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朝の六時五十分。
目覚ましを設定せず、そのうえで起きられなかった場合でもおそらく母親が起こしに来てくれるだろうが、克己はそのことに抵抗を覚えていた。だからこそ、いくら習慣づいても目覚まし時計のアラーム設定をやめるつもりはなかった。
寝間着姿のまま顔を洗うために洗面所に向かったところで、ちょうど顔を洗い終わった母親の
「おはよう、克己。相変わらず朝早いね」
「おはよう。母さんには負けるけどね」
克己が幸衣を避けるようにして洗面所に入ると、幸衣は何か言いたげな様子を見せたが、そのまま台所へと向かった。
真岳家は、長い間克己と幸衣の二人暮らしだ。克己は二人だけしかいないことにはすでに慣れていたが、幸衣はいまだにわからない。そんな母に対し克己は、一人で自分を育ててくれていることに尊敬の念を抱いているからこそ余計な心配をかけたくないという気持ちと、中高生特有の第二反抗期が重なり、微妙な距離感を保つようになっていた。
身支度を済ませ、七時半丁度に居間に向かうと、幸衣が茶碗に白飯をよそっているところだった。まれに体調が良くないときを除けば、ほとんど毎日七時半には朝食の用意が終わっていることは、ルーチンワークと片付けるにはあまりにも驚異的だ。
「朝が和食だなんて、珍しいね」
ご飯と味噌汁と納豆、それにだし巻き卵に大根おろしと、それだけ見れば平凡な和風の朝食だが、普段朝の主食がパンの真岳家では目新しかった。
「だって、白米が好きだったでしょ、お兄ちゃん」
「…………」
チクリと安全ピンの針が刺さったような痛みが克己を襲った。
「ほら、もう十年になるでしょ。そう考えると無性に和食が食べたくなっちゃって」
唐突な痛みを受けて眉間にしわを寄せた克己が、反応に困っているように見えたので、幸衣は焦って補足した。
「……ああ」
納得いったところで、克己は箸を手に持った。
ちらりと幸衣の寝室になっている和室に目を向ける。襖が閉じているため見えないが、そこには仏壇が置いてある。今から約十年前に亡くなった、兄の
もう十年も経ったのか。自分と母さんが二人暮らしになってから。
当貴の死を悼む幸衣に横目に、克己は黙々と箸を口に運んだ。
「行ってきます」
玄関から声を投げかけると、洗い物をしていた幸衣が顔だけ出して答えた。
「行ってらっしゃい」
克己の通う朝影高校は、家から歩いて二十分ほどのところにある。自転車を使えば時間を半分ほど縮めることもできるが、特別急ぎたい用事があるとき以外は歩いて通学していた。
春というイメージ通りの晴れやかな朝だったが、五月になったというのにまだ風は冷たく、気温だけだと冬の晴れ日に思えた。そういった天気や気温の機微を感じ取りやすいのも、徒歩通学の魅力だと克己は考えていた。
学校に近づくにつれて制服の数が増えてくる。朝影高校は最寄り駅が徒歩で十分ほどの距離にあるので、電車で通学している生徒も多い。そのため学校近くの歩道は生徒たちで埋め尽くされる。
克己も例に漏れず、家を出てすぐに、群衆に紛れて登校していた。
なんだか、嫌な予感がする。
それは克己の直感だった。まったく根拠のないものだが、悲しいことに克己のそれは当たることが多かった。
二車線道路の歩道を埋め尽くす学生の中で、車道側の歩道上で揉めている、というよりはじゃれ合っている男子生徒たちが目についた。何が面白いのかは分からないが、二人で笑いながら体を突き飛ばし合っている。
しまった、と克己は目を伏せようとしたが、もう遅かった。
突き飛ばされた男子の半身が車道側にはみ出たと同時に、後ろから走っていた自転車がその男子に直撃した。自動車ではなく自転車であったこと、ぶつかる直前に自転車側が急ブレーキをかけたこと、直撃したのが体ではなく左腕だけであったことなど幸運が重なり、大事にならずに済んだ。
自転車に乗っていた学生も、ぶつけられた側の学生も双方に謝罪し、事は穏便に済んだように思われたが、同じタイミングで苦痛に顔を歪ませていた男がいた。
大丈夫、この痛みなら多分折れてはいない。青あざはできてしまうかもしれないけど。
冷静に怪我の分析を行いながら、克己は周りに自分の異変を悟られないよう、さりげなく左腕をさすっていた。
その後は特に問題なく、学校にたどり着くことができた。
