第55話 エピローグ『笑う道化とスカイブルー』

 8月30日、金曜日。快晴。


 今日も朝8時の時点で気温は30度近くになっている。淡青の空が広がり、成長し続ける積雲が行く。まるで太陽に吸い上げられそうな気持ちだった。


 僕と響は犬先輩の住む職員寮から学園へと向かっていた。

 犬先輩は少し離れた位置で、西博士ドクターウェストとスマートフォンを使って先ほどから何やら専門用語の飛び交う会話をしながら歩いている。


 これから学区内を走る無料巡回バスに乗り、途中、文香と合流して登校するのだ。


 すでに二学期は、8月19日より始まっていた。


 桐生学園日本ミスカトニック高等学校はさすがに国内有数の進学校だけあって新学期が始まった即日に学力テストがあり、さらに次の日からは当然の如く七時限の授業があった。学業に部活にとそれなりに忙しい毎日だった。


 ときに、連れ帰った響には愛宕家の育みさとごになってもらった。


 新しい家族である。

 YESロリータ、GOタッチである。

 毎日ぷにぷにの、ママだぁい好き、なのである。


 僕は女神の力を使って役所のデータベースから戸籍をこっそり創出し、彼女には新たにおおとりという姓を与え、凰響おおとりひびきとして社会生活できるよう整えたのだった。


 一巡前の世界へ飛ばされた、あの日、あのとき。


 紆余曲折を以って無事元世界に帰還すると、珈琲館コノハナサクヤの店長室では犬先輩と文香とヴェールヌィが僕を出迎えるためにわざわざ待ってくれていた。


「おかえり」


 このひと言がどれほど僕は嬉しかったか。しかし感動もひとしお、犬先輩にくっついてきたヴェールヌィがじぶんを見て素っ頓狂な声を張り上げていた。


 にゃああっ! とか。

 やはりナイアルラトホテップだから『にゃあ』なのか。


 それはともかく。


 因果律が乱れるとヴェールヌィが怒り、対する響は自分はもうママの娘だから関係ないとすまし顔で対抗する。元の巡回宇宙へ帰れ嫌だともみ合いへし合い、子どもっぽくクロールパンチの応酬の末にやがては同じ顔を突き合わせてにゃあにゃあと相談を始めたかと思うと、すぐに落としどころを取り成したようだった。


 曰く、響はシュブ=ニグラスの娘に実質的に立場を変えクラスチェンジ、僕の許可を得て混沌の顕現体にして原初の闇を継ぐお子様ボディの大地母神リリスにその身を改めた。


 併せて響がいた一巡前の世界には本体たるナイアルラトホテップに干渉し、意外と面白がって協力的な御本尊の神気を以って彼女と同質の憑依顕現体『ディカブリスト』を一体送り込ませ、これをもって因果律の帳尻合わせとする。


 あの日、犬先輩は前世界から受け継いだ記憶を元に立ち回り、僕が鈴谷孫七郎によって一巡前の世界に飛ばされることを知った上であえて放置――というのもそうしないとアザトースの観測に予測不能のひずみが起こりかねないので、その後、彼は古鷹店長を言いくるめと記憶を操る魔術でうやむやに、欠員となった僕の代わりにメイド衣装の女性店員に化けてアルバイトをしてくれていた。唯一気がかりなのは、性癖を歪められた女子寮の面々に顔が割れているという事実だった。


 さらに犬先輩は、僕のスマートフォンのプロバイターそのものにハッキングをかけ、それは言うまでもなく犯罪行為なのだが目を瞑るとして、なりすましで友人宅に今日は泊まる旨を父に伝えて問題が起こらないよう取り計らってくれていた。


 文香は、彼女が一番大変だった。後になって響を連れているのは僕の意思と知って大変立腹し、ヘソを曲げてしまったのである。それはもはや文香の実家へ出向いて、武闘派集団の恐ろしい阿賀野一族の前で彼氏宣言するまで決して機嫌が直らなかったほどだった。その後、文香と僕は、滅茶苦茶セックスした。


