第56話 犬先輩とヴェールヌイ、メシ食って寝る話
8月30日、金曜日、午後7時。
自宅へ帰りつき、後ろ手で扉を閉め、ふうと息を吐く。
イヌガミであり、柴犬でもあるセトもふぅん、と鼻を鳴らした。軽く彼の頭を撫でると、気持ちよさそうに目を閉じた。
上がる前にセトの足を拭いてやる。丁寧に拭ってやらないと部屋が砂でザラザラになる。そうして自分も靴を脱ぎ、廊下を抜け、居間に入る。
ケイを取り巻くすべての事件はひとまずはすべて解決された。
そのついでに、
申し遅れました。
「キミヒラお兄ちゃん、おかえりー」
「ただいま、ヴェールヌィ」
先に帰ってきていたらしい義妹と挨拶を交わす。彼女は白のワンピースに裸足だった。ソファーにだらしなく寝ころんでいるためワンピースのすそが微妙に捲れ上がり、白のフルバック女児パンツがちらりと覗いている。
彼女の見た目は、十歳にも満たない銀髪の幼女である。
あくまで、見た目は、だが。
白い肌、ペタンコ胸にイカ腹、保護欲を掻き立てる完全なる幼児体型。
年齢不詳。知ったところで無意味。年齢の概念そのものがない。
特筆すべきは顔立ちか。長いまつ毛。柔和で、それでいて物憂げな瞳。人形のようなちんまりと愛らしい鼻筋。
するりと頭を撫でると見た目の通り普通に甘えてくる。親に愛される子どものように、どんどん甘えてくる。
それはともかくとして、この子も
え? 自らを混沌と認めると、心の重圧に負ける?
それは一巡前の
わたしはヴェールヌィの頭を優しく撫でてやる。彼女は気持ちよさそうに目を閉じてこちらへと身体を寄せてくる。まるで子犬のようだ。
可愛い。この世のものとは思えぬほど。そして実際、この世のものではない。
ナイアルラトホテップの顕現体の一番の特徴。それは、まるで黄金比に祝福でもされたかのような、自分で言うのもおかしな話、怖いほどシンメトリックで整った顔立ちが挙げられる。APP18。十億人に一人いるかどうかの美少女。むしろ美幼女。混沌たるや、その極みが一つ、憑依型顕現体。
それが、ヴェールヌィ・ウラジミーロヴナ・ナボコワ。旧名は、響。
設問。さて、ここまでだらだらと何が言いたいのか。
回答。あの子は自分というものをよく理解している、ということ。
結論。つまりあれは、こちらに下着を見せつけるためにわざとやっている。
まあ、うん。可愛いは正義だろう。あざといのも正義……かな?
まず、肩幅が微妙に広くなる。肋骨が内向きから外向きに。
骨盤腔が狭くなり、恥骨下角の角度が大体20度ほど横に緩やかになる。
また、仙骨の幅が狭く、そして長くなる。内股気味の大腿骨が、外側に向く。
女陰から男根へ。卵巣は睾丸へと役割を変えて、股下に露出する。
筋肉量にも劇的な変化が起きる。
皮下脂肪量がみるみる内に減少し、反比例して筋密度がぐんと高まってゆく。
豊満だった胸が萎み、同時に、尻の厚みも失われていく。
ほっそりとしていた腰回りが筋肉で覆われて、胴のラインが直線的となる。
「あ、あ、んん。あれ、声が元に戻らない。あー、あー、んん、よし、戻った」
首筋をさすって平らだった喉元に、男らしい喉ぼとけを呼び寄せる。
ちなみにこれは精神的なトリガーに過ぎず、別に指パッチンをしなくても自然と神気発動して好きなように原因を伴わない結果を呼び寄せることができる。それはいいとして、着ていた女生徒用学園制服を、男子生徒用へと変容させる。
「今日も、無事終わったな……腹減った」
「ねえねえ、キミヒラお兄ちゃーん。ねえねえー」
「んー」
「おなかすいたー」
「俺も腹減った」
「今夜は何食べるの?」
「金曜日とくればカレー。これ、海軍の掟」
「わかんないけど、わかったー」
聞き分けの良い子だと思うだろう。しかし油断すると何をしでかすか分からないデンジャーな幼女でもあった。要は、こいつの精神性は、基本的に子どもなのだった。
「ソムチャイさんとこのタイカレーでいいか。ヴェールヌィ、出前アプリで注文しな。わかってると思うが、いつぞやみたいに全品注文はするなよ?」
「もー、わかってるよぉ。あれは若さゆえの過ちなの。エビのアヒージョとワニのから揚げをサブメニューから選んでも良いよね。あと、カレーは激盛り」
「若さってお前……まあ、いいや。量については好きにせえ」
見た目が完全に10歳にも満たない幼女で若さゆえの過ちとか、事情を知ってるからこそツッコミ程度で済ますが、第三者が聞いたら失笑ものだろう。ついでに言っておくと、こいつは健啖家だ。その身体のどこに入るのかと
ヴェールヌィはウー〇ーイーツ経由で注文して、確認のため俺にスマホ画面を見せた。カレー激盛りは約六人前である。量的換算、ご飯だけで二キロ。ちなみに俺は並盛り。この異常な食欲幼女に対抗するつもりなど微塵もない。ここに恵一くんがいたら並盛りより少ないレディース盛りを注文しているんじゃないかなと思う。