朝影高校には下駄箱がないので、土足のまま教室へ向かう。連休明けではあったが、最近になってようやく一年生だったときの習慣が抜け始め、教室が三階だということを体が覚えてきていた。
克己が二年三組の教室に入ると、いつもと変わらない、個性的なクラスメイトたちが顔を揃えていた。
黒板を使ってフランス語の練習をしていたり、色とりどりのボールペンで自分の手の甲を刺してカラフルなほくろを作っていたり、机の上に新聞を大きく広げて読んでいたり、バスケットボールでパスし合ったりなど、皆自由奔放に振舞っている。
教室の場所だけでなく、この光景を相変わらずだと馴染み始めている自分に、克己は恐怖を覚えていた。
克己の席は窓際の前から四番目にあった。席に近づきながら、その隣の席に目を落とす。机の中には何も入っておらず、まるで机の上に目に見えない花瓶が置かれているかのような寂寥感をまとっていた。
克己が自分の席に腰を下ろすや否や、前の席に座っている女子生徒が振り向いた。長い黒髪がなびき、甘いシャンプーの香りが辺りを漂う。
「おはよー真岳。久しぶり」
「あ、おはよう」
由利はわかりやすいくらいに美人だった。クラスに一人はいる可愛い子という次元ではなく、テレビで女優やモデルと並べて映されてもなんの遜色もないレベルだ。他の学年はもちろん、近隣の学校でも話題に上がることがあるという。
そのため、由利が克己に話しかけるたびにクラスの――主に男子の――注目を浴びることになることから、克己はなるべく素っ気なく返すことを心がけていた。もともと克己の方から話したいこともないため、それは難しいことではなかった。
ただ、克己が由利に冷たく接しようとする理由はそれだけではなかった。
由利は体ごと克己の方に振り向いて、背中を窓に預けた。どうやら話を続けるつもりのようだった。
「実は昨日悲しいことがあってさー今日は気分が重いんだよね」
克己はなにも相槌を打たなかったが、由利はそれを気にする様子もなく、続けた。
「昨日からうちの犬がどこ行ったかわからないんだよねー。ペペっていうチワワの可愛い子なんだけど。犬飼ってるって話したことあったっけ?」
「いや、ないと思う」
「半年くらい前から飼い始めたんだけどね、すっごく可愛んだよ。ほら」
由利がスマートフォンの画面を克己に突き出した。おそらく自撮り写真なのだろう、そこには由利とチワワのツーショットが映し出されていた。
「ね?」と由利に同意を求められたが、克己には、由利の頬を押し付けられているチワワが、迷惑そうな表情を浮かべているように見えた。それはそれで表情豊かで可愛いと言えなくもないが、そのまま伝えるわけにもいかず、曖昧に頷いておいた。
満足そうな表情でスマートフォンを手元に戻すと、由利は「家族同然に大切にしてたんだけど」と続けた。
由利が黙ったので、さすがの克己も「逃げ出したの?」と先を促した。
「そうなのかなぁ。散歩がてらスーパーに買い物に行って、店の前で待たせといたんだけど、出たらいなくなっちゃってて」
「リールとかで縛ってなかったの?」
「一応近くの電柱に縛ってたけど、そんなにきつくはやってなかったから、ほどけちゃったのかも」
「それは心配だね……」
克己が心配している素振りを見せると、対照的に由利は明るい笑顔を見せた。
「まっ、初めてのことじゃないんだけどねー。ぺぺは賢いから、緩く結ばれてると自分でほどいちゃって一人でどっか行っちゃったりするの!今回でもう三回目くらい。すごくない?」
すごいというか、それはぺぺが懐いていないだけなのでは。
それももちろん言えるはずもなく、克己はただ「そうだね」と愛想笑いを浮かべるしかなかった。
時刻は八時半になり、予鈴が鳴った。各々好き放題していた生徒たちは席につき、由利も体を前に向けた。
克己は、由利に聞こえないように小さく嘆息した。
また、反射的に心配してしまった。
克己が由利と話すようになったのは数日前からだったが、由利が今のように自分の不幸話を友人などに話しているところは何度か見かけたことがあった。その中にはドラマを録画し忘れた、お気に入りの消しゴムを無くしたなど些細な事柄が多かった。そして話を聞いた由利の友人が励ましや慰めの言動をとると、由利はドラマのワンシーンのような整った笑顔で感謝の言葉を述べるのだった。
そういったことから、今回の件も聞き流していいものだと克己は考えていた。実際に飼い犬がいなくなったとなればドラマの録画忘れなどとは比べ物にならないくらいの事件ではある。そこで同情の意を示さないとなると由利に嫌われることになるかもしれないが、むしろ克己にとってはその方が都合がいいとさえ思えた。
