が重くて上がらない。まずは先に通報するべきなんじゃないかと、頭の中で別の自分が囁く。
いやだめだ、と克己は引き戸に手を掛けた。
緒美音さんがこの中でひどいことをされる可能性がある以上、もたもたしていられない――
引き戸を開けると、まず最初に生ごみの臭いがして、顔をしかめた。張り紙に可燃ごみの収集日は金曜日と書かれていた通り、室内のごみはほとんど回収されてはいたが、ごみの臭いはまだ残っていた。
ただ、ごみ以外の物もあった。
最初に目に入ったのは靴だった。黒色の地味なローファーで、サイズが小さいことから女子学生のものだと推測できた。それだけなら靴がそのまま捨てられたと解釈できたが、問題はそこに並んでいるものだった。ローファーの隣には白いソックスに包まれた足が落ちていた。それは足首からつま先までしかない、文字通りただの足そのものだ。残りの足の付根から足首までの脚は、足首の横に丁寧に輪切りにして並べられていた。そこから先の、おそらく元は人間の体であったであろう物は、下手くそなみじん切りのように無造作なサイズに切られて、煩雑に並べられていた。
すでに克己の中では、誘拐犯がいるかもしれないという緊張感は無くなっていた。あるのは声も出せないほどの驚愕と恐怖だった。
後ずさりしながらも、克己は目の前にあるバラバラの肉片から目を離すことができなかった。本当はすぐにでも目をそらしたかったのに金縛りにあったように目線を動かすことができなかった。
じっと肉片に目を向けていると違和感を覚えた。その形から人間の体がバラバラにされたのだと推測できたが、切り口の断面図がまったく赤くないのである。それどころか、どこか切断面なのかわからないほど、すべてが肌色だった。まるで最初からそういう物であるかのように。
さらに克己は、そのバラバラの肉片に、変な筋のようなものが入っていることに気づいた。克己は恐怖を忘れ、今度は意図して肉片に顔を近づけ観察した。そして、それがなにか判明した瞬間、克己は後ろを振り向き即座に駆け出していた。
克己は悲鳴を上げずにただ黙々と必死になって走った。すれ違う人たちが不審に思って振り返ることも気にならなかった。もっと早くに感じるべきだった恐怖が時間差で一気に噴出されたような感覚だった。
克己は無我夢中で走ったが、思考を止めることはできなかった。ゴミステーションで見た光景が脳裏に焼き付いて剥がれない。
あれは、包帯だった。バラバラになった肉片に付いていた妙に白く変な筋の入っているものは、包帯だった。包帯は肉片のほぼ全てに付いていた。すなわち、バラバラになる前は全身がほとんど包帯で巻かれていたということだ。
克己の知る限りそんな人物は一人しかいない。先程までそのあとを追いかけていたのだからなおさら連想せずにはいられない。
どれだけ走り続けても、克己の中で導き出された結論を消すことはできなかった。
緒美音さんは、体をバラバラにして殺された。
それはつまり、バラバラ男が板滝町に帰ってきたということだ。
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