 こうして僕は、受難に近い夏休みを乗り切り、なんとか新学期を迎えたのだった。


「――ごめんね。西博士が研究の手伝いに来いってうるさくって」


 犬先輩は柴犬のセトを伴って、たたたと小走りに僕と響に追いついた。


「天才科学者が二人して、今度は何を研究しているんです?」


「ふふ。なんだと思う? 守秘義務があるんだけど、ケイちゃんは特別だから教えてあげる。人工セイレイを試作してるのよ。それは、魂への第一段階でもある」


「セイレイって、四大元素系ですか? アダブラカダブラ系ですか?」


「そうね、どちらかというと父と子と聖霊とアダブラカダブラ、のほうね」


「人造の神を創出し、そこから魂を抽出するのですね?」


「ええ、その通り。相変わらずケイちゃんは一の言葉で十わかっちゃうわね」


 先行して語らせてもらえば、五年後、彼らはなんと本当に人造の神を創造し、魂の抽出に成功してしまうのだった。コードネームはUV――ウルトラヴァイオレット。最も尊き者の意を込めた、二人の天才によって創出された奇跡のそれ。だがあろうことか魂は逃亡を図り、今後生まれ出る赤子の中に埋没してしまう。そう、新しき宇宙、目覚めしアザトースとなる赤子の中に。


 ところで、犬先輩の言葉遣いに違和感を覚えないだろうか。


 彼は今、女子生徒に化けていた。違和感なく、あまりにもごく自然に。


 変装のきっかけとなったのが、僕が一巡前の世界に飛ばされたあの日、気を利かせた犬先輩が代理でアルバイトの穴埋めをしてくれたところにあった。


 彼はその内実を知らなければまず気づかれない完璧な女装で優雅に働いてくれた。本当に、下腹が熱く疼くような美人さんなのだった。しかしこの春に起きた女子寮変質者侵入事件での潜入捜査した際に、女子寮の面々に正体が割れてしまったのが良くなかった。しかもほぼ全員、彼が内包する本性に毒されていた。


 要するにバレたのだ。くだんの事件潜入捜査時に、彼の甘美優雅な変装に気づかず同性愛的な感情を密かに抱いて恋愛自爆した、女子寮のとある寮生に。


 彼女の名前は仮に瑞鶴ずいかくさんとしよう。


 アルバイト代行を終えて帰宅しようとする犬先輩の後をつけ、そして捕まえた瑞鶴さんは、彼に詰め寄った。あなた、また誰かを騙すつもりなのね、と。騙すも何も女装犬先輩に勝手に恋愛感情を抱いて自爆したのは彼女なのだが。


 しかし犬先輩も僕が失踪するこの日こそ自らの運命への最重要な時期であって、そちらに気を取られていたのだろう。焦った彼はポロリと漏らしてしまった。


「俺は代行で、今日明日バイトするだけだから」


 瑞鶴さんにはそれで十分だった。彼女は夏休みに入ってからというもの、珈琲館コノハナサクヤへは毎日やってきていたのだった。あろうとことかメイド服で女装した僕=メグに密かな同性愛感情をもって。


 さらに悪いことに彼女は僕のアルバイト初日の、犬先輩を店長室へ連れ込んだ様子を目撃していたらしい。過程を端折るが、僕がメグだとバレた。


 実のところ瑞鶴さんの恋愛嗜好は女の子同士の同性愛ではなく、文香の持つ独特の性癖に類するものだった。


 しかも犬先輩の一件で女子寮の面々は女性としての矜持はぼろぼろに、ほぼ全員の性嗜好が歪められていた。さすがは混沌の権化である。瑞鶴さんから端を発し、姉の翔鶴しょうかくさん、先輩の赤城・加賀さんと、僕の情報は寮中に広がっていく。


 あの、世界を跨ぐ出来事を境にしてからというもの、いつに増して女子寮の面々が増えたと思ったのだ。とはいえ夏休みの期間中である。売れ筋商品であるモーガン船長のひみつバターサンド目当てに学園生徒も学区内の店を訪れることもあるだろうと思っていたら、本当のところは、僕のメイド姿を鑑賞しつつお茶をするのが目的だったとは。なかなか、こう、楽しみ方が人生の上級者だと思わないだろうか。


 男の娘メイドの働く姿なんて、見ていて何か楽しいのか。まあ、うん、楽しいのだろう。僕としても犬先輩が完璧な女装で給仕する姿とか見てみたいし、なんなら一緒にアルバイトしても良いし。一見して二人は女の子。でも、実は……とかね。