にもかかわらず、由利が不幸話を披露するたびに、その無邪気な言動に釣られて、克己は毎回いつの間にか普通に心配してしまっていた。
結局のところ、由利のファンを自称する男子と自分は変わらないのだと、しばしば自己嫌悪に陥るのだった。
担任教師の
國村は静かになったことを確認して満足そうに笑い、ホームルームを始めた。
「今のクラスになってもう一ヶ月経ったから、皆もそろそろ新しい環境に馴染めてきた頃だと思う。先生もやっと半分くらいの生徒の顔と名前が一致するようになった」
「半分だけかよー」一人の男子がツッコミを入れると、教室が笑いで沸いた。
「連休中に忘れちまったんだよ」と國村も笑顔で返した。
國村は克己たちが入学したときから国語の担任教師だったため、本来ならばとっくに生徒の顔を覚えていてもおかしくないはずだが、自分の物覚えの悪さを自虐ネタとして用いることが鉄板になっていた。
「そこでだ。先週も言ったが、今日からこの二年三組に新しく転校生が来ることになった」
「先生―、初耳でーす」
「え、そうだっけ?」
一瞬不安気な表情を見せた國村はクラス委員長に目を向けた。女子の委員長である
「やっぱそうだよな。おいおい、先生を騙そうとするのはいいが転校生にはやめておけよ」
今度は教室内がざわつき始めた。
「やっぱさ、今の時期に転校生って珍しくない?」由利もまたざわめきに乗じて克己に話しかけた。
「たぶんみんな同じ疑問を抱いていると思うよ」
朝影高校は公立高校ということもあり、転校生が来ることは滅多にない。さらに、来るとしても学期の始まりなどなにかしらの節目の時期が定番だが、今回は五月という少しずれた時期の転校なので、いじめなどのなにかしら問題があった生徒なんじゃないかと推測が出回るほどに、誰もがそこにどんな理由があるのか気になっていた。
しかし克己は、転校の理由よりも転校生がどこに座るのかが気になっていた。克己は改めて右隣の席に誰も座っていないのを見て、ここでもまた嫌な予感がしていた。
「はい、じゃあ早速だが、入ってきてくれ」
國村が教室の戸に向かって声をかけると、引き戸を開けて、一人の生徒が入ってきた。
その風貌を見て、克己を含め、教室内の生徒は揃えて息を飲んだ。
一言で言ってしまえば、見るも痛ましい重傷者だった。学校規定のブレザーやスカートから女子生徒で、その背丈から小柄だということはすぐに判断できたが、顔の額部分およびブレザーとスカートから伸びている首や右手、左脚が包帯で隠されていた。いじめが原因で転校してきたのではないかと推測されていた手前、その姿はさらに凄惨な状況を連想させ、生徒たちに異様な緊張感を与えた。
転校生はそんなクラスの雰囲気を意に介さないがごとく、表情を変えずに國村の横に立った。
「じゃあ、簡単に自己紹介してくれるか」
國村が促すと、転校生は小さく頷いて、口を開けた。
「
見た目に反して芯の強い、はっきりとした声だった。丁寧な言い方ではあったが、この包帯について詮索するなという強い要望がクラス中に伝わった。
「二年三組にようこそ」
そう言って國村が拍手したことを皮切りに、静寂だった教室内は拍手の音で包まれた。驚きはしたものの、これは確かに二年三組に来る人材だと誰もが納得した。
「さっきも言ったとおりみんな新しいクラスに馴染んできただろうから、緒美音もすぐ馴染めるよう協力してあげてほしい。それじゃあ緒美音の席だが」
國村の目線が迷いなく克己の隣に向けられる。そこにすると最初から決めていたかのように。
「今は真岳の横が空いてるから、とりあえずそこに座ってくれ。前から四番目の、窓から二番目のところだ」
國村が席を指差すと、智佳は小さく頷いて席に向かった。
やっぱりそうなるのか、と克己はうんざりした表情になることを隠せなかった。由利がひゅうと小さく口笛を吹いた音が聞こえたことも、克己の嫌な気分を助長した。
克己が顔を上げると、ちょうど隣の席に座ろうとしていた智佳と目が合った。智佳が小さくお辞儀をしたので、克己も倣うようにして返した。
怪我を隠すための包帯と聞いて、正直なところ克己は智佳と目を合わせることに抵抗があったが、実際にそうしてみて、克己は違和感を覚えた。
この包帯は本当に怪我を隠すためのものなのだろうか。
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