しばらくニ〇テンドースイッチで二人して遊んでいるうちに待望の夕飯がやってきた。腹はこれ以上なく減っている。ゲームを放り出して喫食に入る。
「今日のは一段とからーい!」
「前は何を頼んだっけ。まあ、タイのグリーンカレーはそういうものやねん」
「でも、すっごくおいしーい!」
「そらよかったなー」
「店主のソムチャイさんってさー、お店で食べるときキミヒラお兄ちゃんのお尻の辺り、じーっと見るよねー」
「言うな。俺は美少年はイケても、さすがに普通のオッサンは無理や」
「にゃはは」
モリモリ食べる。テーブルに鎮座するヴェールヌィの六人前激盛りカレー。俺の並盛カレー。エビのアヒージョ二人前。ワニのから揚げ三人前。変わらぬ吸引力。目の前の幼女、口の周りを食べ物でビチョビチョにしながらもひたすら食べる。
「ねえお兄ちゃん」
「その前に、口、拭いたろか」
「あ、んー」
返事を待たずにキッチンペーパーで口を拭ってやる。唐辛子にやられたのか口の周りがほんのり赤い。まあ、じきに治るだろう。
「あのねあのね。わたしのこと、愛してる?」
「モチのロンや。
「うん」
「ねえねえ、お兄ちゃん」
「うーん?」
「ハーフジェミニちゃんは、真なるジェミニちゃんに
「ああ、ケイは男女合一の、真なるシュブ=ニグラスと
「ねえねえねえ、お兄ちゃん」
「なんやー?」
子どもとは質問ごとがあると幾らでも訊いてくる。空気なんて読まない。
これをウザいと思わず相手してやれるかどうかで、その子どもの将来的な性格が左右する気がする。もちろん、ヴェールヌィの正体は混沌のナイアルラトホテップが一顕現体であって、子どもなのは見た目だけなのだが。
「あのね、どうしてジェミニちゃんに犯人を捜させないよう邪魔したの?」
「どうしてって訊かれても、そらもうアレやで……」
俺は、カレースプーンを置いた。
ケイは妹の恵を殺した犯人を心の底から恨んでいた。とある警察高級官僚の莫迦息子がやらかして、その莫迦の親が国家権力を悪用して証拠をすべてもみ消していた。勘違い上級国民の醜さ極まる愚行である。一族郎党、万死に値する。
とはいえ。
本来、警察は世間で言われるような身内への甘さはない。むしろ厳しい。警察学校時代には骨身に染みるまで徹底的した『官』としての教育を施す。
戦前ならいざ知らず、一人の違反は上層部にまですぐに責任が波及し、しかも部外からは不祥事として大々的に責め立てられる。
近年に至っては携帯電話の普及でいつ何を録画されているか分からない時代になっている。一億総監視カメラ。ゆえに警察機構は神経質なほど法を尊守する。法の番人の側が、自ら法で裁かれないために。
だが握った借り物の権力をわが力と勘違いする莫迦者は、一定数、必ず存在するのも確かだった。それが、今回起きた事故を、事件としてややこしくした。
ケイは聡い。49日の間は愛する妹を亡くしたのもあってか、おとなしくしていた。だが彼がひとたび本気になると、その先の展開がどうなるか分からなくなる。危険をも顧みないのならば、独力でも簡単に真相へとたどり着くだろう。そして、それは必ずや最悪の結果をもたらすことになる。
俺はケイの家へ初めて訪ねたときに、こういう質問をした。
『――仮に、の話やけどな。もし、恵ちゃんを害して逃げたやつがどこの誰か、警察よりも早くわかったら恵一くんはどうしたい?』
彼は答えた。ひと言、殺します、と。
ほとばしる呪詛の念。呪いの一部が、いずれへかに飛んでいくのを見る。
ケイの正体はシュブ=ニグラスなのだ。彼が望めばすぐにでも願いは叶う。あのとき飛んで行った呪詛は、十中八九、犯人へ直撃したはずだ。せめて頭髪がハゲる程度ですめばいいものだが、腕の一本くらい腐り落ちても不思議ではない。
だから俺は、ケイに犯人捜しをさせぬように動いた。
出会った時点ですでに形となった殺意を呪いに変換し、放射している。それでも、今はまだ、素粒子よりも小さな力でしかない。本当に微々たるもの。
かの女神の力は宇宙的規模を持つ。幾度か読んだだろう。力を入れてくしゃみをしたら10や20の銀河が吹き飛ぶと。あれは冗談でも大げさでもない。純然たる事実だ。くしゃみ一発、ノータイムで大爆破である。
女神シュブ=ニグラスが恵一くんの身体に馴染むにつれ、累乗的に神気は向上してゆく。数か月もすれば本体と同等の力を振るようになる。そんな状況で本気になればどんな災害が引き起こされるか。考えるだけでも精神強度が軋みを上げる。
放射される邪念と呪いが――