 そうして新学期、実力テストを終えた僕ら探索部は部室へ移動中、かの『姫君プリンセス』より生徒会室へ来るよう呼び出しを受けたのだった。


 部屋に入ると、そこには女子寮の女の子達が四人いた。先立ての瑞鶴さん、翔鶴さん、赤城さん、加賀さんである。何やら代表でやってきたのだという。


 経験則と勘が僕に語りかける。嫌な予感しかしない、と。


 彼女らは皆、妙に緊張した表情をしていた。後から聞くには、文香も寮生だが、彼女らの様子の変化には一切気づかなかったそうだ。


 というのも――。


 毎日メイド姿の僕を堪能し、全意識がそちらへ向いていたとのこと。なんとまあ、文香らしいというか。何がそこまで駆り立てるのか、未だ不明だ。


 女子寮の代表四人曰く、


『週に一度でいいので女子生徒になってほしい。制服一式はこちらで用意します』

『夏休み中、寮内で淑女協定を結び、ずっとあなたのメイド姿を堪能していた』

『ぺろぺろしたいです。ぺろぺろ。ハァハァ、ハァハァ。うっ、イキそう』

『もう見られないのは惜しくて気が狂いそうなので、わたし達を助けると思って』


 なんなのそれ。ホント、なんなのそれ。特に三人目、SAN値は大丈夫? 彼女らは全員、女子に変装した僕が気になって学業どころではないらしい。


 そして思い出した。犬先輩から注意を受けていたのだった。


 彼曰く、古代より両性具有の神が性別の枠を超えた魅力を放つように、シュブ=ニグラスの分御霊たる僕も恵と男女合一を自覚した時点で、人類の魅力限界値APP18を越えてしまったのだという。魅力値、19。しかも20に近い19であるらしい。


 性癖の歪んだ女子寮の面々にとっては特に、僕のような存在は甘い香りを漂わせる妖花であり、彼女ら夢見鳥ちょうちょうが群がるのは必然なのだそうだ。


 文香はひと言、ケイちゃんは純情そうに見えて魔性系だからと、するすると身をこちらに寄せて手は恋人繋ぎにして直球の独占欲を発露させていた。彼女は僕の愛娘、響の登場から今に至り、最近はかなりヤキモキしているらしかった。


 桐生の『姫君プリンセス』はそんな現状を知ってか知らずか、わたしも全面協力するので楽しみましょうね、と良い笑顔を見せた。


「――だからって、無理して犬先輩までつき合わなくてもいいのに」


「そんなわけには。だってわたしが発信元みたいなものだし、良心に呵責が」


 話の流れから展開予測も容易だと思う。その通り、犬先輩だけではなく僕も女生徒の長袖カッターシャツにリボンタイ、丈を短くしたスカート姿なのだった。


 化粧はほぼナチュラル。下着ももちろん少女仕様ガールズ。文香の太鼓判つきで、どこから見ても女の子な可愛い男の娘なのだった。実は、ちょっと違うのだけれども。


 今日は、8月30日の金曜日。


 週一で女生徒になる願いは毎金曜日にと勝手に段取りが決められた。僕の個の意思など多数の願望の前では無力になるが如く意味を成さない。しかもこんな些事で始まりの女神の力を使うわけにもいかない。内なる恵はむしろ面白がっていたし。


 ――だって、可愛いは正義よ? 似合うのならやらないと。宝の持ち腐れだよ?


 わが愛しき妹にしてもう一人の僕自身、恵からの、御意見である。


 そうして僕は、スカートを履く。


 寮の女の子達は理由をかこつけて、僕を眺めて、ときにはスキンシップと称して抱きついて文香に怒られてと、満足と心の安寧を得る奇妙な日々。


 思い立って、僕は犬先輩に微笑みかけた。


「突然ですが犬先輩。僕の胸に、触れてみませんか?」


「え? 胸? ケイちゃんが嫌じゃないのなら触らせてもらうけど」


「ここをこんな感じで……うわ、思ったよりくすぐったいっ」


「ええ……?」


「そ、それで、これ、犬先輩的には、どう思います……?」


「これって。最新のシリコンは本物の乳房にそっくりの触感になっているし、触れた反応も吸着マテリアルの副次的影響で乳首に神経が集中するんだけど……」


「犬先輩って、触れ方、とっても優しいですよね」


「ま、まさか。実物なの……?」


『そうだよー。ママってば、『金曜日は女の子』と決めたんだよ、お兄ちゃん』


「男女モザイク染色体に手をつけたのは、考えのあってのものですけれどね」


 半端をするよりも、いっそ突き抜けたほうがいい。


 内なる恵を思えばこそ、なおさら。


 というのも一巡前の世界へ飛ばされて知った事実に、僕の中で作り出した恵こそ『女神』シュブ=ニグラスであり、僕自身は『男性神』シュブ=ニグラスだからだった。もちろん僕も恵も同一なのでシュブ=ニグラスには違いない。しかし、だからこそ肉体の主導権以前に、僕と恵は、二人三脚でやっていくべきだと思うのだった。


