第54話 女神シュブ=ニグラスの帰還


 大阪府千早赤阪村、桐生先端医療大学病院。別名日本ミスカトニック大学病院。その敷地の外れにある、桐生の研究員のための保養施設。


 僕達一行は、その施設のリラクゼーションルームにいた。


 ここから記述する内容は、情報が制限されていると先にお断りを入れたい。


 何を言っているのかわからないと思う。が、そういうものだとどうかご理解を。


 目的はただ一つ、犬先輩にかけられた絶対的な死の運命を解除してもらうため、ヨグ=ソトースの偉大なる分御霊に会いに行ったのだった。


 ああ、またか。


 自分でもわけが分からないし、誰にも読めないと思う。何がというと、僕はこの数行間にヨグ=ソトースの分御霊について詳しく描写したのだった。だが記載はことごとく変容し、かの存在に会いに行った事実のみが残されるのだった。


 どういう原理なのかはさっぱりだが、わかることもある。かの存在は、少なくとも自らについて記載してほしくないらしい。


 なので、かの存在の拒絶に引っかからない程度に、訪れた自分達が何をどうしたのかだけを記載しようと思う。それくらいなら、たぶんかの存在も許してくれると思うのだが、いかがなものだろうか――うん、いけそうね。


 桐生の研究員のための保養施設。そのリラクゼーションルームの一番奥の一番高級な一人掛けソファーでくつろいでいたかの存在は、僕達一行をこれと言って迎えるわけでもなく、薄く目を開いて胡乱気な様子でこちらを眺めていた。しばらくしてあくびをし、興味が失せたのかそっぽを向いて目を閉じた。


 犬先輩は空調が効いて快適な部屋でありながら異様に汗をかいていた。


 それもそうだろう、42億回に渡って自身を殺し続けた、絶対上位にして死の行使者がまさにすぐ傍にいるのだから。彼につき従う愛犬のセトも、彼の脚の陰に隠れてしまっている。このダメ犬っぷりが可愛いと言えば可愛いものだが。


 響もかの存在を恐れて僕にしがみついていた。純然たる力の差というのもあるが、まるで食べ尽くした食事の残骸でも見るような視線に委縮したのだった。


 僕は響を、意外と平気そうな文香に預けて、かの存在に近づく。


「お久しぶりです、。わが夫、窮極の門。全と一、一と全なる者よ」


「……息災のようだな、妻よ。さて、どうしたものか」


 興味なさそうにそっぽを向いたまま、かの存在は脳裏に直接語り掛けてきた。


「単刀直入に言います。南條公平をもう赦してやってください」


「むう?」


「すでに彼は十分に後悔と反省をしています。同時にの怒りもわかります。現宇宙の要請とはいえ、われらが新しき宇宙を抹消しようとした罪、万死に値すると。しかし万死はもはや42億を数えています。万の死どころではありません」


「……うむ」


「あまり意地を張っていると、もう気持ちの良いこと、してあげませんから」


「それは困る」


「なら、赦してあげて」


「……新しき宇宙が生まれるまで、幾度かでもお前がここへ遊びに来ると約束できるなら、そこな愚か者を赦してやろう」


「はい、約束しましょう」


「知っているだろうが念のため言っておく。私は『全てに繋がり、どこにも繋がっていない場所』にいる。だから妻よ、お前がどの世界に行こうと、この場所に来ればお前の知る私に会えよう。約束は必ず守れ。私とてお前がいないのは寂しい」


「はい、


 僕は近寄ってかの存在を抱き上げた。予想以上に大きくて重い。響よりも体重はありそうだ。ソファーに座り、膝の上で、まるで赤子をあやすように撫でる。頬ずりする。うふふ、可愛い。かの存在は目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らした。


 そうして交渉のような陳情は、無事、達成された。


「――あのまま、一緒に連れて帰っても良かった気がします」


「いや、マジ勘弁。恵一くんは神体としては、かの存在の妻やからそういう恐るべき発言を平気でできるねん。42億回殺されてる身としては恐怖でしかないで」


 帰りの車内、以前にも利用した桐生御用達のセダンで送迎中でのこと。僕がふと呟くと、心底ぞっとした表情で犬先輩は拒絶したのだった。彼の罪は赦されたとはいえ、やはり死の絶するところは大きく、これは失言だと僕は反省した。