ただ一人の遺恨対象を駆除するために、周辺銀河ごと吹き飛ばす。
あるいはもっと。
蜂の巣の籠目状になった銀河群を丸ごと無に還すかもしれない。
戯れに、始まりの女神が宇宙の一部を消したとしても、甘んじるしかない。
俺はケイを囲い込む覚悟を決めた。この女装の似合う稀有な美少年を。いや、男の娘を。わざわざ屑の一人を滅ぼすために手間をかけさせたくない。
そもそも無価値なのだ。人は、平等に、無価値。
俺は手始めに部の設立を考えた。
アメリカはマサチューセッツ州の、本場のミスカトニック大学やその周辺もたいがい神話生物の絡む事件が頻発していた。それが遥か極東の日本の地にわざわざ事実上の姉妹校たる桐生学園日本ミスカトニック大学を建てる。聞けば、やはり怪異はここ40年程前から度々事件として起きているという。これを利用する。
俺がケイの家に尋ねた際に、電柱の陰からじっと見つめていたあの少女も巻き込めたらいいなと考える。後の矢矧文香である。
ケイの気持ちを、犯人捜しへと、一瞬たりとも逸らさせるわけにはいかない。
上手く矢矧を煽って、ケイと恋人同士になれるように画策する。彼女自身もケイをことのほか愛でていたので実に簡単だった。彼が彼女のように、彼女が彼のように。少々異質なカップルが生まれたが当人同士で納得済みなのでそれはそれで良しとする。別に女の子が積極的に男の子――いや、男の娘を愛してもいいじゃない。
ただし。
そうこう忙しくしているうちに、あまり構ってやらなかったためだろう、へそを曲げた響が家出してしまっていた。これについては俺も多少は悪かったと思っている。それで次に会ったときにはヴェールヌィと改名していた。ヴェールヌィ・ウラジミーロヴナ・ナボコワ。どこのロシア人なんだか。
「――ケイは、可愛いだろう?」
「えっ、う、うん。ちょっとないくらい可愛いと思うよ」
「俺さ、ケイの第二の彼氏になりたい」
「キミヒラお兄ちゃん、わたしの目の前で堂々と浮気宣言するの?」
「お前のことも愛している。つーか、お前だって去年の12月に出会ったイヌガミ少女の時雨環とこに勝手に宿泊してたやんけ」
きさらぎ駅を脱してから、この邪神幼女に初めて出来た『友達』だった。詳しくは記さないが、9月に入ればこのイヌガミの少女は宇宙を跨いで死に死を重ねる定めに呑まれる。そうしてどうなるかは、ここでは語らない。
「別に何もしてないもん。お兄ちゃんが家にいないとき、夜、一緒に寝てただけ」
「嘘はいかんぞー。俺は知ってるからな。苦情を受けたし。寝てる間に、アレ的に口に出せないようなイタズラをされたって。ほんで、半年は来るな言うて」
どんなイタズラかは想像に任せる。ヴェールヌィには悪意というものはないが、その分やることはエグイのだ。無邪気こそ、もっとも邪悪。だが、それでも半年の出禁で赦してくれるというのだから、ある意味とても心の広い少女ではある。
「だって、環お姉ちゃんって優しくて少し意地悪で、可愛くて。それで思わず」
「……まあ、なんにせよ可愛いは正義やろ?」
「うん」
「つまりそういうことやねん」
「うーん?」
「可愛いは正義の恵一くんに、彼の意思を以ってして手を汚してほしくなかった。この辺は俺のワガママでもある。でも反省なんてせえへんで」
「ああー。うんー。お兄ちゃんて、そういう部分は特に人間臭いよね」
「元々は人間やったからな。そして、人間としては間違いなく最強やったが、外なる神としては最弱やった……」
「今は?」
「ティンダロスの猟犬たるセトの性質を利用して、42億回の巡回により神気を貯めて貯めまくって最強だぜ。最悪、この力で
「レブル?」
「せや、レブル250や」
俺達は再び食事を開始した。辛い。部屋はエアコンを十分に利かせているはず。が、額といい首元といい汗だくである。ソムチャイさん、ちとこれ、マジ激辛。
愛犬のセトも夕食中だった。出してやると狂ったように喜ぶ高級犬用フードを腹一杯に食べてご満悦だった。ちなみにブラックレーベルである。
食後はダラダラと過ごす。そして仲良く風呂に入って汗を流す。
風呂から出たらなぜか妙に甘えてきたので、マッサージをしたりしてもらったりした。やがて二人、ベッドで仲の良い兄妹のように身を寄せ合って眠った。
後に逮捕されたくだんの犯人は、ケイが殺意と共に放った呪いの影響でなんと男の一物を丸ごと腐り落としていた。
まさかあの殺意が男としての終了をもたらすとは。
しかも逃亡生活で強度のストレス下に苛まれたらしく、頭部を無残なほどまだらにハゲ散らかしていた。まるで、落ち武者の亡霊みたいだった。
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