『今の僕は、愛宕恵一寄りの、恵なのである』

『同時に、恵の意識を薄くした、愛宕恵一でもある』


 二つの神格は、共にシュブ=ニグラス。

 僕たちはいつも一緒。

 一対の翼。


「そういう犬先輩だって、自身の特性を使って限りなく肉体を少女化させているんでしょう? その華奢な肩も、豊かな胸も、魅力的な腰のくびれなども」


「本来、わたしに性別なんて無意味なの。今演じている女性人格も、顕現体として戯れに組み上げたもの。でも、だからこそ女性にのみに累々と相伝されるイヌガミを受け入れられたんだけどね。例外中の例外。神性を内包するがゆえに、ね」


 僕は犬先輩の前を歩く彼の愛犬を見た。

 柴犬のセト。中身はイヌガミ。それも最強クラスの。


 機嫌よく尻尾をくるりと巻き上げて歩くこの柴犬こそ、42億回自己を重ねて強化された最強のティンダロスの猟犬なのだった。あと8億回も死を繰り返せば、分御霊のヨグ=ソトースにも迫る存在となっていた。


「それでね、犬先輩。にとって、興味深い提案があるの」


「うん」


「桐生の『姫君プリンセス』を、本物にしちゃわない?」


「ああ、うん。……えっ?」


「葵ちゃんを、ちゃんとした女の子にしてあげたいなと考えているの」


「ケイちゃん……あなた、恵ちゃんに神格をスイッチしているわね?」


「そうよ、犬先輩。人称が変わったでしょう? うふふ」


 これまで桐生の『姫君プリンセス』について、僕はその人称に一度たりとも女性代名詞を使わなかった。姫君という呼び名は、あくまで二つ名としての称号に過ぎない。


 超巨大企業、桐生グループの跡取りたる桐生葵は、GID(性同一性障害)なのだった。『彼』は昨年の文化祭までは僕よりも線の細い男子生徒で、当日に何があったかは不明だが、文化祭後からは女子の制服をまとい、自らがGIDであると周囲にカミングアウトして、『彼女』となっていた。


女神シュブ=ニグラスの力で調べたんだけど、葵ちゃんは現桐生総帥の妾腹の子なのよね。桐生グループには、現在、現総帥の桐生善右衛門の後を継げるだけの才覚を持った人間がいない。だからこそあの子は一代限りの後継ぎとして抜擢されている。ずいぶん勝手な話よね。葵ちゃんを苦しめるGIDは桐生グループにとって非常に都合が良く、次々世代の総帥候補を作る時間稼ぎになるなんて」


「え、ええ。まあ、そうよね」


「葵ちゃんは現総帥の父に、自己の肉体の性認識が一致しないと訴えた。桐生側からとしては後の無用の争いを避ける良い機会と都合よく判断した。そしてあの子は睾丸癌治療と称し、精巣全摘出手術を受けた。凄いのは二次性徴前の9歳のときだったってこと。確かにこの時点で手術をしておけば男性的な身体つきにならなくて済む。性別適合化にはこれ以上なく理想的。桐生としても、後継者問題に『優秀だが妾腹の子。ただし一世代限りの人間』という、人材的『駒』を手にできる」


「妾腹の子はグループには必要ない、と?」


「そう、そんなのおかしいよね。種を植えつけたのは誰よって話。さて、犬先輩。現状を覆してみたくない? 去年、あの子は勇気を振り絞って『男装をやめて本来あるべき姿』に戻った。ならばその身体も、本物にしてあげたいと思わない?」


「まさしく恵ちゃんだわ。混沌のわたしですら引いちゃうレベルの」


「今日、この話を葵ちゃんに持っていこうと思ってるの。証明のため、今この身体は少女に変更済み。乳房はあって、ペニスはない。身体つきも、もちろん女の子。一週間の猶予を与えて、結果はあの子次第。さあ、嵐を起こしましょう」