「でも、ありがとう、な。ほんまに、もう、感謝しかないで……」


 犬先輩は僕の手を取って感謝の言葉を述べた。目が潤んでいた。後々になって感極まってきたらしい。ぼろぼろと涙する彼を抱き寄せ、大丈夫、もう大丈夫だよ、と僕は囁いた。抱き寄せられた彼は、泣きながら頷いていた。


 一度は帰宅すると父と約束していたので、僕は自宅へと車を向けてもらった。父に挨拶し、元の世界に戻るのだ。


 玄関を開けるとずらりと見覚えのない革靴が並んでいた。異変に慌てて中に入る、十人のスーツ姿の男女がリビングで父と何やらを話し込んでいた。


「ああ、ケイ。お帰り」


 開口一番の父の挨拶に僕もただいまと返した。犬先輩はいつものおどけたような笑みを浮かべていた。響は僕と犬先輩の体の合間からにゅっと顔を出し、リビングの人の多さに辟易したのかすぐに顔を引っ込めた。そして僕の後ろ腰に抱きついた。文香は泰然と僕の後についてきてくれていた。後ほど知ったことに、スーツの男女は桐生グループを背景バックに持つ弁護士団であるらしかった。


「キミが南條公平くんだね。テレビでよく見るよ。今回は、ありがとう」


「いえいえ。恵一くんたってのお願いでしたので」


 それにしても優秀な弁護士をこれだけ揃えるのは、いくらなんでも多すぎる気もしないではない。犬先輩に聞けば当初は三人の予定であったらしい。が、彼から七七七十三氏経由で連絡が回ったおかげで過剰なほど戦力増強されたようだった。


 果たして弁護士団はどのような戦略を立てるのか、元の世界でも証拠を握り潰した警察高級官僚を叩かねばならないので非常に関心深い。


 が、今はそれは横に置いておきたい。


 大事なのは、父の表情だ。


 これで良かったかどうかはわからない。しかし父の顔には活力が戻り、活き活きと弁護士団の人たちと話をしている。たぶん、これで良かったのだろう。


「お父さん」


「ケイ」


 ちょっとすみません、と弁護士団に断りを入れて父はこちらへやってきた。


「この世界の僕は亡くなっているのに、混乱しない? 大丈夫?」


「その辺りも南條くんが上手くやってくれているらしい。認識阻害の魔術、だったか。ケイを認識はすれど、意識はできないらしい」


「同一存在の僕が言うのもおかしいのですが、僕達の仇、取ってくださいね?」


「任せておけ」


 頼もしい父の態度に、僕はこみ上げてくる涙を抑えて父に抱きついた。


「お父さん。こんなことしかできなくて、ごめん」


「何言ってんだケイ。自棄になった俺を、ちゃんと蘇らせてくれたじゃないか」


「今度は、普通に帰ってきてもいいよね?」


「ああ、いつでもお前を待ってる」


「じゃあ週末に帰るから。ちゃんと男の子の姿で帰るから」


「ああ。でもその格好もよく似合っているぞ?」


 もう少し父と語り会いたかったが、弁護士団を待たせるわけにもいかず、楽しみは今度の週末に持ち越すことにした。今の僕は自己の本質を自覚するまでのかつての自分とは違う。その気になればいつだって世界そのものを跨げるのだ。


 僕は、行ってきます、と父に告げて家を出た。父は、行ってらっしゃい、と背中に声をかけてくれた。そして僕らは最後に向かうべき場所へと移動した。


 その場所とは――。


「思うに、やはり飛ばされてきた場所から戻るのが一番良いかな、と」


「珈琲館コノハナサクヤやな?」


「ええ」


「そういや古鷹店長大丈夫かいな。あの人から変なメールが届いてな。タイトルが『天使降臨』で、矢矧ッちから例あの女の子は実は男の子って聞いて心が大勃起したとか。チンコがなくてわたしが辛い、とかイミフなこと書いてたぞ」