「うん、待って待って。お願いだからケイちゃんの側へもう少し性格を寄せてくれない? 彼ではない女神としての恵ちゃんの性格は、さすがに怖いかも」


「では恵一モードで。……まあそんな感じで『姫君プリンセス』を応援したいのです。僕は頑張る人が大好きですし。そして桐生グループに嵐を起こし、世界にさらなる混沌を呼びましょう。美しき者はより美しく、賢き者はより賢く、強き者はより強く。繰り返される破壊と再生は永遠に続く黄金時代を築き上げることになるでしょう」


「それ、唯一神を僭称する神聖四文字を殺すゲームの、混沌の魔王のセリフ……」


「たとえば草木も大地に根を張って成長し、寿命が来て枯れて、残った種はその環境に適合した種だけが生え、生き残り、繁栄し、そうやって自然は巡るんですよ」


「な、なるほど。さすがは大地母神というか、なんというか」


「先日、僕はネームド連盟から『金曜日の女神フレイヤ』の二つ名を頂きましたね」


「そのうち『太母グレートマザー』などの二つ名も贈られそう」


『ママはママだから』


「そうだね。僕は響ちゃんのことが大好きだよ」


『えへへ。わたしはママの娘で、太古の大地母神リリスだもんっ』


「幼体だからAPP18なので心配ないけれど、大地母神リリスって本来は魅力値21の見たら死ぬ系の女神なのよねぇ……」


「響ちゃんは今も凄く魅力的ですよ。僕の可愛い一人娘ですし」


 僕ら三人と犬一匹は歩いてゆく。


 ふと、天を見上げた。積雲のゆく、明るい青空が視界一杯に広がっていた。


「犬先輩」


「なあに?」


「僕は犬先輩のおかげで、恵を亡くして一歩も動けなくなった自分を、もう一度奮い立たせることができました。もちろん他の皆の助力もあっての話ですが、やっぱりでも、きっかけでもあり再奮起へのメインとなり得たのは、犬先輩なのです」


「そう言ってもらえると嬉しいわ」


「これから先、僕はこの広い青空の向こうに何が広がっているのか、何が起こっているのかも、簡単に見に行けることでしょう。前に向かって歩いている限り」


「わたしもね、ううん、ここはこう言うべきかしら」


 んん、と犬先輩は軽く喉を鳴らした。


「――俺も、ケイのおかげで助かったんや。キミがいてくれなければ、俺はずっと生き地獄に組み伏せられたままやった」


「42億回の生と死の繰り返しだなんて、絶望ですら枯れ果てそうです」


「そこがまあ俺やから。でもこの先の青空の向こうへ探索する機会をくれたのは、キミあってのもの。歩みの先に何があるか今から楽しみで仕方がないねん」


「ありがとう、犬先輩」


「ありがとう、ケイ」


 感謝しあって僕たちはしばらく無言でいて、どちらがともなく照れくさくなって笑い合った。響と犬のセトが、何ごとかと僕と犬先輩を見上げた。


 笑う道化とスカイブルー。


 自己の分身とも言える妹の死や、絶対的な死の運命を乗り越えた末が二人して仲良く女の子の姿。しかもお互いに良く似合っている。まるで道化。


 だが、それでいい。


 響が言ってくれている。

 僕は、僕だと。

 なので僕も言おう。

 犬先輩は、犬先輩だと。


「うわ、バス停に女子寮の皆が来てますよ。えっ、これ全員乗れるのかな。ああ、文香さんがすっごいこっちに手を振ってる。元気だなぁー」


 通学路の角を曲がった先、僕達が乗車するバス停にはすでに大人数の制服姿の女の子でひしめいていた。しかも全員が女子寮の面々だった。響はするっと僕の身体の陰に隠れた。これは別に人見知りしたのではなく、単に甘えているだけだった。


「うおっ、マジでめっさいるな。ああ違う。姿に見合った声色と言葉遣いに変えんと。あ、あ。こんなものかな。――そうね、みんな勢揃いしているわね」


「女子寮の近くでもバスが停まるのに、わざわざ一個手前に来るなんて」


「仲良きことは何よりも良きことかなって、ね?」


「僕も手を振り返しておこうっと」


「ふふふ。では、わたしも」


 これからも一歩、一歩、前へ。僕達はバス停で待つ皆に手を振り返した。

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