「あははは……。もしかして文香さんが朝言っていた『色々あった』って……」


「ごめん、自分史を大きく揺さぶるような衝撃的出来事だったので。それで二人してハイエースでダンケダンケする方法を真剣に語り合いました」


「それ、誘拐して性的に不埒なことをするって隠語ですよね?」


「うふふ。だって恵一くん、男の娘のあなたを妊娠させたいくらい可愛いもの」


「えぇ……。ま、まあ、コノハナサクヤへ行きましょう」


 ミスカトニック大学校区内に建つ珈琲館コノハナサクヤは、その名の通りコーヒーを飲ませる喫茶店である。


 店員は基本的に女性ばかりで、ユニフォームのクラシカルロングメイド服は、学生陣(特に男子)の股間的好みに直撃するらしく非常に人気が高かった。


 僕は、王様ゲームの勝者、文香の王様命令で夏休みの期間中はコノハナサクヤにてメイド服を着て彼女と一緒にアルバイトをする羽目になっていた。


 戸惑いながらも徐々にアルバイトにも慣れていく。そうして一週間が過ぎた昼下がり、ナイアルラトホテップの顕現体、化身の鈴谷孫七郎に一巡前の宇宙『僕と恵が交通事故で亡くなった世界』へと飛ばされてしまう。


 そして、単独の探索者として元の世界へ帰るために彷徨い、犬先輩や響、文香を中心に様々な人々の助力を経て、これまでの疑問や失われた記憶、自分の正体について、そして犬先輩が背負った死の運命、わが子を亡くし自棄になった父など、諸所諸々を可能な限り会話を通して対策を講じ、解決への努力を惜しまなかった。


 ここは、珈琲館コノハナサクヤの、店長室。


 古鷹店長に事情を話し、不意打ちからのハグキス尻撫でコンボを危うく躱しつつ元いた世界への、帰還への秒読み段階までたどり着いたのだった。いや、あの男の娘イタズラコンボは危なかった。現在、17時15分。店内は空調管理がなされて快適だが外は猛暑だった。真夏の太陽は未だ中天で熱波の強圧をかけている。


「それじゃあ、座標もわかっているので、そろそろ」


 僕はこれまでの探索で協力してもらった皆を見回した。


 犬先輩、文香、響、柴犬のセト。部屋を貸してくれた古鷹店長。父は弁護士団との協議でここにいないが、週末にまた会えるので問題はない。


 本当は店舗フロアでの移動が理想だと思うのだが、向こうの世界からこちらに飛ばされた直後の出来事を考えるに、無用の混乱は避けるべきと店長室からの移動となっていた。部屋を貸してくれた古鷹店長は、勿体ない勿体ないと連呼して不満げだったが、まずそのうち諦めるだろう。何が勿体ないのか知りたくないし。


「ありがとうございました、それではまた機会があればお会いしましょう」


 脳内で魔術演算を組み上げていく。さすがにまだ慣れていないので、その演算速度は七七七式量子コンピューターの二乗程度である。あの量子マシンは、目覚めたアザトースのわれらが主を搭載することにより、真の力を発揮するようになる。


 別途に流している秒読みと、世界を跳躍する魔術演算を同期させる。


 10、9、8、7、6、5――。


 これから事象の地平線を超え、剥き出しのリング状特異点を抜け、そこから金平糖状に伸び縮みする宇宙から一度脱却、飛び越えてゆくのだった。


「響ちゃん。ほら、早くこっちにおいで。僕と一緒にいたいのでしょう?」


「――うん、ママ!」


 響は喜んで僕に飛びついてきた。昼間、彼女はトイレの前でこう言った。わたしを見捨てないで、と。幼い子どものように不安を募られての懇願だった。


 今し方まで、彼女は帰還しようとする僕を泣きそうな顔で見つめていた。その本体は混沌の邪神、ナイアルラトホテップ。やけに大人しいのでもういいのかと思っていたらそんなことはなかった。あるいは、異端の子。神でありながら、神ではない。彼女の心は混沌の神以前に、小さな、まだ親の体温が恋しい女の子だった。


 そう、子どもの一人や二人、どうにかできなくて何が原初の大地母神だろうか。


 5、4、3、2、1――。


 めまい。


 僕と響は、宇宙そのものを跨いで、一巡後の元の世界へと跳んだ。

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